坂城の100人 第29回目は西澤正太郎さん

年が明け、平成甲午二十六年となりました。 本年もよろしくお願いいたします。

今年も坂城の「100人」を続けます。

昨年の1月1日から始めましたので今まで、大体、毎月二人をご紹介してまいりました。

今年の一人目として、西澤正太郎さんを取り上げます。 今回で29人目となりました。

西澤正太郎さんについては、以前、孫にあたられる西澤眞澄さん他から書、絵画などを寄託された際にご紹介したのですが、その当時は「坂城の100人」の記載を始めていませんでした。

ここに改めて 「坂城の100人」 の一人としてご紹介します。

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坂城町、鼠宿出身の西澤正太郎さんという方がおられます。 文久3年(1863年)に生まれ明治43年(1910年)に亡くなられました。

 明治23年3月に東京大学政治科卒業、法学士となり、直ちに同年4月から内務省へ入省。 宮崎県・新潟県参事官を歴任し、香川・滋賀・兵庫・大阪・京都の書記官を経て、明治37年に官選知事として青森県知事を明治41年まで勤め、明治41年からは福島県知事となるも在任中の明治43年に急逝されました。
性格は豪放磊落、風貌颯爽、漢詩・和歌の趣味深く、床次竹次郎(内務官僚、政治家)、白仁武(元栃木県知事)、池上秀畝(日本画家)、大森鐘一(内務官僚、京都府知事)、村上寿夫と親交。 青森県知事在任中、東北地方の飢饉に際し、米や麦を購入して、窮民に施し、福島県知事在任中は、不毛の土地を開拓、整理したことから群民により頌徳碑が建てられました。墓地は耕雲寺にあります。
 おそらく、坂城町の歴史上、初めての東京大学出身者であり、知事としても初めてであろうと考えられています。 ちなみに正太郎氏の16歳下には、同じ鼠宿の出身で、東京帝国大学法律学科を卒業し、内務官僚となって静岡県知事になり、警視総監を経て貴族院勅選議員になった赤池濃(あつし)氏がおられます。 町内で都道府県知事になったのはこの両名だけだと思われ、いずれも鼠宿の出身者です。
 
 生前は伊藤博文とも親交が深く、上記の書は伊藤博文が西澤正太郎氏に贈ったもので、孫の真澄氏によると、明治42年(1909)10月、博文が中国ハルビンで暗殺される直前に贈ったものだといわれています。
 書は 「形在江海之上、心在魏闕之下」 〈形は江海の上(ほとり)に在(あ)り、心は魏闕(ぎけつ)の下(もと)にある〉 これは5世紀末中国・南朝「梁」の「劉勰(りゅうきょう)」が著した文学理論書『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』の第六巻【神思】第二十六の一文です。
意としては 「身は紅海のほとりに隠遁しながら、心では魏の宮門のことが忘れられない」ということのようです。 (伊藤博文の心境を語っているものと思われます)
平成23年10月14日に、西澤正太郎氏の孫にあたられる、西澤眞澄さん、康代ご夫妻、正太郎氏の実家におられた、西澤澄人氏。正太郎氏の生家ご当主の西澤哲雄さんの妹のご主人である石井健一氏が坂城町役場に来られ、伊藤博文の書と西澤正太郎の書簡、西澤正太郎の肖像画、正太郎が福島県知事時代に福島に大正天皇(当時は皇太子)をお迎えした時のことを讃えて建立した石碑の拓本をお預かりいたしました。 (これらはいずれも鉄の展示館で保存し、適宜展示させていただいております。)
左から、西澤真澄さん、山村、西澤康代さん、西澤澄人さん、石井健一さん
この肖像画は正太郎死後8年後に制作されたもの
坂城町に、明治期に活躍されたこのような傑物がおられたことに驚くとともに大変名誉なことだと思います。
坂城町長  山村ひろし

坂城町消防団歳末特別警戒

坂城町では、昨日(12月27日)から30日まで消防団による歳末特別警戒を実施しています。

昨日は午後8時から、各消防団分団の巡視、激励を致しました。

この巡視には、保坂千曲坂城消防長、宮城坂城消防署長、清水坂城町交番所長、ならびに、手塚坂城町消防団長、大井副団長にご同行いただき12分団をそれぞれ訪問いたしました。

時々雪の降る中、午後8時から午後10時までの2時間でしたが各消防団の活躍ぶりをしっかり確認いたしました。

今年は全国的に火災の発生件数が増加しているようですが、坂城町では消防署ならびに消防団の皆さんのご活躍により昨年より減少傾向にあり、大きな火災事故も発生しておりません。 ありがたく感謝しております。

年末に向け何かと忙しくなる中、火の元にはご用心ください。

坂城町長 山村ひろし 

坂城中学校の生徒さんから募金を預かりました

昨日(12月26日)、坂城中学校の生徒さん二人が、先の震災で被害を受けられた方々への募金を持って来られました。 (紙袋に入ったズッシリと重い、心のこもった募金です。)

坂城中学校の「ふる里ボランティア委員会」の皆さんは、継続してこのような活動をされています。 素晴らしいですね。

以下、坂城町ホームページからご覧ください。

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坂城中生が募金活動

坂城中募金

▲左から、依田和真さん、山村町長、中沢広野さん

  12月26日(木)、坂城中学校ふる里ボランティア委員会の中沢広野さん(委員長)、依田和真さん(副委員長)と平林悠子先生が、今年の活動で集めた募金を持って山村町長を表敬訪問されました。

  同委員会では、今年の9月末に開催された同校の大峰祭期間中に募金を呼び掛け、地域や保護者の皆さんに協力していただいたほか、牛乳パックを回収してお金に換えました。この募金は、町から日本赤十字社を通じて東日本大震災の被災地へ贈らせていただきます。

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坂城町長 山村ひろし            

坂城の100人 第28回目は中島仲重校長先生

坂城の100人、今までは歴史上の人物を中心に取り上げてきましたが、さる、12月22日の日本経済新聞全国版、「熱風の日本史」の中の「御真影 守護に重圧」というテーマで中島仲重校長が取り上げられたということもあり、今回は「坂城の100人」28人目として、南条小学校の校長で大正10年1月6日に同校の火災の際に天皇陛下の御真影を取り出そうとし殉死した中島仲重氏を取り上げます。

平成25年12月22日付日経の記事

中島仲重校長の顕彰碑は南条小学校にあります。

中島仲重校長は明治17年(1884年)中之条村に生まれました。

明治39年に長野県師範学校を卒業、戸倉小学校に勤務、大正2年(1913年)、29歳で南条小学校の校長となりました。

若くして校長になり、全身全霊で教育に打ち込み、大変人望のあった方だったそうです。

今でも、南条小学校のホームページには中島校長が当時力をいれて行った教育活動を以下のように伝えています。

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(南条小学校ホームページより。 中島校長の努力されたこと)

1.社会をよくし、本当に人生を切り開くことのできる実力ある人間をつくる

2.高等科の設置を復活させ、自ら生徒募集に村内を廻り、特に女子生徒の入学をすすめ、教育の実を挙げる。

3.研究の裏づけがあって教育は発展するとし、自身はもちろん職員の研究に大いに熱意を傾ける。

4.同僚職員に対する親身の指導信頼、そして全責任をもって守る。

5.自ら積極的に村民の中に入り込んで教育する。あるときは、婦人会長まで行う。

6.高い見識をもって努力する。

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 そんな中での火災。

大正10年1月6日、午後6時半頃、南条尋常高等小学校で火災が発生。

東校舎2階南側から発した火は、2時間にわたって燃え続け、東校舎、南北両袖校舎および小使室など校舎の大半を焼きつくし、教室1棟、雨天体操場1棟、便所1棟を残して、午後8時半ころようやく鎮火した。

火災の状況は以下の通りです。(「坂城町誌」より)

「当日、中島校長が火災警報を聞いて山金井の居宅から学校に駆けつけた時、御真影奉安室にあてられていた東校舎2階の宿直室は、すでに猛煙に包まれていた。南条小学校へは大正4年に大正天皇、翌5年に皇后の御真影が下賜され、厳格な奉護既定のもとにおかれていたが、中島校長はその御真影を守ろうと、階段をのぼり奉安室に達したまま脱出できず焼死したのである。」(享年38歳)

中島校長の焼死は殉職として全国的に社会的な大反響を呼び、全国から弔慰金が集められその金額は総額21,137円に達したという。(「岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』)

岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』

その当時の時代背景により、中島校長の殉死は「御真影」の扱いについて大きな影響を与えることになり、「御真影の安全管理は命を賭してでも守る絶対的な義務」となっていきます。

ただし、中島校長の焼死が伝えられる中で、「人と物とは何時の場合も換(か)ゆ可きものではない。畏れ多いことではあるが御真影は物であって中島校長は人である」というような意見もあったそうです。(当時はまだ大正デモクラシーの時代でもあった)

来年度から南条小学校の改築工事が始まりますが、中島校長の顕彰碑のある箇所は「中島公園」として大切に保存されます。

中島校長の殉死の後、各学校には堅牢な奉安殿が作られるようになったのですが、中島校長が生前、村の委員会に切望していたものがまさにそれで、以下の提案文章が残されています。

(中島校長の提言)           

設備ヲ要スベキ建物及其内容

一、御真影奉安殿・・・・何モノヨリ先ニ完全の設備ヲ

(「南条小学校百年誌」より)

坂城町長 山村ひろし

ワインブドウの苗植え

今日(12月25日)、素晴らしい青空のもと、先日拡張したワイン葡萄用第1試験圃場に苗の植え付けを行いました。

作業中のワイン担い手の一人、丸山さん

作業終了 きれいに揃いました

今回植えた数量は320株で、シャルドネ、ソービニヨン・ブラン、ピノ・ノワールの3種類の白ワイン用ブドウです。

これで、昨年から植えた苗の合計は 1,120株で、第1試験圃場の白ワイン用4種類(シャルドネ、ソービニヨン・ブラン、ピノ・ノワール、リースリング)、第2試験圃場の赤ワイン用2種類(カベルネ・ソービニヨン、メルロー)の計6種類となりました。

これからが楽しみです。

坂城町長 山村ひろし

村上海賊の娘

「村上海賊の娘」を読みました。

大ベストセラーとなった 「のぼうの城」 で小説家デビューされた、和田竜(りょう)さんの4年ぶりの最新作です。

和田竜さんらしい、大活劇で、能島村上家当主、村上武吉の娘、村上景(きょう)を主人公とした素晴らしい小説です。

村上景は地元では悍婦にして醜女で、嫁のもらいての無い20歳の女性でありますが、荒武者でもあり、織田方の泉洲真鍋海賊を打ち破る大活躍をします。

この和田竜さんの小説は、まるで映像を見るようなビビッドな素晴らしい迫力で終始し大変読み応えのあるものです。

私がこの本を読もうと思ったきっかけは当然のことながら、村上海賊と信濃村上氏がどのような関係で書かれているかということに興味を持ったわけであります。

坂城の住民とすれば当然であります。

しかしながら、この小説では村上氏について 「村上海賊は平安期の村上天皇から発する。降って、南北朝の騒乱で足利尊氏と戦った後醍醐天皇率いる南朝の支柱、北畠親房の孫に北畠師清というのがあり、これが芸予諸島に移住して、当時衰微していた村上家の名跡を継ぎ、三人の息子(義顕、顕忠、顕長)を三つの島に配した。)」 と紹介しています。

要するに、信濃村上氏とは関係ないとしているのであります。

小説の価値を損なうものではありませんが、いささか、残念でありました。

早速、坂城町の宮下学芸員に確認したところ、以下のメッセージをもらいましたので以下、ご紹介します。

「村上水軍の出自を村上源氏に求めることは、村上師清を北畠親房の孫とすることについて、年齢等の理由により、かなり難があることから、その信憑性は低いものと言われています。

平安期に発祥したとされる村上水軍の祖伊予村上氏は、『尊卑分脉』によると、信濃村上氏から出た一族と考えられます。また、「師清」についても、信濃村上氏関連の系図では、信濃惣大将「村上信貞」の孫としており、村上水軍のなかで唯一、近世大名として存続した久留島氏(来島村上氏)は、自家の先祖を信濃村上氏としています。

くわえて、村上源氏説の系図でも、師清は信濃から瀬戸内海に移ってきたと記されており、村上源氏説にしても、師清が信濃と縁が深いことを唱えています。
このように、清和源氏出身の信濃村上氏と村上水軍の関係については、、その実証が大変困難でありながらも、最も大きな可能性を秘めているものと考えられます。」
                
以上、若干、遠慮気味に延べていますが、村上海賊は信濃村上氏由縁であると考えます。
是非、小説もお読みください。
                   
             
坂城町長 山村ひろし                     

こども科学実験教室

大変楽しい科学教室でした。

昨日(12月22日)、午前、午後、3回に分け、さかきテクノセンターで、「米村でんじろう  サイエンスプロダクション」による、「こども科学実験教室」が大勢の子どもたちと保護者の皆さんで盛況のうち開催されました。(本日の講師はチャーリー西村先生)

私が参加したのは午後3時開始のクラスでした。

夕暮れも近いのでまず「ソーラー・カー」作りからスタートし、何とか日の当たる状態の中でソーラーカーを走らせることができました。

日暮れが迫る中、何とか走行成功

ソーラーカー完成品

そのほかにも楽しい授業が盛りだくさんでした。

最近の、理科離れ、数学離れが少しでも解消されれば素晴らしいですね。

以下、坂城町ホームページから授業の様子をご覧ください。

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12月22日(日)こども科学実験教室開催!

こども科学実験教室01

  12月22日(日)、坂城テクノセンターで「こども科学実験教室」が開催され、小学生を中心に、たくさんの子どもたちとその保護者の皆さんが参加されました。

  講師には、テレビでおなじみの米村でんじろう先生の愛弟子であるチャーリー西村先生をお招きし、「自然エネルギー」をテーマに、様々な科学実験やソーラーカーの組み立てを子どもたちに楽しく、分かりやすく教えてくださいました。

  子どもたちは、身近な道具を使っての発電実験で白熱電球やLED電球を点灯させたり、静電気の性質を利用して、まるでマジックのように物が浮くのを見たり、微量の電気を感じるなど、いろんな体験をすることができ、どの実験にも目を輝かせて取り組んでいました。

▼チャーリー西村先生

こども科学実験教室02-04

  また、今日はとても天気がよかったので、組み立てたソーラーカーを駐車場で実際に走らせてみました。すると、ソーラーカーは太陽光をいっぱいに浴びて勢いよく走りだし、それを見た子どもたちは大はしゃぎ。自然エネルギーの力の大きさを感じた一日となりました。

▼ソーラーカーの組み立て

こども科学実験教室05-07 

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坂城町長 山村ひろし

小松美羽さん 村上小学校で特別授業

私は参加できませんでしたが、昨日(12月20日)、坂城町特命大使でもある画家の小松美羽さんが、村上小学校で美術の特別授業をされました。

坂城町を愛する小松美羽さん、いつもいつも素晴らしい活動を行っていただいております。 感謝です。

以下、坂城町のホームページからご覧ください。

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12月20日(金)小松美羽さん村上小で特別授業

小松美羽さん村小特別授業01

  12月20日(金)、町出身の画家小松美羽さんが、母校の村上小学校で6年生に特別授業を行いました。

  小松さんは、幼い頃から絵を描くのが大好きで、将来画家になることを夢見て小学生時代は何枚も絵を描き続けていたというエピソードや、画家になってからの苦悩、海外での経験の大切さなどを話されました。また、画家になってから「売れない、つらい時期」があったそうですが、そんな時でも自分を信じて描き続けていたことが、自然と個展の準備になっていたとのことで、「“好きなものを続けること”“プラスに勘違いすること”“何時間でも楽しく続けられる才能”を大切にして、信念を貫いてほしい」と、子どもたちにエールを送りました。

▼小松美羽さん

小松美羽さん村小特別授業02-03

  授業の後半は、卒業記念に制作するオルゴールの蓋の裏に入れる透明なプラスチック板に児童が絵を描き、それを小松さんに見てもらいました。また、児童のリクエストに応えて絵も描いてくださり、絵を描く際は、好きな部分を強調したり、絵を見る人の距離を考えて描くとよいなどのポイントも教えていただきました。

小松美羽さん村小特別授業04-05 

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坂城町長 山村ひろし

昭和7年 坂城町の風景展示

現在、坂城町 「ふるさと歴史館」 で昭和7年に発行された坂城町名勝絵葉書の展示と現風景との比較展を行っています。

展示としては小規模なものですが、先日、私がご紹介した昭和7年の絵葉書を拡大展示し、現在の風景と見比べながら81年前との違いをご覧になれます。

(以前、ご紹介した絵葉書 ブログより)

坂城町学芸員の詳しい解説もありますので是非ご覧ください。

坂城町長 山村ひろし

年末の交通安全運動

本日(12月20日)、年末の交通安全運動の一環として、朝7時から田町交差点で交通安全指導を行いました。

今年の年末交通安全運動は平成25年12月1日から31日まで実施されています。

右:挨拶する山村

ドライバーの皆さんへの交通安全のパンフレット等の配布

左から:町内巡回に出掛ける、中嶋交通指導員会長、山村、山下係長

坂城町では2年前、南条で死亡事故が発生し、その後、739日交通死亡ゼロが続いています。

無死亡事故1,000日を目標に、交通安全運動に注力してまいります。

なお、坂城町の各区域での無死亡事故期間は以下の通りです。

南条地区:739日、坂城地区:1,186日、中之条地区:2,976日、村上地区:4,065日

村上地区では11年以上、死亡事故が発生していません。

素晴らしいですね。

年末に向けて何かと気ぜわしくなります。

「交通安全」よろしくお願いいたします。

坂城町長 山村ひろし