本日(8月15日)、坂城町文化センターで令和元年成人式が執り行われました。 以下、私の祝辞を掲載させていただきます。
「令和元年。諸君はこの時代にどう生きるか。」
新成人の皆様、成人式おめでとうございます。元気いっぱいの皆さんに今日、お会いできることを何よりうれしく思います。また、今日まで暖かい愛情を持ってお子さんを立派に育て上げられたご家族、保護者の皆様に心より、お祝いとお喜びを申し上げます。 かさねて、本日、ご多用のところ本式典においで頂いた、西沢議会議長殿をはじめ多くのご来賓の皆様に御礼申し上げます。さて、坂城町では成人式を毎年、終戦記念日に開催しています。以前は1月の成人の日に開催していたこともありますが、冬、雪の中での開催が難しい場合がありました。一方、8月の開催ですと、お盆の時期で新成人の皆さんが帰省しやすい時期であることと、8月15日の終戦の日にあたり、あらためて命の大切さ、平和の大切さ、国のあり方などを考える良い機会になることで、本日の開催になりました。
今年の対象者数は136人で、そのうち79%にあたる、107名の方にご参加いただきました。皆さんは今日の成人式を迎えてどのような心境でしょうか。成人式を迎えられた皆様の中にはすでに社会に出て働かれておられる方、学生の方、働きながら勉強をされておられる方がおられます。
また、坂城の中で家業を継がれておられる方、遠く坂城を出て活躍されておられる方々などいろいろな立場で本日おいでになっておられると思います。久々に懐かしい方々との旧交を温められ、心躍る感傷に浸っておられる方々も多いかと思いますが、折角の節目でありますので、皆さんが成長されたこの20年間を、お世話になった方々への感謝の念をも抱きながら種々思いをはせていただきたいと思います。
今年は坂城町で開催される、第64回目の成人式ですが、戦後74年目の年となりました。今日は、成人を迎えられたこの機会に、今、この時代にどう生きるかについて考えていただきたいと思います。
昨年は、明治元年から数えて150年でした。また、今年は令和元年の成人式となりました。 新しい時代の始まりです。今までは、今上天皇陛下が崩御されることにともない新たな年号に移られるということでしたが、今上天皇陛下の強いお気持ちで、生前退位という方向になり、令和元年を迎えました。これも歴史の中で皆さんが経験される大きな出来事です。先ほど、昨年が明治維新150周年に当たると申し上げましたが、もう少し細かく見ていきますといろいろ歴史の面白さがあらわれます。
まず、150年を真ん中で切ってみましょう。真ん中は、明治元年から75年、1943年、昭和18年になります。第二次世界大戦が始まって2年目。 戦争が始まって、当初は戦勝気分で浮かれた2年、後半は悲劇的な敗戦へ向けた2年間の後、戦争に敗戦し終戦してから74年目の年が今年です。 皆さんが成人式を迎えられた年です。
明治維新から欧米に追い付け追い越せで結果的に太平洋戦争に突入し、敗戦をし、戦後の復興をし、現在に至るまでに見事に左右対称になったわけであります。
今年は明治元年から151年目、令和元年となり、新たな歴史がスタートしました。
その年に皆さんは成人式を迎えられたわけであります。
今年から元号が「令和」となりました。また、公表はされていませんが、この「令和」の命名者とも言われている、中西進さんは、令和の和は単なる平和ではなく、大和の和だとおっしゃっています。
従って、令和の意味は厳かな平和と言うことだけでなく、「厳かな、立派な日本」と言う意味になります。この意味を皆さんと一緒に深く考えたいと思います。
さて、私の大切にしている言葉に「意味のある偶然」という言葉があります。
これは私が使い始めて、いろいろな機会にお話しています。
人は毎日、毎日いろいろな人と「偶然的出会い」を続けています。
皆さんの多くは、この坂城町で生まれ、育ちました。
そして、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、あるいはいろいろな職場で毎日、いろいろな人と「偶然的な出会い」を続けています。
しかしながら、この「偶然」を単なる「偶然」として送りすごすか、自発的な能動的なアクションをとることにより「意味のある偶然」にするかどうかはその人の人生にとって大きく意味合いが違ってきます。
毎日毎日、刻一刻と「偶然的な出会い」が皆さんの前に訪れます。
これからの人生にとって、この「偶然的な出会い」を「意味のある出会い」にするよう心がけていただければと思います。 いくつか関連したお話をします。
まず、皆さんよくご存知の、日野原重明さんが、一昨年105歳でお亡くなりになりました。日野原先生は100歳を越えても現役の医者として活躍し、たくさんの本をお書きになったり、ミュージカルの脚本をお書きになったりしていました。
日野原さんは生前「命」について、いろいろな講演会、著書で述べられていました。
それは、「命」とは何かです。
日野原先生は常に、「皆さん、皆さんの命は見えますか。」という問いかけをされます。
命は見えません。「命」とは皆さんの持っている「時間」のことだというのですね。死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまうわけです。
したがって、一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。
さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい。ということです。
さきほど、私が申し上げた「意味のある偶然」も含めて、それを意味のある「時間」として使っていただければということですね。
また、私は、毎年、成人式に際して、「命」の大切さについてお話をしています。これは毎年同じ話をしています。
皆様方は、ご両親から頂いた「命」の大切さについてどう考えておられるでしょか。
昨今、毎日のように悲惨なニュース、それも今までは考えられなかったような事件が発生しています。
皆さん、私は「命」は大自然からお借りした大切な「宝物」だと思っています。
皆さんの命は皆さんのご両親が突然作り出したものではありません。皆さんのご両親、ご両親のご両親、どんどん遡れば地球誕生から約46億年、太陽系の起源から考えれば約130億年前から営々と皆様のDNAが脈々と続いてきているわけであります。
大自然からお借りした「命」を立派に、立派に磨き上げ再び大自然にお返ししなくてはならないのです。
仮に、皆さんが友人からゲーム機を借りたとします、これを傷つけたり、ベタベタに汚して返したら皆さんの友人は何と思うでしょう。
借りた時以上に見事に磨き上げピカピカにして返したら皆さんの友人は何と喜ぶことでしょう。皆さんの「命」もこのようにピカピカにして命を全うし、大自然にお返ししなくてはならないのです。
今から74年前、戦時中では成人するということは即、戦場に行くということでありました。敵と戦うということでありました。見も知らぬ人間の命を奪う戦いをせざるを得ないということでもありました。今日、この際にもう一度皆様方各々で皆さんの「命」の大切さについて考えていただきたいと思います。
最後に、大人が子どもの命を救ったという話です。 また、ポーランドと日本に関わる話です。以下お聞きください。
先日、ポーランドのワルシャワで日本語学校を経営されておられる、坂本龍太郎さん経由で、セレスティナウという町のウィトルド・クウィトフスキーさんという町長さんから、坂城町との間で「パートナーシップ協定」を結びませんかと言う申し入れをいただきました。
坂城町では6年前から、ワルシャワ日本語学校の生徒さんのサマープログラムとして、ホームステイの皆さんを受け入れています。 今年も6名の学生さんを受け入れました。
この学生さんたちはわずか2~3年日本語を勉強しただけなのですが、皆さん素晴らしい日本語を話しますし日本の文化、歴史など大変詳しい方々で、大の親日家です。
これからお話しするのは、日本ではほとんど知られていない近現代史の秘話、「シベリアにいたポーランド孤児を日本が救った。」と言う物語です。
これは、約100年前の1918年(大正7)から始まった当時の日本陸軍による「シベリア出兵」最中の出来事です。
まず、なぜシベリアにポーランド人がいたのだろうかということですが、ポーランドは、ロシア・ドイツ・オーストリアという強大な隣国に分割され続け、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で形式上独立するも、ロシア皇帝が君臨するという実質上のロシア領であり続けたわけですが、ポーランド人は決して屈することはありませんでした。
19世紀、ポーランド人は真の独立を勝ち取るべく二度にわたって帝政ロシアに対して独立戦争を挑みました。しかし、蜂起は鎮圧され、さらに蜂起に立ち上がった多くのポーランド人は政治犯としてシベリアに強制的に送られました。
その後、第一次世界大戦で戦場となったポーランドの人々がシベリアに逃れ、シベリアのポーランド人は15万人から20万人に膨れ上がりました。そんな最中の1917年にロシア革命が起き、翌年1918年に第一次世界大戦が終結してようやくポーランドは独立を回復します。
しかしながら、シベリアのポーランド人は、ロシアの内戦で祖国への帰還が困難となり、それどころか生活は困窮を極め、餓死者などが続出したのだった。
そんな同胞の惨状を知ったウラジオストク在住のポーランド人が彼らを救済するため「ポーランド救済委員会」を立ち上げた。そして彼らは、せめて子供達だけでも救って祖国へ帰してやりたいと欧米各国と折衝をしましたがことごとく断られてしまいました。
もはや万策尽きたなかで、ポーランド救済委員会はシベリアにいた日本軍ならびに日本政府に救援のお願いをしました。
その申し入れを受けて、当時の外務省は、日本赤十字社に救済事業を要請し、7月5日に子供らの救護活動に入ることを決定します。
ただちに日本陸軍が救援活動に動き出し、救援決定からわずか二週間後の7月20日に56名の児童とポーランド人の付き添い5名を乗せた日本陸軍の輸送船「筑前丸」が第一陣としてウラジオストクの港を出港した。
3日後の7月23日、筑前丸が福井の敦賀港に入港し子供達が上陸するや、日本赤十字をはじめ軍や警察、役場、さらに一般の敦賀の市民までもが孤児たちを温かく迎え入れた。
病気に罹っている子供を治療し、お腹を空かしている孤児らに食事や菓子を与え、そして入浴させて新しい衣服に着替えさせてやるなど、皆が孤児らを慈愛の心で包み込んだのです。
そして手厚く看護されて元気を取り戻した子供達が横浜港から船でアメリカに向かうことになった。ところがそのとき、ちょっとしたハプニングがおきました。ポーランド孤児達が、泣きながら日本を離れたくないと言い出しましたのです。
極寒のシベリアで極貧の生活を強いられ、親を亡くして人の愛情に触れることのなかった孤児達にとって、誰もが親切な日本はまさに天国でした。彼らにとって日本はもう“祖国”になっていたのです。
横浜港から出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、ポーランドの付添人に抱かれて乗船することを泣いて嫌がりました。
埠頭の孤児たちは「アリガトウ」を連発し、『君が代』の斉唱をして幼い感謝の気持ちを表して別れを惜しみました。
だがそれでもまだシベリアにはおよそ2000名の孤児が救援を待っていた。
再び日本に対し救援を求め、日本赤十字も最終的に急を要する孤児約400名を受け入れることを決定、再び陸軍が支援に乗り出しました。
1922年8月、輸送船「明石丸」と「臺北丸」が3回にわけて孤児390名をウラジオストクから敦賀に運びました。もちろんこの第二陣の児童らも前年同様に敦賀の人々に温かく迎えられ、大阪の天王寺に建てられた大阪市立公民病院宿舎に収容されました。
大阪での歓迎ぶりもまた、東京でのそれに勝るとも劣らぬものがありました。
神戸港からの離別風景も同じで、帰国児童一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちも、涙でこの子たちの幸せを祈りながら船が見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。
この8回にわたる救済活動で、合計765名の子どもたちが救われました。
しかし、この物語はこれで終わりではありませんでした。
平成7年(1995年)、阪神淡路大震災が起きました。この際に、ポーランドの人々は、この震災で孤児になった人々の救援に立ち上がります。
平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のかつてのポーランドのシベリア孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましました。
その後も、ポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間もポーランドに招いてくれました。
知られざる日本とポーランドの交流秘話~両国の絆は日露戦争にさかのぼり、その後のシベリア出兵で結果として、765名のポーランド孤児を救援することができた、両国の感謝の応酬は今も続いているのです。
また、昨年(2018年)11月20日には、このセレスティナウ町に近い、スタラ・ヴェシに「ポーランド・シベリア孤児記念小学校」も設立されました。
今年は、日本とヨーロッパ一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年を迎えました。
また、来年はシベリア孤児来日100周年となります。
さあ、本日は、皆様で成人式のお祝いをするとともに、先ほどお話した内容なども含めて、世界の平和、命の大切さなどについて、皆様でディスカッションをしていただければと思います。
令和元年8月15日 坂城町長 山村弘
(参考:「日本ポーランド国交樹立100周年記念誌」、「親日を巡る旅」(井上和彦著)他、多数の資料から引用させていただきました。)