「老子」続き 第2章から

第2章

    天下皆知美之爲美、斯惡已。皆知善之爲善、斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相較、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

    「天下皆美の美たるを知る、これ悪のみ。皆善の善たるを知る、これ不善のみ。有無相生じ、難易相成し、長短相形し、高下相傾け、音声相和し、前後相従う。」  これはいきなりすごいことを言っています。 

 

   皆さんは「美しい」ものに憧れたりしますね。これは決して素晴らしいことではなくむしろ醜いものだと言っているのです。また、皆さんが「善い」ことと思うことも必ずしも善いことではないと言っているのです。なぜでしょうか。

 物事はすべて相対的なものであり、偏った考え方をしてはいけないということです。物事はすべて「有無」、「難易」、「長短」、「高下」など、お互いに補い合って存在しているのです。又、音楽でも楽器と人の声(「音聲」)が、お互いに補い合って素晴らしいハーモニーをつくり「前後」もお互い尊重しあいます。

「ここを以て聖人無為の事におり、不言の教えを行う。万物作りて辞せず。生じて有せず。為してたのまず。功成りて居らず。それ唯居らず。ここを以て去らず。」

 いわゆる「聖人」といわれるような人は、世俗的な価値感にはとらわれずあくせくしません。「無為」の状態に立ち不言で静かに物事を進めることができるのです。物事が成就してもことさらな説明もせず、そのものを独り占めするようなことも無く、権利を主張するでもなく、何かのポストを求めるでもなく、そこに居座るわけでもありませんし、静かに「道」の有りようを求め続ける。ということです。

 なかなか難しいですが、自分の機軸をしっかり持ち、「無為自然」(作為的なことは行わず、自然に従う)の必要性を説いています。常にこのような心持ちでありたいものです。

坂城町長 山村ひろし

「老子」のこと

私は東洋経営思想家の田口佳史先生とお会いして以来、長い間、「老子」を勉強しています。

    昨日、私と一緒に老子を勉強していた仲間が久々に坂城に集まり、「考老会」を開催しました。(「考老会」は老子を考える会で、「老いを考える会」ではありません。念のため) これから、このブログでも時々「老子」について触れたいと思います。

    老子は今から約2500年前、孔子とほぼ同時期の思想家です。老子は全部で81章の文章を残しています。

前半が「道経」37章、後半が「徳経」で44章あります。全体としては短い文章ですが、論語や聖書などと異なり、弟子ではなく本人が直接記した文章と言われていますので、直接2500年前の著者と対話できるという凄さがあります。

これから、少しづつそのエッセンスをご紹介したいと思います。

   第一章 

道可道非常道。名可名非常名。無名、天地之始、有名、萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

     道の道とすべきは、常道に非ず。名の名とす可きは、常名に非ず。名無し、天地の始めには。名有れ、萬物の母にこそ。」故に常無は以てその妙を観んと欲し、常有は以てその徼を観んと欲す。」此の両者同じきより出でて名を異にす。同じきもの之を玄と謂ふ。玄の又玄、衆妙の門。

     これは第一章の冒頭ですが、いきなり「道というのはこれですよ」。と説明した途端にそれはもう「道」ではないのですよ、と言っているのです。道は宇宙の根源ともいうべきものなのですが、そんなに単純なものではないのですよ。ということです。また、名前というのも名前や肩書にこだわっていては本質を理解できないよ。ということなのです。たとえば同じ布で作られたものでも、こちらは「おしぼり」こちらは「ぞうきん」と言われた瞬間にあたかも異質なものにとらえられてしまいます。肩書や名前にこだわっては本質的なものを見失ってしまうぞ。ということです。そもそも天地の始めには名などはなかったのだから。ということです。

     「老子」はこんな具合に始まります。 今後、折に触れ、少しづつご紹介をしていきたいと思います。宜しくお願いいたします。

     坂城町長 山村ひろし