坂城の100人 第30回は村上国清

 昨年1月から始めました、「坂城の100人」 今回で30人目です。

 節目の30人目ということで、再び村上家に戻ります。

 村上義清は100人目に記述するつもりですので、今回は息子の国清について記述します。

 村上国清の最期については不明な点が多く、したがって墓の所在についても確かなものはありませんが、満泉寺12代の住職朝宗によって宝暦12年(1762)に建てられたものが坂城神社の裏、葛尾城への登り口の手前を左に入った急斜面を登ったところにひっそりと設置されています。

斜面入口の標識。

                

 しばらく行くとさらに以下の標識。

 これが2つあります。

 上記の標識の場所からもうひと踏ん張りでようやく国清の墓所にたどり着きます。

 結構、息が切れます!

                 

                           

村上国清の墓

「村上院殿決山源正大居士」

               

 ひっそりと建てられた感がします。

 村上国清について不明な点も多いのですが、ここでは、坂城町教育委員会編纂の「ふるさと探訪」の記述によります。

 是非、お墓へもお出で下さい。                    

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 (以下、「ふるさと探訪」より)

 「村上義清の子、国清の墓は坂城神社の裏山にある。国清は3歳のとき越後の上杉謙信に預けられ上杉氏の家臣となっていた。

 天正10年(1582)武田氏が滅亡すると謙信のあとを継いだ上杉景勝は、国清を海津城主(後の松代城)に任じた。

 この時、国清は御所沢にあった村上氏の菩提寺修善寺を村上氏の館跡へ移して再建した。これが満泉寺である。

 天正12年(1584)景勝の副将を務めていた屋代秀正が徳川家康に招かれて徳川氏へついたため、国清も去就を疑われ、越後へ呼び戻され、家臣は四散し村上氏は力を失った。

 山中にひっそりと建つ国清の墓は、満泉寺12代の住職朝宗によって宝暦12年(1762)に建てられたものである。国清没後170年が過ぎていた。」

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 坂城町長 山村ひろし