「坂城の100人」第12回目 江戸期に有名な女流俳人藤沢雨紅

「坂城の100人」第12回目は江戸後期に坂城が生んだ当時の有名な女流俳人藤沢()(こう)(秀子)です。
 
 
藤沢()(こう)(秀子)
                 
1767(明和4)年~弘化2(1845)年
江戸時代後期に、坂城では数少ない女流俳人として名を成した藤沢()(こう)(秀子)がいます。
本名を秀子といい、坂木宿大門町の旅籠屋「大藤屋」の当主清蔵に嫁しました。
清蔵も貞雅と号する俳人でしたが、実力は雨紅に及ばなかったそうです。
雨紅は下戸倉宿の宮本虎杖に俳句を学び、享和元年(1801)の虎杖編の句集から俳句が掲載されるようになり、この後、内外の俳書に作品が数多く収録されていきます。
江戸の俳人小蓑庵碓嶺の俳書にも雨紅の作品が多数掲載されます。
天保4年(1833)に雨紅を訪ねた江戸の俳人大野景山は「婦人には珍しき俳人なり」と評しています。
60歳(耳順)になった、文政9年(1826)には、自句集『松蔭集』を刊行しました。これは坂城で刊行された唯一の句集であり、自句208首に雨紅と親交のあった俳人の句が掲載されています。
また、辞世の句(79歳で死去) 「散やけし 花ならまじる 日もあるに」 は満泉寺の墓に刻まれています。
               
「松蔭集」の所在が不明でしたが、私が偶然、長野県立図書館で発見し、鉄の展示館宮下学芸員の力を借りて調べています。
今回、その一部をご紹介します。
                       
「松蔭集」表紙
                   
「松蔭集」序文
                       
                     
「松蔭集序文」 (江戸の俳人小蓑庵碓嶺が記述)
                        

信濃のくに坂木の雨紅今年耳順(じじゅん:60歳)の春
を迎ひ君が代にとたひ(途絶え)澄べき水の色

を、くみて知りける山の春のな(名)と

古き世の御影を限なく歓びさゝれ石
盡せぬ千曲の流を汲て更級や
葛尾山の睦月の空をうつして
老のこころをなぐさめ月花の
冥加浅からずも自の句を撰みまた
英雄の句をも女手のたよわくも拾
ひ得てこれを酒肴にかえて賀莚を
ましけるの志目出度文政九年の
春の花とや言ん實や酒肴に
かえて並べたる発句の中々朽果
る世のあらざれば號は松蔭集
と呼ことしかり   碓嶺述
                    
              
「松蔭集」は自作の俳句が208句、その後に、江戸俳壇の大家を中心とした一茶を含む著名俳人9人の発句が続き、更に雨紅と仁井田(中村)碓嶺と八朗、3人の連句36首、雨紅と遠藤雉啄の連句18首、雨紅と碓嶺、如水の連句18首、そして、全国の俳人の発句100首という構成となっている大作です。
                
是非とも、この貴重な俳句集を再版したいと思っていますが、今回は、雨紅 自作の句集の始めと終わりの数句を掲載させていただきます。
                    
「松蔭集」の1頁目
                       
                     

「松蔭集」から初めの5句。(初春の句)
                
 ・元日やこころのはなのあさ朗(ぼらけ)
 ・元日や祝ふことさへありの侭
 ・親と子の無事を宝に花の春
 ・蓬莱や行義ただしく子はそだつ
 ・月雪や世の旅ころもきそはしめ
                  
                
「松蔭集」終わりの5句。(年納めの句)
                 
 ・小原女の柴には雨かみぞれ降
 ・友(共)に白髪(かみ)いだく迠(まで)を雪の様              
 ・行としを見に行頃やなごの海
 ・年の市挟莚売も一世界・・(挟莚:さむしろ)
 ・葛尾もとしのくれ行山路哉
                   
          
坂城町は素晴らしい歴史、芸術、文化の宝庫が山のようにあります。(一部はレア・アース化しているかも知れません。)
「松蔭集」についてもまだまだ不明な点が多く、今後とも継続して調査・研究していきたいと思っております。
                        
                
坂城町長 山村ひろし