NHK大河ドラマ 「真田丸」がなかなかの好スタートを切っておりますが、坂城に関係する人物がどのように登場するかも楽しみに見ています。
先週(3月20日)は村上氏の家臣であった、室賀正武と出浦昌相(いでうら まさすけ)が登場し、真田昌幸暗殺計画に絡んで重要な役割を果たしました。 しかし、室賀正武が出浦昌相により殺害されると言うのは坂城の住人とするといささか辛いものがありました。
私は坂城町上平(出浦)地区に住んでおります。 まさに、出浦城があった自在山(岩井堂山)の麓です。
千曲川右岸から見た、自在山(標高約800m)、右は頂上の城址
さて、今回、「坂城の100人」の第48人目として、出浦昌相を取り上げます。
NHKの大河ドラマでは、出浦昌相役を寺島進さんが演じていますが、誠に渋く、素晴らしい演技ですね。
寺島進さん NHKホームページより
(以下、出浦昌相について、ウィキペディアその他のインターネットホームページなどより引用)
出浦昌相(盛清)いでうら もりきよ、天文15年(1546年) – 元和9年(1623年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
村上氏、真田氏の家臣。主水佐、上総介(守)、対馬守。
信濃国埴科郡坂城町出浦の生まれ。
実名は昌相(まさすけ)。幸久(ゆきひさ)・頼幸(よりゆき)とも伝わるが誤伝である。
清和源氏信濃村上氏の一族である出浦清種の次男とされ、更級郡の上平城主(出浦城主)や、上州岩櫃城代などを務めた。
江戸時代後期に松代藩の家老を務めた河原綱徳が記した『本藩名士小伝』の記載に甲州透破(忍者)の棟梁とあり、忍者として知られるが、後述の忍城攻めにおける活躍を「忍」と誤伝された可能性が指摘されている。>
村上義清が武田信玄に敗れ、越後に逃れると武田家に臣従し、甲州透破(忍者)を統率した。
武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は撤退に協力した。
長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。>
その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。
更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。
横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。
天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。>
松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。
この頃は出浦対馬守を称している。
関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡の群馬原町に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。>
子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている。
また、真田信之が松代へ転封となるさいに、出浦昌相宛てに出した書状は信之が家臣たちに心配しないように気遣った貴重な書状と言われています。
「元和8年(1622)10月13日 出浦対馬守宛真田信之書状」(「おぎはら植物園」ホームページより)>
真田氏が上田から松代へ移されたときの情況を知る、二つとない貴重史料。
上田から江戸に呼び出され、松代へ転封を命ぜられた信之が、帰国の途中、鴻ノ巣宿より、その家臣出浦昌相に宛てた書状である。
本文の中では、過分な領地を拝領しての松城(松代)移封を、将軍直々に命ぜられ、誠に幸せの至りであると述べながら、追って書き(尚々書き)では、もはや自分も老後に及び、上意でもあり、子孫のためでもあるから、命令どおり、松城へ移ることにする、心配しないでほしい。と記している。この追って書きの部分が、信之の本心でもあろうか。
真田氏はもちろん、家臣団も先祖以来の地を離れざるを得ないわけで、彼らにもかなりの動揺があったものと思われる。それを配慮しての附記でもあろう。
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長野市松代 矢野磐氏蔵>
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尚々、我等事もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ松城へ相移る事に候。様子に於ては心易かるべく候。以上。
去る十一日の書状鴻巣に参着、披見候。
仍って今度召しに付いて、不図参府仕る処に、河中嶋に於て過分の御知行拝領せしめ候。殊に松城の儀は名城と申し、北国かな目の容害に候間、我等に罷り越し御仕置き申し付くべきの由、仰せ出だされ候。彼の表の儀は拙者に任せ置かるるの旨、御直に条々、御諚候。
誠に家の面目外実共に残る所なき仕合せにて、今十三日鴻巣に至って帰路せしめ候。
先づ上田迄罷り越すべく候間、其の節申すべき事これ在る儀、一角所迄遣わされ候。祝着に候。猶、後音を期す。謹言。
伊豆守
十月十三日 信之(花押)
出浦対馬守殿
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坂城の出浦昌相はこの戦国期に78歳まで生き延び、長寿を全うしたのですからすごいことですね。
坂城町長 山村ひろし