8月15日(木)、7月にリニューアルした町文化センターで「第69回 坂城町二十歳のつどい」を開催しました。
町内では、平成15年4月2日から平成16年4月1日生まれの125名が20歳を迎えており、そのうち101名の皆さんが式典に出席されました。
式典が始まる前の受付では、数年ぶりの仲間との再会に嬉しさいっぱいに抱き合ったり、笑顔で近況を報告しあっていました。
式典では、まず、戦没者の方々への追悼と世界の平和を祈るため黙祷が行われ、その後、二十歳のつどい実行委員会代表の榊原陽太さんがあいさつしたほか、中学校時代の担任の先生からお祝いの言葉や歌が20歳を迎えた皆さんに贈られていました。
また、今年は、各小学校や中学校時代の写真や動画を集めた「二十歳のつどい記念動画」が作られ、動画が流れると、嬉しさや恥ずかしさ、懐かしさなどの「きゃあ~!!」という歓声が会場中から起きていました。
20歳!おめでとうございます!
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以下は、山村からのメッセージ。
「令和6年。諸君はこの時代にどう生きるか。」
二十歳の集いにご参加された皆さん、本日は誠におめでとうございます。元気いっぱいの皆さんに今日、お会いできることを何よりうれしく思います。また、今日まで暖かい愛情を持ってお子さんを立派に育て上げられたご家族、保護者の皆様に心より、お祝いとお喜びを申し上げます。 かさねて、本日、ご多用のところ本式典においで頂いた、滝沢議会議長殿をはじめ多くのご来賓の皆様に御礼申し上げます。さて、坂城町ではかねてより、成人式を毎年、終戦記念日に開催しています。また、以前は1月の成人の日に開催していたこともありますが、冬、雪の中での開催が難しい場合がありました。一方、8月の開催ですと、お盆の時期で皆さんが帰省しやすい時期であることと、8月15日の終戦の日にあたり、あらためて命の大切さ、平和の大切さ、国のあり方などを考える良い機会になることで、二十歳の集いとしても本日の開催としています。
さて、今年度の対象者数は125人で、そのうち80%にあたる、101名の方にご参加いただきました。
皆さんは今日の二十歳の集いを迎えてどのような心境でしょうか。 皆様の中では、すでに社会に出て働かれておられる方、学生の方、働きながら勉強をされておられる方がおられます。
また、坂城の中で家業を継がれておられる方、遠く坂城を出て活躍されておられる方々などいろいろな立場で本日おいでになっておられると思います。久々に懐かしい方々との旧交を温められ、心躍る感傷に浸っておられる方々も多いかと思いますが、折角の節目でありますので、皆さんが成長されたこの20年間を、お世話になった方々への感謝の念をも抱きながら種々思いをはせていただきたいと思います。
今年は坂城町で開催される、第69回目の式となります。また、本年は戦後79年目の年となりました。本日は、二十歳の集いを迎えられたこの機会に、今、この時代にどう生きるかについて考えていただきたいと思います。
皆さんとともに過ごしている、この時代は、まさに、近世の「大転換期の時代」と言われています。近世の大転換期と言えば、今まで、2つありました。まず、何といっても明治維新です。それに続くのは、第二次世界大戦での敗戦です。
まず、1868年の明治維新からは今年で、約160年になりますが、明治維新から昭和22年、1945年の敗戦までが約80年、敗戦から今年までも約80年となります。
明治維新から欧米に追い付け追い越せで結果的に太平洋戦争に突入し、敗戦をし、戦後の復興をし、現在に至るまでに見事に左右対称になったわけであります。
そして、また、今、我々の暮らしているこの時代は、今までの価値観が一掃される大転換期と言わざるを得ません。
ロシアがウクライナに対して侵略を始めて、早や、2年半、その間には、イスラエルとパレスティナの紛争など、かつての安定的な世界平和の維持が難しい状況となっています。
このような混沌とした時代こそ、これからの皆さんの活躍が期待される時代となってきました。 この大転換期のなか、皆さまの大活躍を期待せざるをえません。
さて、今年は令和6年です。
一般的に公表はされておりませんが、この「令和」の命名者とも言われている、中西進さんによれば、この「令和」の和は単なる平和ではなく、大和の和だとおっしゃっています。 従って、令和の意味は厳かな平和と言うことだけでなく、「厳かな、立派な日本」と言う意味になります。この意味を皆さんともう一度、深く考えたいと思います。
さて、私の大切にしている言葉に「意味のある偶然」という言葉があります。
これは私が使い始めて、いろいろな機会にお話しています。
人は毎日、毎日いろいろな人と「偶然的出会い」を続けています。
皆さんの多くは、この坂城町で生まれ、育ちました。
そして、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、あるいはいろいろな職場で毎日、いろいろな人と「偶然的な出会い」を続けています。
しかしながら、この「偶然」を単なる「偶然」として送りすごすか、自発的な能動的なアクションをとることにより「意味のある偶然」にするかどうかはその人の人生にとって大きく意味合いが違ってきます。
毎日毎日、刻一刻と「偶然的な出会い」が皆さんの前に訪れます。
これからの人生にとって、この「偶然的な出会い」を「意味のある出会い」にするよう心がけていただければと思います。 いくつか関連したお話をします。
まず、皆さんよくご存知の、日野原重明さんが、一昨年105歳でお亡くなりになりました。日野原先生は100歳を越えても現役の医者として活躍し、たくさんの本をお書きになったり、ミュージカルの脚本をお書きになったりしていました。
日野原さんは生前「命」について、いろいろな講演会、著書で述べられていました。
それは、「命」とは何かです。
日野原先生は常に、「皆さん、皆さんの命は見えますか。」という問いかけをされます。
命は見えません。「命」とは皆さんの持っている「時間」のことだというのですね。死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまうわけです。
したがって、一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。
さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい。ということです。
さきほど、私が申し上げた「意味のある偶然」も含めて、それを意味のある「時間」として使っていただければということですね。
また、私は、毎年、成人式に際して、「命」の大切さについてお話をしています。これは毎年同じ話をしています。
皆様方は、ご両親から頂いた「命」の大切さについてどう考えておられるでしょか。
昨今、毎日のように悲惨なニュース、それも今までは考えられなかったような事件が発生しています。
皆さん、私は「命」は大自然からお借りした大切な「宝物」だと思っています。
皆さんの命は皆さんのご両親が突然作り出したものではありません。皆さんのご両親、ご両親のご両親、どんどん遡れば地球誕生から約46億年、太陽系の起源から考えれば約130億年前から営々と皆様のDNAが脈々と続いてきているわけであります。
大自然からお借りした「命」を立派に、立派に磨き上げ再び大自然にお返ししなくてはならないのです。
仮に、皆さんが友人からゲーム機を借りたとします、これを傷つけたり、ベタベタに汚して返したら皆さんの友人は何と思うでしょう。
借りた時以上に見事に磨き上げピカピカにして返したら皆さんの友人は何と喜ぶことでしょう。皆さんの「命」もこのようにピカピカにして命を全うし、大自然にお返ししなくてはならないのです。
今から80年前、戦時中では成人するということは即、戦場に行くということでありました。敵と戦うということでありました。見も知らぬ人間の命を奪う戦いをせざるを得ないということでもありました。今日、この際にもう一度皆様方各々で皆さんの「命」の大切さについて考えていただきたいと思います。
最後に、大人が子どもの命を救ったという話です。 また、ポーランドと日本に関わる話です。
ことし、10月に坂城町とポーランドのツェレスティヌフ郡と友好協定を締結する予定になっており、ポーランドへお邪魔する予定になっている関係もありますので、以下お聞きください。
新型コロナの流行する前でしたが、ポーランドのワルシャワで日本語学校を経営されておられる、坂本龍太郎さん経由で、ツェレスティヌフという郡のウィトルド・クウィトフスキーさんという郡長さんから、坂城町との間で「パートナーシップ協定」を結びませんかと言う申し入れをいただきました。
坂城町では10数年前から、ワルシャワ日本語学校の生徒さんのサマープログラムとして、ホームステイの皆さんを受け入れていました。
この学生さんたちはわずか2~3年日本語を勉強しただけなのですが、皆さん素晴らしい日本語を話しますし日本の文化、歴史など大変詳しい方々で、大の親日家です。
これからお話しするのは、日本ではほとんど知られていない近現代史の秘話、「シベリアにいたポーランド孤児を日本が救った。」と言う物語です。
これは、約100年前の1918年(大正7)から始まった当時の日本陸軍による「シベリア出兵」最中の出来事です。
まず、なぜシベリアにポーランド人がいたのだろうかということですが、ポーランドは、ロシア・ドイツ・オーストリアという強大な隣国に分割され続け、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で形式上独立するも、ロシア皇帝が君臨するという実質上のロシア領であり続けたわけですが、ポーランド人は決して屈することはありませんでした。
19世紀、ポーランド人は真の独立を勝ち取るべく二度にわたって帝政ロシアに対して独立戦争を挑みました。しかし、蜂起は鎮圧され、さらに蜂起に立ち上がった多くのポーランド人は政治犯としてシベリアに強制的に送られました。
その後、第一次世界大戦で戦場となったポーランドの人々がシベリアに逃れ、シベリアのポーランド人は15万人から20万人に膨れ上がりました。そんな最中の1917年にロシア革命が起き、翌年1918年に第一次世界大戦が終結してようやくポーランドは独立を回復します。
しかしながら、シベリアのポーランド人は、ロシアの内戦で祖国への帰還が困難となり、それどころか生活は困窮を極め、餓死者などが続出したのだった。
そんな同胞の惨状を知ったウラジオストク在住のポーランド人が彼らを救済するため「ポーランド救済委員会」を立ち上げた。そして彼らは、せめて子供達だけでも救って祖国へ帰してやりたいと欧米各国と折衝をしましたがことごとく断られてしまいました。
もはや万策尽きたなかで、ポーランド救済委員会はシベリアにいた日本軍ならびに日本政府に救援のお願いをしました。
その申し入れを受けて、当時の外務省は、日本赤十字社に救済事業を要請し、7月5日に子供らの救護活動に入ることを決定します。
ただちに日本陸軍が救援活動に動き出し、救援決定からわずか二週間後の7月20日に56名の児童とポーランド人の付き添い5名を乗せた日本陸軍の輸送船「筑前丸」が第一陣としてウラジオストクの港を出港した。
3日後の7月23日、筑前丸が福井の敦賀港に入港し子供達が上陸するや、日本赤十字をはじめ軍や警察、役場、さらに一般の敦賀の市民までもが孤児たちを温かく迎え入れた。
病気に罹っている子供を治療し、お腹を空かしている孤児らに食事や菓子を与え、そして入浴させて新しい衣服に着替えさせてやるなど、皆が孤児らを慈愛の心で包み込んだのです。
そして手厚く看護されて元気を取り戻した子供達が横浜港から船でアメリカに向かうことになった。ところがそのとき、ちょっとしたハプニングがおきました。ポーランド孤児達が、泣きながら日本を離れたくないと言い出しましたのです。
極寒のシベリアで極貧の生活を強いられ、親を亡くして人の愛情に触れることのなかった孤児達にとって、誰もが親切な日本はまさに天国でした。彼らにとって日本はもう“祖国”になっていたのです。
横浜港から出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、ポーランドの付添人に抱かれて乗船することを泣いて嫌がりました。
埠頭の孤児たちは「アリガトウ」を連発し、『君が代』の斉唱をして幼い感謝の気持ちを表して別れを惜しみました。
だがそれでもまだシベリアにはおよそ2000名の孤児が救援を待っていた。
再び日本に対し救援を求め、日本赤十字も最終的に急を要する孤児約400名を受け入れることを決定、再び陸軍が支援に乗り出しました。
1922年8月、輸送船「明石丸」と「臺北丸」が3回にわけて孤児390名をウラジオストクから敦賀に運びました。もちろんこの第二陣の児童らも前年同様に敦賀の人々に温かく迎えられ、大阪の天王寺に建てられた大阪市立公民病院宿舎に収容されました。
大阪での歓迎ぶりもまた、東京でのそれに勝るとも劣らぬものがありました。
神戸港からの離別風景も同じで、帰国児童一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちも、涙でこの子たちの幸せを祈りながら船が見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。
この8回にわたる救済活動で、合計765名の子どもたちが救われました。
しかし、この物語はこれで終わりではありませんでした。
平成7年(1995年)、阪神淡路大震災が起きました。この際に、ポーランドの人々は、この震災で孤児になった人々の救援に立ち上がります。
平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のかつてのポーランドのシベリア孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましました。
その後も、ポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間もポーランドに招いてくれました。
知られざる日本とポーランドの交流秘話~両国の絆は日露戦争にさかのぼり、その後のシベリア出兵で結果として、765名のポーランド孤児を救援することができた、両国の感謝の応酬は今も続いているのです。
また、2018年11月20日には、このセレスティナウ町に近い、スタラ・ヴェシに「ポーランド・シベリア孤児記念小学校」も設立されました。
2019年には、日本とヨーロッパ一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年を迎えました。 そして、数年前には、シベリア孤児来日100周年を経過しました。
さあ、本日は、皆様で二十歳の集いをお祝いをするとともに、先ほどお話した内容なども含めて、世界の平和、命の大切さなどについて、皆様でディスカッションをしていただければと思います。
令和6年8月15日 坂城町長 山村弘
(参考:「日本ポーランド国交樹立100周年記念誌」、「親日を巡る旅」(井上和彦著)他、多数の資料から引用させていただきました。)
坂城町長 山村ひろし