急行「さかき」出発

旧国鉄時代に造られた「169系」車両は、現在、しなの鉄道のみが所有している車両です。

このたび老朽化のために廃車されることになりましたが、その車両を坂城駅に永久保存することになりました。(静態保存と言うそうです。)

4月末まで「さよならラン」を行いますが、それを記念して昨日(4月6日)坂城駅プラットフォームでセレモニーがありました。

雨にもかかわらず、全国から鉄道ファンが多く押し寄せました。

また、坂城駅から軽井沢駅に行く途中でも多くの方々が沿線の写真スポットで待ち構えておられました。

なお、坂城駅に設置される車両は、169系の第1号機を含む3両編成で、大変貴重な車両です。(設置時期は6月初旬)

                                                  

挨拶する山村

以下、坂城町ホームページをご覧ください。

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169系急行さかき01

4月6日(土)、169系S51編成坂城駅静態保存を記念して、坂城駅~軽井沢駅間を往復する本日だけの特別列車169系急行「さかき」が運行されました。

本日はあいにくの天気となりましたが、この急行「さかき」に乗ろうと大勢のお客様が坂城駅に詰めかけました。なかには鉄道愛好家の方もたくさんいらっしゃり、列車の姿をカメラにおさめる方でホームは溢れかえりました。

169系急行さかき07-08

出発式には、昨年のしなの鉄道のポケット時刻表の表紙に写真を使用された佐久長聖中学校2年生の常盤亮次さんと山村町長、宮下副町長がしなの鉄道の制服に身を包んで出席されました。セレモニーでは、しなの鉄道代表取締役の藤井武晴さんの挨拶の後、出席者によるヘッドマーク、行き先、愛称札の装着式が行われ、ねずこんと酒井戸倉駅長の「出発進行!」の合図のもと、列車は走り出しました。

▼出発式の様子

169系急行さかき02-06

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坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 第10回目 松尾芭蕉

「坂城の100」も第10回目となりました。

今回は大物の登場で、松尾芭蕉です。

芭蕉も坂城に大いに関係があります。

松尾芭蕉は、「更科紀行」にあるように、貞享5(1688)年8月15日に姥捨(現千曲市)に到着し、現坂城でも句を残しました。 更科には三日ほど滞在したようです。

 *更科はかつては更級郡として、明治初期には26村、1町を有する大きな郡でしたが、町村合併の結果、郡は消滅しています。 地域としては長野市の一部、千曲市の一部、坂城町の一部(村上)です。

                         

(以下、 「笈の小文・更科紀行・嵯峨日記」:上野洋三編を参考にさせていただきます)

芭蕉は貞享4年(1687年)10月、江戸を出発して伊賀へ向かいます。

伊賀藤堂藩より 「今明年中に故郷へ帰り、役人共へ つらみせ可仕候」との命が出ていたためです。

藤堂藩は他国に出て生活している領民に対して 「5年目には故郷に戻るよう」 命じていたのです。

この命をうけ、芭蕉は伊賀上野に戻りその帰路、吉野、高野山、紀三井寺、和歌の浦、奈良を経てさらに大阪に入り、兵庫、須磨、明石を訪れています。

さらにその後、京に入り、岐阜、大津にとどまり、瀬田の蛍を見て 「この蛍 田毎の月に くらべみん」 の句を残しています。

この頃すでに、秋の名月を更科の姥捨山で見たいという気持ちが強くなったようです。

「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云ふ。」

 (かの更科の里・姥捨山の名月を見ようということを、しきりに勧める秋風が、心の中に吹き騒いで、私の心を落ち着かさせない。同様に風雅心ゆえに浮かれ立ったのが、もうひとり居て、その名を越人という。)(越人:越智十蔵。尾張の蕉門)

                 

貞享5(1688)年8月15日、芭蕉は、越人ととも姥捨山へ夜分、到着します。

 以下、更科の地に関する句を4句紹介します。

 まずは、越人の句から

 「さらしなや三よさの月見雲もなし」 

 *好天に恵まれて三晩も続けて素晴らしい月を見たようですね

                     

 芭蕉の句

 「俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友」

 *その場には姥はいませんが、姥を捨てた息子の気持ちが察せられるようなすごい感情が感じられますね。

                      

 「いざよいもまださらしなの郡哉」(いざよいも まださらしなの こおりかな)

 *姥捨山で素晴らしい名月を見た後、次の日の十六夜にもまだ去り難い思いで更科にとどまっていて、名残惜しさが強烈ですね

「十六夜もまだ更科の郡かな」の句碑。

坂城町網掛の 十六夜観月殿 脇

「十六夜」の裏面

桃青(芭蕉の号)霊神

十六夜観月殿

                

                      

 「身にしみて 大根からし 秋の風」

 *坂城特産の「ねずみ大根(辛味大根)」を芭蕉が句に詠んでいるのがすごいですね。はたして、おしぼりうどん、あるいは蕎麦として食べたのか、大根をそのまま切り身で食べたのか不明ですが、姥捨を訪れた後、秋風の中いろいろ見にしむものがあったのだと思います。

坂城のねずみ大根(辛味大根)

おしぼりうどん

「おしぼりうどん」

  坂城町振興公社ホームページより                      

 

国宝・重要文化財(美術品)「更科紀行」
沖森本:芭蕉紀行文の現存唯一の草稿本
(文化遺産オンラインより)
                   

   

                                  

 坂城町長 山村ひろし

入学式・入園式

本日(4月5日)、24節季では「清明」です。

「清明」はいろいろな植物の芽が出、花が咲き、清々しい季節のあらわれを示します。素晴らしい季節になりました。

私の部屋の前のほぼ満開に近い桜

今日はこの清々しい晴天のなか、先日(4月2日)の保育園の入園式に続き、坂城幼稚園の入園式が行われました。 今年は27名の入園児です。

これで、坂城町の今年の入園、入学式がすべて終わりました。

 坂城町の今年の小学校の新入学児童は 計138名で、各々、南条65名、坂城48名、村上25名です。

坂城中学校には150名が入学しました。

坂城幼稚園入園式 (4月5日)

南条小学校入学式 (4月4日)

坂城中学校入学式 (4月4日)

坂城町長 山村ひろし

坂城町 桜(ソメイヨシノ) 開花宣言!

坂城町役場の正面右側に大きな桜の木があります。

他の桜の木より早咲きのようですが、それでも随分花を身につけました。

「気象庁」の発表は特にありませんが、本日、4月4日 「坂城町の桜開花!」 としたいと思います。

尚、これからは、毎年、この木を基準木として 「坂城町開花宣言」 を発表したいと思っております。

以下、写真をご覧ください。

役場正面右の桜の木

坂城町長 山村ひろし

保育園入園式

本日(4月2日)、午前9時半から坂城町町立保育園、3園で入園式が行われました。

私は村上保育園の入園式に出席しました。

村上保育園の今年の新入園児は25名で、全員で96名の園児となりました。

坂城町全体では84名の新入園児となりました。 (坂城保育園:15名、南条保育園:44名、村上保育園:25名)

園児にご挨拶する山村

早速、先生のお話をしっかり聞いている元気な園児たち

なお、4月1日付けの異動で各保育園の園長先生は以下の通りとなりました。

・坂城保育園 園長:宮嶋敬一先生

(保育園振興幹、子育て推進室長、総括園長)

・南条保育園 園長:小宮山浩一先生

・村上保育園 園長:竹内琴美先生

坂城町長 山村ひろし                     

桜の開花宣言!?

4月に入り、東京ではそろそろ桜が満開を過ぎ、散り始めたという情報もありますが、長野ではようやく、杏が開花した状況です。

坂城でソメイヨシノの開花宣言をしようと目を凝らしていますが全体としてもうしばらく日数が必要のようです。

ところが、私の役場の部屋の前のベランダ越しには既に多くの花が咲き始めています。

ただし、この桜の花はベランダの壁の近くでかなり暖かなところで、しかも他の方々には目につかないところです。

この桜の樹の本体部分で開花した際には 「坂城町桜開花宣言」 をしようと思っています。

もうしばらくお待ちください。

坂城町長 山村ひろし

中村胤夫さん 公開講座

昨日(3月29日)、坂城テクノセンターで坂城敬学会主催(会長:竹内明雄)の公開講座」が行われました。

講師は元三越社長の中村胤夫さんです。

中村胤夫さん01

▲中村胤夫さん

講演終了後謝辞を言う山村

中村胤夫さんにお礼の品として出来たばかりの「ねずこん」の

小型ぬいぐるみを渡す山村

*「ねずこん」の小型ぬいぐるみは、4月1日より 「湯さん館」 などで 800円で発売されます。

以下、坂城町ホームページから

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中村胤夫さん 公開講座

  

3月29日(金)、坂城テクノセンターで、坂城敬学会主催(会長:竹内明雄)による「長野県地域発元気づくり支援金活用事業 公開講座」が行われました。

講師には、元 三越代表取締役社長で名橋「日本橋」保存会会長の中村胤夫さんをお招きし、「日本橋の町おこし ~坂城町にきたいすること~」を演題にご講演をいただきました。

中村さんは、「町おこし」とは、「コミュニケーションをとること」「関係をもつこと」「新しいことにチャレンジする姿勢をもつこと」と話し、日本橋の歴史や文化、再開発の取り組みなどを紹介されました。みんなで知恵を出して考え、話し合うことが町おこしの第一歩であるとの考えに、会場に集まった約120名の聴講者の皆さんは深く聞き入っていました。

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坂城町長 山村ひろし

村上小 中村姫菜さん こども環境大賞受賞

村上小学校5年生の中村姫菜(ひな)さんが、「こども環境大賞」の高学年の作文の部で優秀賞を受賞され、役場へ報告に来られました。

左:中村姫菜さん

中村姫菜さんの論文

以下、坂城町ホームページより

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中村姫菜さん こども環境大賞で優秀賞受賞!

中村姫菜さん01

▲写真左から、山村町長、中村姫菜さん、中村拓己さん、神尾校長

村上小学校5年生の中村姫菜さんが、朝日新聞社主催による「第5回こども環境大賞」の高学年の作文の部で優秀賞を受賞し、3月28日(木)に、お父さんの中村拓己さん、村上小学校の神尾敦男校長と一緒に山村町長を表敬訪問されました。

このコンテストは、全国の小学生を対象に「エコ」をテーマとした絵と作文を募集し表彰するものです。中村さんは、「大切にしたい自然の力」と題し、総合学習の時間にビオトープやホタルについて学んだことを作文にしました。そこでは、福沢川のホタルの居場所を表わすホタルマップを作って川の汚れている部分を水質検査したこと、川をきれいにするために竹炭を川に置いたこと、家庭排水が川を汚しているので、それを地域の人に伝える活動をしたことなどがわかりやすく書かれています。

また、優秀賞の受賞者は「西表島エコ体験ツアー」に招待され、中村さんも3月23日(土)から26日(火)まで沖縄県の西表島と石垣島に滞在し、マングローブの苗を植えたり、海岸のごみを拾ったり貴重な体験をしてきたそうです。

中村さんは、「受賞の話を聞いたときはびっくりしました。地域の皆さんにも環境について知っていただき、ホタルが未来もずっと福沢川で生息できるようになればいい」と話されました。

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坂城町長 山村ひろし

坂城町中小企業能力開発学院修了式

ここ2週間ほどいろいろな卒業式、卒園式に出席しましたが、昨日(3月25日)、最後に、「坂城町中小企業能力開発学院」(学院長:山村弘)の修了式に出席しました。

平成24年度の認定コース(9コース)で修了された方々は166名です。

この学院のプログラムには、「新入社員研修」、「簿記コース」、「社会保険実務コース」、「管理監督者研修」、「コーチング実践セミナー」、「計数管理力強化講座」、「機械製図三次元CAD」、「坂城経営革新塾」などがあり実践的なプログラムを坂城町商工会と連携して提供しています。

挨拶する山村

修了証の授与

修了者代表の力石化工 佐藤園江さん

同学院では認定コースの他に一般コースとして、「パソコンコース」、「夏休みこども体験教室」、「パソコン会計コース」、「経営体質強化研修会」など幅広いテーマで坂城町企業へ研修プログラムを提供しています。

認定コースだけでも昭和55年以来、4720名が修了しています。

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 9人目は 村上(源)為国

 先日、「坂城の100人」の一番目で源盛清について記述しました。
 久しぶりに昔に戻り、盛清の養子の為国について記述します。
 源為国は初めて村上姓を名乗り、信濃村上氏の始めと言われています。
さて、源為国についても、単に盛清の養子となって信濃村上の地で安穏に生活をしていたわけではありません。
崇徳院に従っていたということから、保元の乱では崇徳院側につくことになり、保元元年(1156年)7月10日には、崇徳上皇・藤原頼長とともに白河北殿に参集することになります。
                     
                      
戦後処理では、その当時禁じられていた斬首の刑が復活され、ことごとくの崇徳院側の貴族、武士が斬首または島流しとなり、崇徳上皇も讃岐に流罪となりました。
                        
あまたの崇徳院側貴族や武将が厳しい処罰を受けた中で村上の親子だけが処分を免れたことについては、源為国が信西の娘と結婚していたことが挙げられますが、それだけでしょうか。 もっと強い理由があったような気がします。
                          

左:信西役の阿部サダオさ
右:平清盛役の松山ケンイチさん
信西は大変な子宝に恵まれ計25人の子供がいました。
*ウィキペディアによる
                        
子供の内訳は、男子が18名、女子が7名だそうです。
                        
信西は大変学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られており、その子のほとんどが貴族、学者となり娘も同系の家に嫁いでいますがその中で唯一、末娘が武士である源為国に嫁いでいます。
                      
源為国は保元の乱ではやむなく崇徳院側に付き信西と対峙することになりますが、一説には参陣したが、ほとんど戦うことなく過ごしたようで、格別の戦はしていなかったようであります。
                           
これからはとんでもない推察かも知れませんが、もしかすると、信西と示し合せ敵側に入ったのでないかと考えられないでしょうか。
                    
それでなくては、大方の敵将がことごとく斬首される中で信西の婿であったという理由だけで、親子でお咎めなしというのはむしろおかしいのではないかと考えますがいかがでしょう。
 また、朝廷内において、為国の養父の盛清の存在も少しは影響しているのではないかと思うのも考えすぎでしょうか。(多分、その頃、生存していても70過ぎと思われますが)
                             
源盛清にしても、源為国にしても不思議な歴史の舞台回しの上に乗り、坂城の村上氏が始まり、信濃村上氏の勢力拡張の基を築いたのです。
                       
 坂城町長 山村ひろし