「とくし丸」について

 買い物にお困りの方などの支援を目的として、町内で「とくし丸」が運行されていますが、本日(9月5日)から、岩下健一さんがあらたに担当され、販売をされることになりました。

   初日でしたのでご挨拶と応援に伺いました。この「とくし丸」の坂城町での運用は2年を経過してますます、地元の皆さんに馴染まれ期待されているようです。  状況によってはお宅の前まで配達してくれるそうですよ。   

 スケジュールは下表のとおり運行しますので、ぜひご利用ください。

※運行スケジュールの時間は目安であり、日によって多少前後します。

スケジュール

 販売時間    月曜日   水曜日

9:55-10:05   ー   坂木宿ふるさと歴史館駐車場

11:30-11:45   ー   北日名公民館

13:40-14:00  泉公民館   ー

新作日本刀展 こんな展示も(土方歳三ゆかりの刀)

坂城町 鉄の展示館での「第12回新作日本刀 研磨 外装 刀職技術展覧会」のご案内をしました。

https://yamamurahiroshi.sakura.ne.jp/archives/446

あわせて、先日、松本市の佐藤肇祐さんからご紹介のあった、土方歳三ゆかりの刀も展示されます。

お楽しみに。

以下、信濃毎日新聞の記事をご覧ください。

坂城町長 山村ひろし

坂城小学校6年生 山崎 優里愛さん、ジュニアテニスで全国大会出場

昨日(4月27日)、坂城小学校6年生
、山 優里愛さんがテニス(硬式)の北信越大会で優勝され、来月の「DUNLOP CUP 全国選抜ジュニアテニス選手権大会」に出場されることになり、そのご報告をいただきました。

山 さんは、3月25日から行われた長野県地区予選を勝ち抜き、北信越大会で優勝し、全国大会出場の切符を手にしました。

学校が終わった後、毎日練習を重ね、ゴールデンウィーク中も「大会が近いので、頑張って練習をしていきたい」とお話されていました。

憧れは大坂なおみ選手という山 さん、日々の練習の成果が思う存分発揮できますように!

なお、全国大会は、連休明け、5月12日より千葉県の吉田記念テニス研修センターで開催されます。

是非とも、全国へ、世界へ、羽ばたいていただきたいと思います。


(左から)父 山 敏雄さん、山村、山 さん、高井坂城町体育協会会長、清水教育長

坂城町長 山村ひろし

葛尾霊園に しだれ桜を贈呈いただきました。

昨日(3月16日)、上田市の「上田腎臓クリニック」院長をされておられる、塚田修さんから、しだれ桜の贈呈をしていただきました。

葛尾霊園の中心部に近いロータリー部分で、甘利社の近くです。

(甘利社については、以下のサイトをご覧ください。)

坂城の100人 第16回目は甘利八右衛門

かつて、甘利社の脇には、老松がありましたが、近年枯れてしまい、いささか寂しい状態でした。

しだれ桜が植えられ大分明るくなると思います。

▼右から:山村、塚田修さん、奥様

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 51人目は村上顕国(あきくに)

「坂城の100人」と言うことで、今まで主に歴史上の人物をご紹介してきました。

また、50人目で俳人の宮本虎杖をご紹介して大分日数が経ちました。

51人目に、村上義清の父、顕國(あきくに)を書こうと思っていたのですが、なかなか資料が少なく、記述する機会を得ませんでした。

そんな中で、昨日、坂城町の満泉寺で村上顕國の没後500回忌法要が行われましたので、その様子と「坂城の100人」51人目として村上顕國をご紹介します。

村上顕國は有名な戦国武将村上義清の父であることは知られていますが、ほとんど記録がなく詳細はわかりません。

生年も不明で、没年が1520年あるいは1526年といわれています。

1520年とすると今年は没後500年目節目となります。

3年前の平成29年には500年忌の「予修」として満泉寺のご住職に法要をしていただきました。

このたびは、御所沢村上氏史跡保存会(会長:大橋昌人さん)の主催で、村上顕國「満泉院殿大器良通大禅定門」五百回忌法要が満泉寺で執り行われました。

ここで、村上顕國と満泉寺の関係、義清の子國清と満泉寺の関係についてなど以下、ご紹介します。(以下は、大橋昌人さんの資料から)

満泉寺は村上山と号し、本尊は釈迦如来。寺伝によると応和3年(963年)坂城字御所沢に、僧延昌によって開創され、16世紀良源までは天台宗「修善寺」と称していた。

その後、修善寺は永正元年(1504年)村上顕國により、上州(群馬県)西の牧村長楽寺二世宝室見尊を迎え、顕國の法名に因み曹洞宗の「満泉寺」と改める。

天文22年(1553年)甲斐(山梨県)の武田信玄に攻められて、4月9日葛尾城は落城し、満泉寺も消失した。

天正10年(1582年)武田氏滅亡後、川中島(北信)は一時、森長可が支配し、のち上杉氏の領地となる。上杉氏の配下として海津城将となった村上義清の子景國(源吾・国清)は、翌11年(1583年)村上氏の居館跡に満泉寺を再建する。

その後、天正10年(1582年)3月、織田信長により武田氏が滅ぼされると、同年4月北信は信長の配下森長可(ながよし)の支配となる。しかし、同年6月3日京都本能寺の変により、森長可は美濃(岐阜県)へ逃げ帰る、そのあとへ入ってきたのが上杉景勝である。

上杉景勝は村上景國(源吾・國清)を海津城将にし、北信の支配をまかせた。しかし、翌同11年(1583年)5月23日、海津城の副将屋代秀正は上杉氏と対立する徳川氏に通じ、海津城を抜け出す謀反を起こす。そのため景國は海津城将を罷免され、越後に戻される。 以上。

いずれにしても、村上顕國は満泉寺の開祖であり、昨日、500回忌が行われました。

さる、7月に御所沢にある村上顕國の供養塔を訪問した際の様子は以下のサイト。
村上顕国の供養碑など御所沢地区散策

▼中央に斉藤住職、その右が会長の大橋昌人さん

坂城町長 山村ひろし

坂城町消防団 第11分団に新しい積載車(デッキバンタイプ)を整備

昨日(2月27日)、坂城町消防団第11分団に新しい軽四輪駆動積載車が整備され、入魂式が行われました。

新積載車は、後部座席に屋根があるデッキバンタイプで、乗員の安全性が向上するほか、悪天候時の移動の疲労を軽減することができます。

このデッキバンタイプの積載車は、昨年導入した第8分団に続いて2台目です。

坂城町長 山村ひろし

「ポーランド・シベリア孤児救済の物語」

 

 以下は、以前、私が今年8月15日の坂城町成人式でお話した、「シベリア孤児救済」の物語です。(ご参考まで)

 日本ではほとんど知られていない近現代史の秘話、「シベリアにいたポーランド孤児を日本が救った。」と言う物語です。

 これは、約100年前の1918年(大正7)から始まった当時の日本陸軍による「シベリア出兵」最中の出来事です。

 まず、なぜシベリアにポーランド人がいたのだろうかということですが、ポーランドは、ロシア・ドイツ・オーストリアという強大な隣国に分割され続け、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で形式上独立するも、ロシア皇帝が君臨するという実質上のロシア領であり続けたわけですが、ポーランド人は決して屈することはありませんでした。

 19世紀、ポーランド人は真の独立を勝ち取るべく二度にわたって帝政ロシアに対して独立戦争を挑みました。しかし、蜂起は鎮圧され、さらに蜂起に立ち上がった多くのポーランド人は政治犯としてシベリアに強制的に送られました。

 その後、第一次世界大戦で戦場となったポーランドの人々がシベリアに逃れ、シベリアのポーランド人は15万人から20万人に膨れ上がりました。そんな最中の1917年にロシア革命が起き、翌年1918年に第一次世界大戦が終結してようやくポーランドは独立を回復します。

 しかしながら、シベリアのポーランド人は、ロシアの内戦で祖国への帰還が困難となり、それどころか生活は困窮を極め、餓死者などが続出したのだった。

  そんな同胞の惨状を知ったウラジオストク在住のポーランド人が彼らを救済するため「ポーランド救済委員会」を立ち上げた。そして彼らは、せめて子供達だけでも救って祖国へ帰してやりたいと欧米各国と折衝をしましたがことごとく断られてしまいました。

 もはや万策尽きたなかで、ポーランド救済委員会はシベリアにいた日本軍ならびに日本政府に救援のお願いをしました。

 その申し入れを受けて、当時の外務省は、日本赤十字社に救済事業を要請し、7月5日に子供らの救護活動に入ることを決定します。

 ただちに日本陸軍が救援活動に動き出し、救援決定からわずか二週間後の7月20日に56名の児童とポーランド人の付き添い5名を乗せた日本陸軍の輸送船「筑前丸」が第一陣としてウラジオストクの港を出港した。

 3日後の7月23日、筑前丸が福井の敦賀港に入港し子供達が上陸するや、日本赤十字をはじめ軍や警察、役場、さらに一般の敦賀の市民までもが孤児たちを温かく迎え入れた。

 病気に罹っている子供を治療し、お腹を空かしている孤児らに食事や菓子を与え、そして入浴させて新しい衣服に着替えさせてやるなど、皆が孤児らを慈愛の心で包み込んだのです。

 そして手厚く看護されて元気を取り戻した子供達が横浜港から船でアメリカに向かうことになった。ところがそのとき、ちょっとしたハプニングがおきました。ポーランド孤児達が、泣きながら日本を離れたくないと言い出しましたのです。

 極寒のシベリアで極貧の生活を強いられ、親を亡くして人の愛情に触れることのなかった孤児達にとって、誰もが親切な日本はまさに天国でした。彼らにとって日本はもう“祖国”になっていたのです。

 横浜港から出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、ポーランドの付添人に抱かれて乗船することを泣いて嫌がりました。

 埠頭の孤児たちは「アリガトウ」を連発し、『君が代』の斉唱をして幼い感謝の気持ちを表して別れを惜しみました。

 だがそれでもまだシベリアにはおよそ2000名の孤児が救援を待っていた。

 再び日本に対し救援を求め、日本赤十字も最終的に急を要する孤児約400名を受け入れることを決定、再び陸軍が支援に乗り出しました。

 1922年8月、輸送船「明石丸」と「臺北丸」が3回にわけて孤児390名をウラジオストクから敦賀に運びました。もちろんこの第二陣の児童らも前年同様に敦賀の人々に温かく迎えられ、大阪の天王寺に建てられた大阪市立公民病院宿舎に収容されました。

 大阪での歓迎ぶりもまた、東京でのそれに勝るとも劣らぬものがありました。

神戸港からの離別風景も同じで、帰国児童一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちも、涙でこの子たちの幸せを祈りながら船が見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。

 この8回にわたる救済活動で、合計765名の子どもたちが救われました。

 しかし、この物語はこれで終わりではありませんでした。

 平成7年(1995年)、阪神淡路大震災が起きました。この際に、ポーランドの人々は、この震災で孤児になった人々の救援に立ち上がります。

 平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のかつてのポーランドのシベリア孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましました。

 その後も、ポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間もポーランドに招いてくれました。

知られざる日本とポーランドの交流秘話~両国の絆は日露戦争にさかのぼり、その後のシベリア出兵で結果として、765名のポーランド孤児を救援することができた、両国の感謝の応酬は今も続いているのです。

 また、昨年(2018年)11月20日には、このセレスティナウ町に近い、スタラ・ヴェシに「ポーランド・シベリア孤児記念小学校」も設立されました。

今年は、日本とヨーロッパ一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年を迎えました。

 また、来年はシベリア孤児来日100周年となります。

 (参考:「日本ポーランド国交樹立100周年記念誌」、「親日を巡る旅」(井上和彦著)他、多数の資料から引用させていただきました。)

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 50人目は宮本虎杖

先日、江戸後期の坂木宿の旅籠「大藤屋」の女将で当時高名な俳人、藤沢雨紅の俳句集「松蔭集」の再刊をしたことを掲載しました。

「坂城の100人」第12回目 江戸期に有名な女流俳人藤沢雨紅

今回は藤沢雨紅の師匠で大変影響力のあった宮本虎杖を掲載します。

坂城町学芸員の本間美麻さんに寄稿をしていただきました。 以下、ご覧ください。

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宮本虎杖(みやもと・こじょう)

  寛保元年(1741)~文政6年(1823             

 宮本虎杖は、「坂城の100人」で12番目に紹介された女流俳人「藤沢雨紅」の師です。

江戸時代中ごろ、坂木宿より1里半ほどの下戸倉(現在の千曲市戸倉)に豪農の子として生まれました。

ちょうどその頃、信州にも江戸の俳諧文化が入り始め、特に松尾芭蕉を正統とする「蕉風俳諧」の復古運動が起きていました。

 虎杖は、この蕉風俳諧の俳人である加舎白雄(かや・しらお)に明和5年(1768)ごろに入門したといわれています。28歳ごろのことです。最初の俳号は古慊(こけん)といいました。

 加舎白雄は上田藩士の子として江戸で生まれ育ち、蕉風俳諧を学んだ人物です。

信州北部・東部に多くの弟子がいました。虎杖より3つほど年上です。

3132歳で白雄と共に北陸・関西方面へ行脚し、3335歳ごろには江戸の松露庵烏明(しょうろあん・うめい)のもとで俳諧の修業をしました。44歳となった天明4年(1784)、白雄から判者の資格を与えられ、虎杖庵を名乗ります。

 天明8年(1788)、白雄は江戸の海晏寺で芭蕉百回忌法要を執行し、虎杖も宗匠として参加しています。この法要は俳句大会も兼ねており、白雄が芭蕉の俳諧を正統に継いでいることを知らしめるものでもありました。

 白雄と共に中央での知名度が高くなった虎杖は、人気俳人番付でも上位に名を見せます。

芭蕉が『更科紀行』に記した名月の里・姨捨を訪れる俳人たちの間でも、案内人として有名でした。

 藤沢雨紅の句が虎杖の刊行物に確認できるのは、享和元年(1801)の『つきよほとけ』からです。

虎杖の師・白雄は寛政3年(1792)に没し、寛政12年(1800)、姨捨長楽寺に句碑が建立されます。発起人は虎杖でした。この建碑を記念した句集が、翌年刊行の『つきよほとけ』です。(ちなみに、この白雄句碑の用材は、坂城町中之条地区産出の中之条石とのことです)

この句集には雨紅と、虎杖の後妻・鳳秋との歌仙(2人で交互に詠む連句の形式のひとつ)が収録されました。このことから、雨紅は虎杖夫妻と親しく、俳人としての評価も高かったことが想像できます。

 雨紅をはじめ、坂城の俳人はほぼ虎杖の門人であり、中之条陣屋(代官所)に詰めていた武士の中にも、虎杖庵を訪ねる俳人がいました。

苅屋原の泉徳寺、南条の酒玉神社、村上の自在神社には虎杖が関係した奉納俳額があり、坂城の俳人と交流が深かったことがわかります。坂城の俳諧文化をより豊かにしたのが、この虎杖だと言えるでしょう。

虎杖は温厚な人柄で、寺子屋を開くなどして人望もありました。他流派の小林一茶も、北国街道を通る折に虎杖庵へ立ち寄りました。こうした縁からか、泉徳寺の俳額には一茶も奉句しています。

文政6年(1823)、虎杖は83歳で没します。翌年に息子で虎杖庵三世の八朗が追善の句集を刊行しました。その中に、「はるの野に 急ぐ景色ハ なかりけり」という虎杖の句があります。

30歳前後から俳句に打ち込み、50歳を過ぎてから初めての子に恵まれ、老いてからも多くの門人たちと句集を編み、人生をゆっくりと楽しんだ虎杖の姿が見えるような気がします。

        

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坂城町泉徳寺にある宮本虎杖碑

正面に「乕杖翁」、裏面に「夜桜や 世に阿類ものの迎馬」

          

坂城町長 山村ひろし

「たばこ史研究」

(公益)たばこ総合研究センターから、「たばこ史研究」No.139が発行されました。

今回の研究論文の中に、昨年、坂城町の「玄古たばこ」の調査をされた、山本拓哉さんの論文が掲載されています。

山本さんは、坂城町の調査の後に、生坂村を訪れ、「生坂たばこ」についても調査されたそうです。

表紙には、千曲市戸倉の「坂井銘醸」さんで保管されている、「玄古たばこ」の写真と

目次として、

・阿部徳吉郎110回忌にあたって

・長野特集(1) 「生坂たばこ」と中央大学初代総長「加藤正治(犀水)」を生んだ在方荷主に関する考察

・長野特集(2) 坂城町に残る玄古和尚の墓と碑

などが特集されています。

本ブログで詳細を記述することはできませんが、ご興味のある方は、(公益)たばこ総合研究センター(〒105-0001 港区虎ノ門3-2-2 虎ノ門30森ビル Tel:03-3436-3771)へお問い合わせください。

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坂城町長 山村ひろし

「玄古たばこ」調査

「玄古たばこ」につきましては今までも何回か、ブログで取り上げました。

昨日(8月24日)、日本たばこ、JTクリエイティブサービスで、たばこ史の研究をされておられる、山本拓哉さんが坂城町役場へ来られました。

右から二人目が山本拓哉さん

目的は、坂城町町横尾にある玄古たばこに関する石碑の調査と、戸倉の「萱」に保管されている140年前の玄古たばこの葉の調査です。

かつて、江戸期を通して、坂城町でも盛んに作られていた「玄古たばこ」は、江戸の初期に武蔵国児玉郡今井町(現埼玉県本庄市)の出身の往海玄古和尚が、諸国を遍歴した後に埴科郡に到来し、南条に庵をくみ薩摩から持ち寄った煙草の種を移植したことにより始まったといわれています。

往海玄古の石碑を見る山本さん

往海玄古の墓を調査する山本さん

往海玄古の墓の右におられるのは町横尾区長の小林善道さん、玄古の墓の屋根は小林さんが作られたものです。

戸倉の「萱」に保管されている、140年前の玄古葉。今でもたばこの香りを残していました。

今回の調査で明らかになったのは、町横尾に残されている、往海玄古に関する石碑は江戸時代のもので、たばこに関する碑としては日本最古のものであろうということです。

玄古たばこの地元の町横尾の皆さんが大切に保存されてこられた歴史的遺産です。これからも大切に保存していきたいと思います。

また、今回の山本さんの調査結果は、JTの機関紙「たばこ史研究」に掲載される予定です。

坂城町長 山村ひろし