千曲川イカダ下り大会(坂城チームも参加)

昨日(8月18日)、「千曲川イカダ下り大会」が開催されました。

2004年を最後に中断されていたものを一昨年から有志の皆さんで再開したものです。

ルートは千曲市の万葉橋から千曲橋までの約7.5キロです。(約2時間程度かかります)

かつては坂城大橋を出発点として坂城町、千曲市の大きな行事として開催されておりましたが種々の理由で中断されていたものです。

今回は全部で15チームの参加がありましたが、坂城町からは1チームのみでした。(チーム・タオ:大橋俊之さんほか)

開会式と選手宣誓(宣誓は坂城の大橋隆夫さん)

              

続々チームが集合

坂城チーム(「タオ」)

                   

着水する坂城チーム:タオ号

              

快走する坂城チーム

                 

 このレースの特徴は、単にスピードを競うだけでなく、「隠しタイム」との時間差で順位を決めるため、必ずしも短時間で完走したチームが優勝はできないことです。

 我が坂城チーム「タオ号」は、リタイアするチームが続出する中、悠々と完走しましたが残念ながら特別に賞をいただくことはできなかったようです。

                

 「イカダ下り」なかなか素晴らしいものです。

 来年はもう少し、坂城町も共催という形がとれないか、あるいは、昔のように出発点をもう少し上流の坂城側(坂城大橋の付近)に出来ないか、相談したいと思っています。

                  

 坂城町長 山村ひろし

坂城町昭和7年の「名勝繪葉書」

先日、ある方から昭和7年発行の「坂城町名勝繪葉書」をいただきました。

その方の友人が東京の骨董市で入手されたとのことです。

この絵葉書は10枚セットなのですが、いただいたものは残念ながら9枚のみでした。  (骨董市で買われた際の代金は500円だったそうです。)

しかしながら、この写真を見ると当時の坂城町の風景が如実に分かり大変感激しました。

さらに調べてみると、びっくりしたことに、この絵葉書が単に観光目的で作られたものではなく、その当時大々的に企画された 「村上義光公六百年祭」(没後600年)の一環として、坂城町史跡勝地保存会の事業として推進されたものの一つだということが分かりました。

坂城町史蹟勝地保存会の事業内容                  

かなりの大事業だったことがわかります。

中段に「坂城町名勝絵葉書」の発行の記述があります。

(坂城町誌下巻歴史編より)

村上義光公六百年祭の様子 (葛尾城址本丸にて)

(坂城町誌下巻歴史編より)

村上義光(よしてる)公については別途、坂城の100人の中で取り上げる予定ですが、簡単にご紹介すると以下のとおりです。

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 村上義光(よしてる)()
 生年不明~1333(元弘3)年
 信濃村上氏の一族。村上信泰の子で通称を彦四郎と称したが、後に左馬権頭に任じられた。
 元弘の変に護良(もりよし)親王に従い、南都から紀伊国十津川に逃れてこの地の土豪を頼ったが、北条氏の命をうけた熊野別当定遍の探査を避けて十津川を出て、後に吉野山に入って幕府軍の攻撃を防いだ。
 元弘3年(1333)年閏2月1日吉野城は落ちたが、この時義光は子の義隆とともに親王の脱出をはかるため、親王の身代わりとなって敵の目前で壮烈な自害を遂げた。
                  
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 昭和7年頃は戦時下にあり、坂城町でも国威発揚の国民教化策の一環として「村上義光公六百年祭」 「葛尾城址保存事業」が大々的に「挙町一致」で実施されました。
                                     
 以下、坂城町名勝繪葉書から表紙を含めて4枚ご紹介します。
                     
絵葉書集の封筒表紙
発売所が「佐藤写真館、山根屋書店」とあります。
                    
                    
「姫城紀記念塔」
                     
山頂右側に白い塔が見えます。私は初めてこのような塔が姫城に作られていたことを知りました。(戦中の物資供給要請により撤去されたそうです)
                    
                        
                         
千曲市磯部側から見た、姫城、葛尾城の風景
                           
磯部の上部の方まで見事に耕作されている様子が見えます。
桑の木でしょうか。いくつかの東屋も見えます。
現在では、全くの山地となっているところです。
                      
                      

                         
坂城町常山堤と昭和橋
                         
 常山堤の堤防の様子がはっきりと分かりますね。後方には木造の昭和橋の姿も見えます。 (常山堤については別途詳しく記述する予定です。)
                  
 今回、偶然に81年前の絵葉書を拝見し坂城町の「名勝」について大いに思いを馳せました。
 これからの町づくりに大変参考になりました。
 なお、これらの絵葉書は拡大コピーをし、しかるべき場所に展示したいと思っております。
                              
 坂城町長 山村ひろし

成人式挨拶(平成25年8月15日)

坂城町では、成人式を毎年、8月15日に開催しております。
                                  
今年の成人式該当者は197名で、内、本日出席された方は152名です。
(ただし、10ヵ月のお子さんをつれてこられた方もいらっしゃり、参加者は153名となりました。)
                       
                     
本日の成人式は実行委員会の皆さんのご努力もいただき、和やかな中、厳粛に執り行われ、大変素晴らしい式となりました。
                   
                    
                       
                      
私の挨拶を以下に掲載させていただきます。
                  
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成人式挨拶(平成25年8月15日)
 
皆さま今日は。
                  
ただ今ご紹介いただいた坂城町長の山村です。
本年、成人を迎えられた皆様おめでとうございます。
一言ご挨拶を申し上げます。
また、本日、ご多用のところ本式典においで頂いた、柳澤澄坂城町議会議長殿を始め多くのご来賓の皆様に御礼を申し上げます。
 
さて、本日、成人式を迎えられた皆様の中にはすでに社会に出て働かれておられる方、学生の方、働きながら勉強をされておられる方々がおられます。
又、坂城の中で家業を継がれておられる方、遠く坂城をでて活躍されておられる方々などいろいろな立場で本日お出でになっておられると思います。
 
坂城町では、例年、8月15日の終戦記念日に成人式を行っております。
先ほど黙祷をしていただきましたが、これは戦没者の皆様に対するものだけでなく、すでに2年半を経過した東日本大震災、長野県北部大地震など大変大きな災害で被害を受けられた方々に対するものでもあります。
また、災害という意味では、本年も日本各地で集中豪雨による被害、あるいは猛烈な暑さ、まさに異常気象と言われることが起き続けています。
幸い坂城町ではここ数年大きな災害はありませんが、いつ何時訪れるかもしれない災害に対して万全の準備を怠ることはできません。
 
本日の会場後方で被災を受けられた方々への義援金の受付を行っております。
また、坂城ライオンズクラブの皆さんがアイバンク(献眼)の登録も行われておられますのでご協力いただければ幸いです。
 
さて、皆さんが生まれ育って来られた平成は今年で25年となったわけでありますが、この間「失われた20年」「不況、デフレの20年」と言われ続けてきたわけでありその中で皆さんは生きてこられたわけであります。
                      
昨年の今頃は野田前首相が、消費税増税を柱とする社会保障・税一体改革関連法を可決・成立させました。
民主党、野田政権は遠い昔のような気がしますが、わずか1年前のことであります。
歴史というものはこのようにどんどん上から塗り重ねられて行くものであります。
昨年末の総選挙で圧倒的多数の中で自民党、公明党の連立政権が成立し安倍内閣が発足し、早くも9ヶ月が過ぎ、また、先月の参院議員選挙でもこの流れの中、民主党の大敗、自民、公明の大勝という形となり、参議院でのねじれが解消されました。
経済成長率もようやく上向き始め、新たな時代への息吹が感じられるようになりました。
皆様方はこのなか、まさに歴史の大きな節目の中で成人式を迎えられたことになります。
 
本日、8月15日は、約310万人と言われる大勢の戦没者の方々の命を失った第二世界大戦が終結し今年で68年目を迎えました。
 
本日、成人式を迎えられた皆様方にも、もう一度先の大戦についての歴史を学んでいただきたいと切に希望します。
 
毎年お話をさせていただいているのですが、皆様は人の命の大切さ、ご両親から頂いたこの命の大切さについてどう考えておられるでしょうか。
                     
私は「命」は大自然からお借りした大切な「宝物」だと思っています。 
皆さんの命は皆さんのご両親が突然作り出したものではありません。
皆さんのご両親、ご両親のご両親、どんどん遡れば地球誕生から約46億年、宇宙の起源から考えれば約130億年前から営々と皆様のDNAが脈々と続いてきているわけであります。
大自然からお借りした「命」を立派に立派に磨き上げ再び大自然にお返ししなくてはならないのです。
仮に、皆さんが友人からゲーム機を借りたとします、これを傷だらけにして汚して、きたないままで返したら皆さんの友人は何と思うでしょう。
借りた時以上に見事に磨き上げピカピカにして返したら皆さんの友人は何と喜ぶことでしょう。皆さんの「命」もこのようにピカピカにして命を全うし、大自然にお返ししなくてはならないのです。
 
今から70年前、戦時中では成人するということは即、戦場に行くということでありました。敵と戦うということであります。見も知らぬ人間の命を奪う戦いをせざるを得ないということであります。
 
一昨年の成人式の際に私は皆さんと同年代で、航空特攻隊として昭和20年まさに終戦の年に、国家に命をささげた二人の若い兵隊の遺言を読みました。
また、昨年は、上原良司さんという南安住郡穂高町に生まれ、松本中学校(現、松本深志高校)を卒業し、慶応義塾大学の経済学部へ進み昭和20年5月沖縄嘉手納湾上で米海軍機動部隊に突入戦死した方の遺言書を読みました。
 
 今年は、このような遺書を読むことはいたしませんが、たまたま、現在、戦争に関連した映画がいくつか上映されていますので、この点に関してすこしお話をさせていただきます。
                     
まず、「風立ちぬ」です。 ・・・風立ちぬ、いざ生きめやも・・・
                  
すでにご覧になった方が多くいらっしゃると思いますが、宮 駿監督のアニメで、昭和12年に発表した堀辰雄の小説「風立ちぬ」と零戦を開発した堀越二郎の二人を合体し、新たな「二郎」を創りこの主人公を中心にした素晴らしいアニメ作品であります。

                        
宮崎駿監督の言によれば 「自分の作ったアニメを見て初めて泣いた」 という作品だそうです。
                    

昭和10年ころというのはまだまだ本格的な戦争突入以前で、そこそこ民主主義が残っていて、文化的にも素晴らしい時代であったと言われています。
                      
この合体した「二郎」には、宮 駿さん自身もあわせ作られているのでしょう。
                   
反戦のアニメではありますがフィクションと事実が折り重ねられた素晴らしい夢のある作品でもあります。
二郎の同僚の本庄と二郎が交わした会話、「俺たちは20年先のカメを追いかけるアキレスだ」という言葉にこの時代の日本の若者の意気込みが感じられます。
また、最後の部分で、夢の中に出てくるイタリアの飛行機製作者カプローニ伯爵が二郎に「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」の質問に二郎が「はい!終わりはズタズタでした」というセリフは非常に印象的です。
二郎が設計した零戦は名機と言われながらその優位を保ったのはわずか3年でしかなく、最終的には「飛び立った零戦は一機も戻ってこなかった」わけであります。

 
また、主人公のセリフはみなさんよくご存知の「エヴァンゲリオン」の監督をされている庵野秀明氏が話されており大変新鮮な感じがいたしました。
ところで、詳細は決まっておりませんが、来年、春に坂城町の鉄の展示館で「エヴァンゲリオン展」を開催する予定にしております。
楽しみにしてください。
 
さて、是非、皆さんには、今年成人式を迎えられたのを期に、「風立ちぬ」をはじめ、「終戦のエンペラー」、「少年H」をもあわせてご覧になったらと思いますし、百田尚樹さんの「永遠のゼロ」もお読みになられると素晴らしいと思います。
 
さて、ここから先は毎年申し上げているところでありますが、もう少しお聞きください。
 
「後生畏るべし」という言葉があります。これは、論語にある孔子の言葉で、「若者は大きな力を発揮する可能性を秘めているから、年下の者には敬意を持つべきだ」という意味です。いい言葉ですね。
 
その正反対によくない言葉は「今時の若い者は…」と若者を批判する言葉です。 なぜ年寄りがよくこのような言い方をするのかというと、一つには、新しい価値観についていけないことが挙げられます。
もう一つは、自分の世代の実績を否定されたくない、あるいは、昔の良い思い出だけを残したいという人間の心理です。だから、今よりも昔の方が良かったかのように錯覚するのです。
 「今時の若い者は…」という批判は、いつの時代にも出てきますね。 
数千年前のメソポタミヤの遺跡やプラトンも言っているようですが、もし、年寄りがそう感じるのが正しくて、どの時代もその前の時代よりも悪くなっているのであれば、世の中は太古の昔からどんどん悪くなり続けてきたはずですね。確かに、現在、人口問題、環境問題、原発問題、など、昔にはなかった問題が出てきています。しかし、人類は必ずそういう問題を乗り越えてきました。
大切なのは物事の本質をとらえ、しっかりとした未来を見据えることが出来るかです。
 
「物に本末あり、ことに終始あり」、物事の何がもとで何が枝葉末節かを常に考え、何から初めに手を付け、何を最後に行うかなどの順序付けが大切です。
常に物事の本質を考え行動しなければなりません。
そうすれば、皆様が築く未来は大いに明るい希望の持てる世の中になります。
「命」を大切にし前向きにチャレンジして頂きたいと思います。
 
 本日、成人式を迎えられた皆様方の今後の益々のご活躍に期待し、成人式のご挨拶とさせていただきます。
                  
                   
平成25年8月15日 坂城町長 山村弘
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成人式の写真など以下の坂城町ホームページより
                         
                                   
                                    
                 
坂城町長 山村ひろし

「ピークシフト自販機」 が坂城町役場にも設置

今月初めに 「びんぐし湯さん館」 に 「ピークシフト自販機」 が設置されましたが、昨日、この自販機が坂城町役場入口右側にも設置されました。

                      

この自販機は、町全体での効率的なエネルギー利用を考える 「坂城スマートタウン構想」 の趣旨を北陸コカ・コーラボトリング 様にご賛同頂き設置されたもので、最新型のため全国的にもまだ設置例はあまりないそうです。
                      

最大の特徴は、日中の電力需要が多い時間帯には冷却の電力を使わず、電力需要が少ない夜間に冷却し、昼間は自販機内の保冷剤と高性能断熱材により飲料が冷たく保たれることです。

このように電力需要が大きい時間帯をずらすことを 「ピークシフト」 といいますが、日中には冷却をしないため、とても静かです

また、役場に設置された自販機の裏側には 「備蓄水」 ボックスが置かれており、緊急時に飲料水をまかなう事ができます。

この「備蓄水ボックス」には常時、500ml ペットボトルの飲料水が240本備蓄されています。

「坂城スマートタウン」 構想と災害対応のアイデアが結びついた好例です。

今後も種々の新たな取り組みを考えて行きたいと思います。                            

坂城町長 山村ひろし

竹内希さんのザンビアだより(第8回目)

坂城町南条出身で、現在、ザンビアでJICA派遣の理科の教師として活躍されている竹内希さんからレポートが到着しました。(第8回目)

相変わらず元気満々でご活躍の様子です。

2年のご予定なので残すはあと1年となりました。

戻られたら、坂城の子どもたちにもいろいろと経験談を聞かせていただければと思っております。

竹内希さん

竹内 希さん

以下、坂城町のホームページからご覧ください。

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ザンビアだより~        平成25年8月  竹内希

ザンビアだより(8)01

私の日常

  8月になり、今の家へ引っ越しをしてから丸1年が経ちました。私の活動も、折り返しとなり、なんだかあっという間にもう1年が過ぎそうです。

  このザンビアだよりも8回目となりますが、今まで私がザンビアでどのような暮らしをしているのか、紹介をしてこなかったので、今回は私の生活について触れたいと思います。

  私は、理数科教師としてザンビア共和国、北西部州、ソルウェジの中高等学校へ派遣されました。主な仕事は、日本では中学2年生に当たる理科と、高校1年生の生物を教えることです。学校のある期間は、以下のようなスケジュールで動いています。

勤務スケジュール

時間 月曜
(30分授業)
時間 火~金曜
(40分授業)
6:30 出勤 6:45 出勤
7:00 学校着
教員ミーティング
7:15 学校着
7:30 全校朝会 7:30

8:10
1時間目
8:10

8:45
1時間目 8:10

8:50
2時間目
8:45

9:20
2時間目 8:50

9:30
3時間目
9:20

9:55
3時間目 9:30

10:10
4時間目
9:55

10:30
4時間目 10:10

10:30
休み時間
10:30

10:50
休み時間 10:30

11:10
5時間目
10:50

11:25
5時間目 11:10

11:50
6時間目
11:25

12:00
6時間目 11:50

12:30
7時間目
12:00

12:35
7時間目 12:30

13:10
8時間目
12:35

13:10
8時間目    
午後は、補講、授業準備、マーキング、本の貸し出しなどを行っています。
17:00には退勤します。

  毎朝、1時間目が始まる前に教室の掃除とクラス担任の先生による出席をとります。月曜日は、教員ミーティングと全校朝会があるので35分授業、火曜日から金曜日は、40分授業です。お気づきかもしれませんが、休み時間は、たった一度の20分しかありません。授業は、教員が入れ替わった後、続けて行われます。この時間割からは多くの問題が見られますが、学校や教員数が生徒数に見合わない現状況では、どうすることもできそうにありません。私の学校は、1クラス約60人です。中学2年生から高校3年生の生徒が通っています。夜は、既に働いている方たちが、学位をとるための勉強をしに来ています。総クラス数は、午前と午後を合わせて約30クラスです。

  この学校は2部制で、午前と午後で生徒が入れ替わります。午後の授業は、アルバイト制になっており、教えた授業数あたりのお金が教員へ支払われます。午後はお金を稼ぎたい先生が入るので、私は授業を受け持っていません。その代り、午前のクラスの生徒に対する補講などを行っています。17時には仕事を終わらせ、暗くなる前に家へ帰ります。私の家までは、最低30分はかかります。帰り道にはマーケットがあり、野菜や食べ物が売られているので、新鮮な野菜はそこで買って夕飯の材料にしています。

  日々の生活で断水や停電などがありますが、断水した時は貯水タンクを、停電した時はキャンドルや炭を使って生活しています。最初は、この生活に対してとてもストレスを感じていましたが、今となってはもう慣れました。(笑)電気や水が止まっても、みんな笑顔を絶やさないで暮らしている、それがザンビアです。

ザンビアだより(8)02 

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坂城町長 山村ひろし

町村長会 政務調査会と中島千波画伯

昨日(8月6日)から今日にかけて長野県町村長会政務調査会の第2回総務文教部会が、小布施町と高山村で開催されました。

主な会議は小布施町公民館で6日午後開催され、国・県に対する提案・要望活動について討議しました。

6つの提案・要望事項を決定しましたが、その中での重点提案として、「道州制反対・町村財政基盤の強化」と「教育環境の整備」の2点を採択しました。

特に教育環境の整備については坂城町から提案した「インクルーシブな教育」の強化が含まれました。

*インクルーシブな教育 : 障がいの有無によらず、全ての子どもを対象として、一人一人の特別な教育的ニーズに応じて教育をおこなうべきであるという理念に基づいて行われる教育。たとえば、障がいがあったとしても他の子どもと同様な教育を受けられるように対応をはからなければならないと言う事です。

会議のあと、小布施町の市村町長の案内で小布施の町づくりについてご案内していただきました。

全国的に有名な小布施町の町づくりですが、いまだに進化を続けているという感を持ちました。

その中で、おぶせミュージアム中島千波館を訪れ、中島千波画伯とお会いすることができました。

約1時間詳細に館内を説明していただきましたが、大変ユーモアに溢れ内容的にも深い説明を受け大変感銘を受けました。

左から:山村、中島千波画伯、市村良三小布施町長

中島千波画伯の説明で大変ユーモアに富んだお話の例。

下の絵は「小夜曲」というタイトルのついた絵ですが、花瓶に稲穂が入れられ、鳩のおもちゃがあり、暗い背景の右上には天使がラッパを吹いているという構図です。

中島先生のお話では、「小夜曲」は有名なモーツアルトの曲にある、アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(Eine kleine Nachtmusik)ですが、この絵では、「あ稲暗いね、な、天使のミュージック」ということなのだそうです。

「小夜曲」(中島先生からいただいた画集から)

今回の政務調査会での議論も大変重要なものでしたが、いまだに進化し続ける、小布施の町づくりに大きな感銘を受けました。

坂城町では、坂城駅のエレベーター設置を基点として、駅前を中心としたバリアフリーの町づくりをスタートさせます。 種々の先進例を参考にして事業を推進いたします。

坂城町長 山村ひろし

和平国際交流村

昨日(8月5日)、1000mの高地にある 「和平(わだいら)国際交流村」 で毎年恒例の小学生児童を対象とした国際交流事業が開催されました。

本会は坂城町教育委員会、坂城町国際交流協会、アフリカ舞踊サークル「サブニュマ」など多くの皆さんのご協力を得て実現しました。

関係者含めた全員で(参加児童は43名)

挨拶する山村

挨拶される坂城小学校若林校長先生

後方:指導される先生方と右奥にはベン・ミンコフ先生のご両親もニューヨークから参加

今回、指導いただいた先生は坂城中学校で英語を教えておられる、ベン・ミンコフ先生を含め5名のネイティブスピーカーの先生たちです。

一昨年から、小学校の5、6年生で外国語授業が必修化されています。

一方、坂城町の国際化もどんどん進んでいます。

今回の事業ではいろいろ工夫をし、児童も大いに楽しんで参加していただきましたが、わずか一日の体験です。

今後は合宿なども含めもっともっと充実した内容にしていきたいと思っています。

詳細は、以下の坂城町のホームページから。以下のサイトをクリックして下さい。

(坂城町ホームページから)

http://www.town.sakaki.nagano.jp/www/contents/1001000000207/index.html

坂城町長 山村ひろし

平成25年度長野県消防ポンプ操法・ラッパ吹奏大会

昨日(8月4日)、長野市飯綱高原で平成25年度長野県消防ポンプ操法・ラッパ吹奏大会が開催されました。

心配された天候も薄曇りの中、比較的涼しい環境で長野県77市町村から選出された13の消防団による競技が行われました。

競技開始前の挨拶

我が坂城町からは、36年ぶりに出場した第10分団が、第2部小型ポンプ操法の部に出場し、良く健闘し、7位に入りました。

来年には更なる上位入賞を目指して切磋琢磨をしていただきたいと思います。

尚、千曲市消防団第3分団は第1部ポンプ車操法の部に出場し、第6位でした。

また、千曲市ラッパ吹奏分団は第11位でした。

頑張る 第10分団(上五明)チーム

競技終了後出場選手との記念撮影

前列左から:深井消防副団長、大井消防副団長、手塚消防団長、山村、山城上五明区長、塚田第10分団長

各々の部では以下の消防団が優勝しました。

第1部ポンプ車操法:富士見町、第2部小型ポンプ操法:上田市、ラッパ吹奏:上田市

本年度の大会出場お疲れ様でした。

来年に向けて、ポンプ車操法、小型ポンプ操法、ラッパ吹奏、各部門での訓練をスタートしていただきたいと思います。

坂城町民皆様の応援も宜しくお願いいたします。    

坂城町長 山村ひろし

第36回坂城町民祭り「坂城どんどん」

昨日(8月3日)、坂城町 町民祭り 「坂城どんどん」 が開催されました。

坂城町の全員が参加されたような大賑わいでした。

踊り流しの「連」も48連増え、約1500人近くの方が踊りに参加していただきました。

坂城町の人口の10%が踊りに参加されたことになります。

すごいことですね。踊り以外にお出でになった方をカウントすればおそらく、町民の2割以上の方々が来られたのではないでしょうか。

踊り流しのコンテストの結果は以下の通りです。

1.正調の部

1位:横町区連「壮」

2位:横町区連「美」

3位:下金井連

2.パフォーマンスの部

1位:大好きな坂城町をもりあげ隊(坂城小学校5年生)

2位:キラリ輝く2組っ子連(坂城小学校6~2)

3位:6の1今でしょ!(坂城小学校6~1)

3.特別賞

「それいけ3年2組マン」、 「野猿☆子野猿」、「We are great friends 3-3」、「まつTとゆかいな仲間たち(坂中3年4組)」、「上五明区育成会子どもおどり連」、「それいけ3の1ジャン淳ジョン!(坂中3年1組)」、「月見区子ども連」、「突き進 おでん(坂中2年3組)」、「坂城高校生徒会」、「大好きな坂城町をもりあげ隊を見守り隊」、「横町区連「健」」、「坂城町商工会青年部」、「八十二銀行坂城支店」

大変盛り上がった流し踊りでしたv。

特に、今年は小学校、中学校の子供たちの活躍が素晴らしいものでした。

挨拶する山村

坂城の100人 第21回目は吾妻銀右衛門

 坂城の100人、21回目は小網地区で新田等の開発を行なった吾妻銀右衛門です。
 (本稿は、文化財センター学芸員の時延武史さんに纏めてもらいました)
                      
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吾妻銀右衛門 享保7年(1722)頃~寛政7年(1795)頃
 
初代銀右衛門は、鼠宿村の吾妻彦右衛門の子として生まれました。吾妻家は有力な百姓で、村役人も勤めていました。
 
安永3年(1774)から、鼠宿村の忠左衛門・孫右衛門・又右衛門と協力して小網で新田開発を始めました。開発を行ったのは、今の小網公民館の西側に広がる谷地(小網沢)で、山神・藤之木・柳沢・菖蒲沢・小平・木戸口・舟久保・鍛冶山・五林原・西山の10か所です。
                
                             
 小網沢地区
                        
地形を見ても分かるとおり、「新田開発」とは言いながらも、水田に適した場所ではなく、実際は畑地の開発でした。その上、傾斜の急な斜面地であったため、植え付けた作物が大雨で度々流されてしまいました。そこで思案の末、北上州(群馬県)から「広葉ワセ」という品種の桑苗を取り寄せて植え付けたとのことです。この桑が開墾地と相性が良く、根も強くはり、耕作地が雨に流されることも無くなりました。この事に力を得た銀右衛門達は養蚕業に精を出し、さらには蚕種業まで手掛けるようになり、相当の利益をあげるようになりました。新田開発の成功した村では凶作の困難も租税滞納も無く、開発に係る借金も返済し、非常に安定したそうです。
 
開発当初、初代銀右衛門は鼠宿村から千曲川を渡って小網沢まで通っていましたが、天明2年(1782)頃に開発地内の舟久保に移転しました。現在、杉林の中に残る石垣が屋敷跡です。最大で5m程の高さがあります。隅角部分は、長方形に加工した石材を短辺と長辺を交互に積み上げていく「算木積み」という技法が用いられています。これは城郭の石垣に多くみられる技法で、経験を積んだ石工がたずさわっていたことがうかがわれます。当地がかつて松代藩領であったことから、松代周辺から職人がやってきたのでしょう。
                   
                  
昭和20年代の写真、中央下に大きな石垣
                                        
                   
               
かつての入口(石門)
                  
                  
石垣を下から見た状況                
                       
 
屋敷跡から北へ50mほどの所に銀右衛門の墓があり、自然林に返りつつある、かつての開墾地を静かに見つめています。
                     
                
銀右衛門の墓
                  
 
初代銀右衛門による新田開発が軌道に乗るまでは大変な苦労があったのでしょうが、水田を開発するより、桑畑を開いて養蚕を行う方が、はるかに富を生み出すことができると確信していたからこそ、農業には不向きな小網沢(実際に、現在では耕作されていません)にあえて挑戦したものと思われます。
 
現在を生きる我々の豊かな生活の礎として、吾妻銀右衛門の新しい産業を切り開く先見の明と、血の滲むような努力があった事を忘れないでいたいものです。
                       
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坂城町長 山村ひろし