老子の続き(第12章)

 この章にはしばしば「検欲」というタイトルが付けられます。 つまり、欲望を取り締まる、欲望を抑えるという意味です。

 われわれはいつも一見賑やかな、派手なものに目を奪われがちですが、よくよくものごとの本質を見極めなければいけないということですね。

  

 五色令人目盲。五音令人耳聾、五味令人口爽。馳騁田獵令人心發狂、難得之貨令人行妨。是以聖人爲腹不爲目。故去彼取此。

  

 五色は人の目をして盲ならしむ。 五音は人の耳をして聾ならしむ。 五味は人の口をして爽ならしむ。 馳騁(ちてい)田猟(でんれふ)は、人の心をして発狂せしむ。 得難きの貨は、人の行ないをして妨げしむ。 是をもって聖人は、腹の為にして目の為にせず。 故に彼れを去りて此れを取る。

 

  人が普段なかなか触れることの無い、色とりどりの色彩「五色」を一度に使うと、かえって目がだめになってしまうものです。 同じように五音といって様々な音色を使うと聴覚がおかしくなります。 又、五味といって数々の味を一緒に使うと人の味覚もおかしくなってきます。 乗馬や狩りもやりすぎると人の心を狂わすことになります。 普段なかなか手に入らない宝玉がしばしば人の心を狂わせるのと同じです。 このことからも、聖人と言われる人は実質的なものを重んじ、外見的なものには重きを置かないものなのです。

  

   こうありたいものですが、なかなか現実は気が揺らぐ時がありますね。

  

   坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第11章)

この章は大変興味ある章です。いわば老子の逆説的な考え方に 「はっとする」 ところかも知れません。車のハブ、器、家などの例でいわば 「無用と思っているものこそ有用」 なのだという考え方です。(無用の用)

   三十輻共一轂。當其無有車之用。挺埴以爲器。當其無有器之用。鑿戸牖以爲室、當其無有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。

 

  三十の輻(ふく)は一轂(こく)を共にす。その無に當(あた)りて車の用あり。埴(ち)を埏(せん)して以って器を為(つく)る。その無に當りて器の用有り。戸牖(こよう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。その無に當りて、室の用有り。故に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。

 

  車輪の三十の輻(ふく スポーク)は一つの轂(こく ハブ)に集まります。この中心が空洞になったハブがあるからこそ車輪の役目を果たすことが出来るのです。粘土を練って器を作りますがこの内部の何も無い空間こそが器の大切な役目なのです。戸口や窓をくりぬいて部屋を作りますがこの何も無い空間こそがあって初めて部屋の役目がかないます。従って「有」というのは「無」があってこそ、本来の機能を果たすことが出来るのです。

 

  どうでしょうか、「無の働きを考える」、「無を意識して有を見る」ということを時として考えてみると今までと別の価値観が見えてきます。 あるいは、あなたの回りの人に対しても別の発見があるかも知れません。

 

  坂城町長 山村ひろし 

老子の続き(第10章)

この章では徳を体得した、聖人と言われる人の行いについて述べています。 無為の心で人々を愛し、指導者になっても我が物顔にならない元徳のあり方について書いていますが、なかなか現実の世界では難しいですね。 日本にもこのような指導者が欲しい。

   載營魄抱一、能無離乎。專氣致柔、能嬰兒。滌除玄覽、能無疵。愛民治國、能無為。天門開闔、能爲雌。明白四達、能無知。生之畜之、生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。

  

  営魄(えいはく)に載り一を抱いて、能(よ)く離るること無からん。 気を専(もっぱら)にし柔(じゅう)を致して、能く嬰児たらん。 玄覧を滌除(てきじょ)して、能く疵無からん。 民を愛し国を治めて、能く無為ならん。 天門開闔(てんもんかいこう)して、能く雌たらん。 明白四達にして、能く無知ならん。」 之を生じ之を畜ひ、生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず。 之を玄徳と謂う。 

   

      私たちは聖人のように、精神と肉体を一体化させ心が迷うことの無いようにすることが出来るでしょうか。 気を集中して力を抜き、まるで赤ん坊のように柔軟でいられるでしょうか。 奥深い心の鏡を磨き上げ一点の曇りない心構えでいることが出来るでしょうか。 人々を愛し国を治めてなおかつ無為の状態でいることが出来るでしょうか。 天門を開いていろいろなものを創り出しながら静かに雌のように穏やかでいられるでしょうか。 隅から隅までよく分かっていながらまるで知らないような態度をとることが出来るでしょうか。

 このようにいろいろなものを創り上げ育てていながら自分の物にすることも無く、大きなことを為しても何かを頼むわけでもなく、指導者になっても我が物顔にはならないのです。 これを玄徳と言い聖人の徳のあり方を示しています。

    

    これはまさに、老子の掲げる理想の人物像ですね。

 

  坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第9章)

この章はいわば老子の真骨頂ですね。

節度を持つことの大切さ。七分(あるいは腹八分目)で良いではないか。あるいは後に第33章で出てくるように「知足者富」(足るを知るものは富む)の如く、節度を知り強欲を恥じることの大切さを説いています。また、関連して、出処進退の大切さも述べていますね。ところが、最近は、この「出処進退」について見苦しい政治家が多く、見るに堪えませんね。

   持而盈之不如其已。揣而鋭之不可長保。金玉滿堂莫之能守。富貴而驕自遺其咎。功成名遂身退天之道。

   持(じ)して之を盈(み)たすは、その已(や)むに如(し)かず。揣(きた)えてこれを鋭くすれば長く保つべからず。金玉(きんぎょく)堂に満つれば、之を能(よ)く守る莫(な)し。富貴にして驕(おご)れば、自らその咎(とが)を遺(のこ)す。功成り名遂げて身退くは、天の道なり。

 いつまでも器(うつわ)を一杯にしていてはいけません。刃物をぎりぎりに鋭くしてもいつかは折れてしまいます。たくさんの宝玉を蔵に持っていても、いずれは襲われてしまいます。大金持ちになって驕る様になるとかえって問題を残すことになります。功成り名遂げたならば速やかに身を引くのが道理というものです。
 
 以上。
 
 坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第8章)

この章では、「道」のあり方について、水を例えにして述べています。冒頭に「上善若水」(じょうぜん みずのごとし)という有名な一節が出てきます。お酒の銘柄で有名ですが、ここはお酒の話ではありません。水のあり方の素晴らしさについて述べていますが、先の大震災を思うと時として大変な力を持つ水についても考えさせられます。

  上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。

  上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。水善(よ)く萬物を利して争わず、衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に居る。故に道に幾(ちか)し。」 居には地を善しとし、心は淵(えん)なるを善しとし、与(あた)ふるには仁なるを善しとし、言はは信なるを善しとし、政は治(おさ)まるを善しとし、事には能なるを善しとし、動くには時となるを善しとす。」  夫(そ)れ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)無し。

 最高の善、「上善」といわれるものは何ですかと言えば、それは水と言えます。水はあらゆるもののために働き、争うことはありません。又、皆の嫌がるような低いところに収まっています。まるで道を実践しているようです。
 住む場所としてはしっかりした土地の上を良しとし、心持は深く深淵を良しとし、他に対しては情け深いのを良しとし、言は信義をもってすることを良しとし、政(まつりごと)は平和に徹することを良しとし、事をなすには最善を良しとし、最適なときに動くのを良しとします。 このようにすべて水のように、争わぬことを心がけることが大切です。このようにすれば間違いを犯すこともありません。
 
   
    老子の第78章でも水について述べています。 そこでは、水の柔らかさについて触れていますが、同時に強さにおいても水に勝るものはないと書いています。(「天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫し。而も堅強を攻むる者、能く勝るあるを知る莫し。」)
 何千年の長きにわたり、千曲川と対峙してきた坂城の人々にとって老子の水に対する考え方について大いに考えさせられませんか。
 
   坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第7章)

この章ではいよいよ老子の本質的な部分に入っていきます。それは「私心私欲」を持たない世界です。

老子には後世、副題が付けられましたが、この章には「韜光(とうこう)」というタイトルがしばしば使われています。「韜光曖跡(とうこうまいせき)」という言葉があります。これは「光を包みおさめて跡を晦(くら)ます」という意味ですが、わが身を人の外側におきながらそれでいて自ずから人に招かれてその場にいる、というような無為自然の立ち振る舞いについて述べています。人前にしゃしゃり出るのではなく、自然に多くの人から推挙され自然に人々のリーダーになることの大切さについて述べています。なかなか難しいですね。

 

   天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長久。是以聖人後其身而身先、外其身而身存。非以其無私邪。故能成其私。

 

    天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生きんとせざるを以てなり。故に能く長久なり。」是を以って聖人は其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。其の私無きを以てに非ずや。故に能く其の私を成す。

 
天は永久であり、地もその果てるところを知らない。天地がこのように永遠で長く続くのは自らが無為であり、ことさらに生きようとしていないからです。だからこそ長く久しく続くのです。このように見てみると聖人は自ら表立って前に出ないのに人から推され、常に中心部にいようとしているわけでもないのに中心的存在となっている。これは私利私欲を持たず無為の状態でいるからこそであり、結果として物事を成就することが出来るのです。
 
以上。
 
坂城町長 山村ひろし

 

老子の続き(第6章)

 この章では道の源泉を昏々と水の出ずる谷に喩え、さらに生命の源である女性に喩えて説明しています。いわば、道の働きを ”動態的創造活動” としてとらえています。

 
谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。
 谷神(こくしん)死せず、是を玄牝(げんぴん)と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。綿々と存するが若く、是を用ふれども勤れず。
 
道のおおもとは谷の神の様です。いつまでもたえることなく水を湧き立たせています。これはまるで神秘的な女神のようです。この神秘的な女神がものを生み出す女陰を玄牝(げんぴん)の門と言い天地の根源のようであると考えられます。この様に道の根源からはいつまでもいつまでも絶えることなく溢れ続けるのです。 
 
  坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第5章)

第5章です。

ここでは大自然の働き、自然の道理、無為の大切さについて述べています。

  天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。天地之 、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮。不如守中。

  天地不仁、萬物を以て芻狗(すうく)と為す。聖人不仁、百姓(ひゃくせい)を以て芻狗と為す。
天地の間、其れ猶(な)お藁籥(たくやく)のごときか。
虚にして屈(つ)きず、動きて愈々(いよいよ)出ず。
多言は数々(しばしば)窮(きゅう)す。
冲(ちゅう)を守るに如(し)かず。

大自然は自然の道理に従っています。従って、仁とか愛とか言うレベルで動いてはいません。万物をあたかも芻狗(すうく 藁で作った犬)のように使い捨てにするものなのです。聖人もおなじように人々を芻狗のように扱います。つまり、ことさらに甘い言葉を使ったりオベンチャラを言ったりはしないのです。常に無為の状態で人々を自然に扱うのです。天と地の間は無限で、あたかも鞴(ふいご)のように中は空っぽでもいくらでも空気があふれ出てきます。一見、温かいうわべの言葉には注意をする必要があります。多言は慎み無為の状態を保つことが大切です。

 以上。

坂城町長 山村ひろし

老子のつづき (第四章)

今日は老子の第四章を見てみましょう。

   道冲而用之、或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子、象帝之先。

    「道は冲(ちゅう)にして之を用ふるも、或(ひさ)しく盈(み)たず。淵として萬物の宗に似たり。その鋭(えい)を挫き、其の紛を解く。其の光を和らげ、其の塵に同ず。湛として存するに或るに似たり。吾、誰の子たるを知らず。帝の先に象(に)たり。」

   「道」は誠に大きな存在で、大きな大きな空洞のようなものですがその働きは無限で、尽きることはありません。深々としていて万物の根源のようです。また、何か目立っているわけでもなく、何事でも解決してくれるのです。穏やかな光で塵のように静かにじっとしています。 あるいは深く湛えられた水のように泰然としています。私はそれが誰の子なのかということは知りませんが、大昔の天帝のさらに祖先のようにも思えます。

ここでは、大宇宙、あるいは大自然の根源、「道」について別の言い方で表現しています。

「道」はとてつもなく大きな存在であるけれどもごく自然に何事も解決してくれるものだと言っています。目立つわけでもなく、まさに無為自然に物事を解決してくれるようです。静かに落ち着いているさまを「光を和らげ、其の塵に同ずる。」とも言っています。(和光同塵) なかなか人の行いとしてこういう行動はとれませんね。

 坂城町長 山村ひろし

老子の続き 第三章から

今回は第三章です。重要なところなので若干長文ですが全訳します。

   

     不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治。

  

   賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争はざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。欲す可きを見さざれば、民の心をして盗を為さざらしむ。欲す可きを見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治るや、其の心を虚しくして、その腹を實し、其の志を弱くして、其の骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、夫の智者をして敢て為さざらしむ。無為を為せば、則ち治まらざる無し。

   政治家あるいは社会のリーダーが、頭でっかちの利に聡い人間ばかりを優遇することを止めれば、極端な受験戦争や出世争いなどは少なくなります。又、身分不相応な財貨にうつつを抜かすような暮らしぶりをたしなめるようになれば、犯罪を犯すことも少なくなります。ことさらに欲望を誘うようなことも少なくなれば、人々の心が乱れることもありません。聖人が政治を行えば人々が素直な心を持ち、質実に生活を豊かにし、よからぬ思惑を持つことを少なくし、背骨をしっかり伸ばし、つまらぬ欲望や、知識偏重でない健全な心持を持つようになり、人々をたぶらかそうとする不誠実な評論家のような人間の跋扈を許さないようになります。「無為」の状態になれば万事うまく納まるのです。

  以上。

坂城町長 山村ひろし