「玄古たばこ」の追加資料

先日、往海玄古と「玄古たばこ」について書きました。

坂城の100人 第27回目は「往海玄古」

その後、関連する貴重な資料が坂城町文化財センターに保存されていることがわかりました。

昭和5年に編纂された「南條郷土研究」の61ページから74ページにわたり、詳細に「玄古たばこ」について記載されていました。

概ね先日ご紹介した内容と違いはありませんが、以下のように図入りで説明しています。

江戸末まで横尾村の村民の約半数が「玄古たばこ」の生産に関与していたそうです。

上図にもある、「玄古たばこ」 用の 「たばこ包丁」(約20cm)

最近まで南条小学校で保管されていました。

今後とも、坂城町内に残されている貴重な文化財の修復、保存、閲覧などできるよう整備をしてまいります。

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第16回目は甘利八右衛門

「生きながら神と祀られた甘利さん」
以前、「生きながら祀られた稲玉徳兵衞翁」のお話をしました。
  https://yamamurahiroshi.sakura.ne.jp/archives/3799                      
もう一人の「生きながら祀られた」のが甘利八右衛門です。
               
甘利といえば上田原の戦いで武田晴信を守り村上義清のために討ち死にした甘利虎泰(あまり とらやす)が有名ですが、この甘利八右衛門にどのようにつながるのか不明です。 どなたか教えていただければ幸いです。
                  
尚、甘利明 経済再生担当大臣のプロフィールには:                  

「先祖は武田信玄の末裔です (本当)。信玄の親戚であり、重臣 No2 甘利虎泰 (あまりとらやす) が我が先祖です。」 と記されています。

           
さて、甘利八右衛門さんですが、坂城町中之条にある葛尾霊園の真中に位置する老松の根本に「甘利社」という祠があります。
              
       
「甘利之社」
                  
甘利社に祀られている甘利さんは、江戸時代の末、中之条陣屋の第二十四代の代官、甘利八右衛門のことで、名代官の一人として知られています。
                  
甘利代官の在任は、文久3年(1863)から慶応2年(1866)の足かけ4年でした。
                       
甘利代官は、領内の産業を振興するために中之条牧の内一帯の開拓を進めたこと、中山道岩村田宿・小田井宿への助郷(手伝いの人足)の減免を幕府に働きかけて実現したことで大いに領民から感謝され慕われました。
そして、住民から神として祀られました。
                     
中之条の人々は甘利さんのお宮の前で毎年お祭りをしてきました。
お祭りには、重箱に煮しめを入れて持参し、村人総出でというほど盛大であったといいます。
                     
                  
甘利八右衛門はその後も異動を繰り返し、慶応3年7月には出雲崎代官に転出し、江戸幕府最後の出雲崎代官となりました。
                
また、『続徳川実紀』「昭徳院殿御在坂日次記」慶応2年2月23日の記録によれば、八右衛門の次男で別手組出役の甘利謙次郎が、孟子ならびに孫子について徳川家茂の御前で講釈をしたことが記されています。(大阪で、年齢は十三歳。別手組とは日本に在留する外国行使などを警護する組織)
なお、兄の徳太郎も別手組に属し、後に北海道開拓使となったそうです。
激動の江戸末期の時代を生きた、甘利八右衛門、徳太郎、謙次郎、親子のその後の消息は詳しくはわかりませんが、甘利徳太郎(後知)がエトロフ島を測量をしたという記録と地図が北海道大学の資料にあります
                     
                             
                          
これには「大日本開拓使所轄」とあり、「明治七年九月十四日、駿州、甘利後知識」と記されており、エトロフ島を描いた墨書図です。凡例によると甘利後知が自らこの島を踏査して作製したとあります。(北海道大学資料)
                       
甘利一家のその後についても興味はありますが、今回は 坂城町中之条で大切にされてきた ”生きながら祀られた行政官 甘利さん” の存在を記しました。
                 
                             
 坂城町長 山村ひろし