男谷燕斎の書について

 過日(平成26年8月1日)、男谷燕斎の書について掲載しました。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=36860

                 

                  

 昨日、南澗山人さんという方から、この書の原典は、北宋時代蘇軾の門人(蘇門四学士の1人) ”張耒” (ちょうらい 1054年―1114年) の長い詩「文周翰邀至王才元園飲」の中の句ではないかとのご指摘を受けました。 内容は以下のとおりです。

                     
 漱井消午醉 掃花坐晩涼 衆緑結夏帷 老紅駐春妝

               

 こちらのほうが詩の内容としてもすっきりします。 

 燕斎の学識の深さをあらためて感じさせられます。

 意訳としては以下でいかがでしょうか。

 「井の水で午酔を漱ぎ、花を掃き、夕の涼に座し、夏の帳(とばり)から庭を眺むれば、そこには老紅木がいまだ春のよそおいをとどめ、静かに佇んでいる。」

                    

 坂城町長 山村ひろし

男谷燕斎の書 3幅

 以前、江戸後期に8年間、中之条代官をつとめ、後世に名代官と言われ、能書家でもあった、男谷思孝(燕斎)、(1777(安政6)年~1840(天保11)年)について何回か記述しました。

(男谷燕斎について)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30345

 

(男谷燕斎の書について)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=35217

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=36860

 

 先日、私の友人から以下の3幅を新たに紹介され、個人的に入手しました。

 いずれも、真筆と思われますが、如何でしょうか。

       

「無欲速無見小利」

             

 これは、論語 子路 の文で「速やかならんと欲すること無かれ、小利を見ること無かれ」です。あわてるな、小利を追い求めては大事が成らずということです。 いかにも燕斎の好みそうな文だと思います。

             

「瓶花力尽無風堕爐火灰深到暁温」

                 

 「瓶花力尽き、風無く落ち、爐火の灰深く、暁温に到る」、以前、ご紹介した一幅に似た風景のようです。

       

「允矣君子展也大成」

          

 これは、詩経(小雅)の一節で「允(まこと)なり君子、展(まこと)なり大成す」です。 意味は、「まことに君子と仰ぐべき天子であり、まことに中興の大業を成して、天下を復興された明天子である。」

            

 以上、男谷燕斎らしい書3幅をご紹介しました。

 いずれも坂城町役場公室に並べてあります。

 機会がありましたらご覧ください。

               

 坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 第47回目は大川悦生さん

 「坂城の100人」今回は久しぶりに現代版で、大川悦生さんについて。

 現在、鈴木京香さん主演の映画 「おかあさんの木」 が上映されていますが、この物語の作者、大川悦生さん(1930年~1998年)は数多くの童話を書いた日本を代表する児童文学作家ですが、坂城町(旧村上村)出身であることはあまり知られておりません。

(大川悦生さんについては以下のウィキペディアをご覧ください。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E6%82%A6%E7%94%9F

              

 大川悦生さんが亡くなられた年に、元坂城町教育長 大橋幸文さんが 「ふるさと深訪」 に大川悦生さんについて詳しく書かれています。 以下、その全文を引用させていただきますのでご覧ください。

 また、現在、上映中の映画については以下のサイトをご覧ください。

http://hlo.tohotheater.jp/net/movie/TNPI3060J01.do?sakuhin_cd=011937

            

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(大川悦生さんについて 「ふるさと深訪」 大橋幸文さん記述。平成10年。)

              

 今年、三月二十七日、大川悦生が六十七歳の若さで亡くなられたことが伝えられた。 『信濃毎日新聞』 をはじめ、ほとんどの新聞は、すい臓がんに倒れた大川悦生を悼み、その出身を長野県坂城町と報じた。 悦生の父は、上水内郡三水村の出身であるが、母は旧村上村網掛の小林家 (現当主は悦生と従兄の小林教雄さん) の出である。 悦生は村上村で出生、東京で育ったが、第二次大戦中、最も多感な時代を網掛に疎開し上田中学に学んだ。 中学三年の八月、江田島の海軍兵学校へ入学し特攻隊員となるため、広島へ赴く直前に敗戦、このことが、戦争と平和の問題を基調とした悦生の児童文学の特色をなしている。

                 

 いっぽう、民衆の立場に立脚した、民話・伝承に価値を見出して、沖縄から北海道にいたる民話の編集、研究書の執筆など意欲的な活動を展開した。 まさにふるさとの生んだ文学者であり、坂城町の誇りであった。

 大川悦生は、上田中学から早稲田大学文学部に学んでいる。 亡くなられて一か月後の四月二十七日、日本児童文学者協会の岩崎京子さんを実行委員長に、悦生とゆかりのある人々によって 「故大川悦生さん、お別れの会」 が開かれた。

                 

 

 各新聞は、このお別れの会についても伝えた(以下は一部要旨のみ)。 『読売新聞』は、がんの大手術を終えたあと 「これだけは伝えたい、伝えずには死ねない、という情熱を持ち続けること。それが生きた教育だ」 とある教育誌に悦生が書いた一節を紹介している。 また最後の一冊となった 『新訂子どもに聞かせる日本の民話』 の前書きに 「庶民が口づたえに伝えてきた物語りのなかにこそ、確かなものがある」 と記した一文を合わせて紹介した。

 『朝日新聞』 は、すい臓がんにむしばまれた体は、弱りきっていた。 歩くこともままならない。 それでも子どもたちに語るために、小学校や幼稚園に出かけた。 若いころから民話に興味を持った。 土地の民話を聞きに、全国を回った。

 自分の十五歳の時の敗戦の体験とも重なった。 戦争のありのままを、子どもに伝えたいとの思いを、生涯貫いた。 広島、長崎、沖縄に何度も出かけ、戦争と原爆を書いた。 弱くても必死に生きる人を愛した。 百七三冊の本を世に送ったが最近の風潮を憂えた。 野に在って、財と呼べるものは何も集めなかった。 多くの人に 「心の糧」 を与え続けた一生だった。 と書いている。

 大川悦生の代表作の一つ、 「お母さんの木」 は、各社の国語教科書に二十年近く取り上げられた。 県内で最も多く採用されている光村図書の五年生の教科書にも掲載され、多くの子どもたちが親しんだ。 中学三年の教科書には、日本を考えるというテーマの一つとして、 「大歳の夜来たもの―笠地蔵をめぐって―」 があった。

 いま使用している教科書には載っていないが、エコール(図書館ネットワーク)で検索すると、大川悦生の著作は、二一七冊(内坂城町立図書館に四七冊)あり、 「現代に生きる民話」 『へっこきじっさま一代記』 「広島・長崎からの伝言』 などいつでも読むことができる。

 雑誌 『信濃教育』 の今年の一月号から 「信州の教師に伝えたいこと」 の大川悦生の連載が始まったが、三月号での中断は惜しみてあまりある。 訴えは歴史を忘れ、生きる意味さえ見失いつつある私たちへの警鐘であった。

 戦後五十三年、日本は平和であったが、世界には戦乱が断えることなく続いている。

 この現実をしっかりみつめ、教師も子どもも親も、大川悦生の作品を読み続けなければならない。 (大橋幸文)

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 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第46回目は春日温斎

 坂城の100人、第46回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、春日温斎(1810年生)について記述します。        

内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。(今回で5人目、最終回です。)>

 

 

坂城町の寺子屋師匠(5)春日温斎(おんさい)

                   >

 通称弥兵衛、幼名八百吉、字を屈子信、号が温斎である。文化七年(一八一〇)十月の生まれ、弟の草臣はキリスト教の伝道師として活躍する。>

 温斎は初め南日名の神主小宮山清惟に和漢を学び、後に佐久間象山にも師事して、経書・詩歌を学ぶ。寺子屋師匠として読み・書き・そろばんのほか、俳歌を教える。読みは実語教・童子教・今川教訓鏡・庭訓往来・四書等を、書は四十八字假名手本・宿邑名寄・幼穉梯子・年中贈与等を、また女子のためには女用文章・近所村名・手紙文言・おん手本などを授けた。>

 日名沢の火の見がある道を挟んで西側、生垣に囲まれ、温斎の筆塚、佐久間象山の霊祠、頌徳碑が建つ。

                

              

 *尚、春日温斎の弟、春日草臣については、その息子の謙次郎とともに、北海道江別市美原地区のキリスト教布教に関して以下の記事がありました。            

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 (江別創造舎の記事より)

 明治28(1895)年の春、美原、最初の移住者春日謙次郎が石狩川左岸に佇み、原始の大河を前に天を仰ぎました。丸木舟で対岸に渡り、貸下を受けた三原33線1号線に堀立小屋を建てました。
 春日の父草臣は、佐久間象山の門下で、のちキリスト教に帰依しました。謙次郎自身も長野県松代美教会員であり、26年に渡道、札幌農学校長佐藤昌介の経営する農場を経て三原に入りました。ここに江別における初めてのキリスト教の種子が蒔かれたのです。

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 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第45回目は池田知硯(ちせき)

 坂城の百人、第45回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、池田知硯(ちせき)(生年、没年は不明。江戸末期から明治初頭の人物。)について記述します。    

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。(今回で4人目です。)

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坂城町の寺子屋師匠(4)池田知碩(いけだちせき)(中之条村)>

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明治四十二年に刊行された『埴科郡誌全』の人物編に寺子屋師匠であった池田知碩が載せられている。

              

「池田知碩は通称彦三郎三省堂と號す。埴科郡中之條村の人、家世々農を業とす。知碩幼より好みて書を読み、古今百家の書に通ず。性恬淡・寡言にして、能く人を愛し、栄利を求めず、仁慈にして施を好む。郷党学を好む者就て、書を借らんとすれば、欣然として之に応じ復其返納を責めず、若し所蔵なき時は購求して、之を貸與す。 (中略) 明治九年悉く其所蔵の書籍を出して、隣里郷党に頒つ。北は長野・松代より南上田に至る読書を好む者多く、其恵に浴す。親疎に論なく、毎人壱部合四百十六部二千九百九十四冊なり。十年五月飄然として家を出で、終に其所在を失ふ。譽世之を奇なりとす。知碩嘗て俳句を詠じて曰く、

                

六月の隙貝付たり野の木影(蔭)

               

遠近贈与を受けし者思慕して止まず。然れども、今に至るまで其終る所を知らずと言ふ。」

              >

 平成二十四年十月、格致学校で行った寺子屋展において、知碩から譲り受け、「知碩」の印を押した地図と刊本を展示した。今年になって知碩の弟子になる堀内周 (しゅうてい)が明治五年(一八七二)五月に知碩が弟子たちに蔵書を配る前の蔵書目録「池田氏蔵書録」をまとめていたことがわかった。蔵書録によると六〇三部、一九八一冊となっている。>

 知碩の句碑が村入口に建っているとなっているが、所在がわからない。

                       

 以下の写真は池田知硯が寄贈した本の一部で、「鳩翁道話」と「靖献遺言」               

池田知硯蔵書「鳩翁道話」

「鳩翁道話」:江戸時代後期の石門心学者柴田鳩翁の心学道話          

          

池田知硯蔵書「靖献遺言」

「靖献遺言」:浅見絅斎が1680年代に書いた尊王思想の書

          

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 坂城町長 山村ひろし >

坂城の100人 第44回目は山極茂吉

 坂城の百人、第44回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、山極茂吉(もきち)(1761年~1834年)について記述します。  

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。(今回で3人目です。)

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坂城町の寺子屋師匠(3)山極茂吉(もきち)(金井村)

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 南条小学校の西、旧道沿いに大きな石碑がある。江戸時代の寺子屋師匠、山城茂吉の筆塚・頌徳碑である。山極茂吉は字を高明、号を 高斎又碧山という。宝暦十一年(一七六一)に金井村の山金井に生まれる。

            

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                   >

 山極茂吉の筆塚の撰文は、佐久間象山によるもので、『象山全集』にも掲載されている。漢文で書かれているが、前の部分を読み下しにすると次のようになっている。>

 「山極高明茂吉と称す。世これを金井に居信す。人と為り寛蕑慈祥、人争訟有るを聞けば輒を循々これを解く。人亦往々これが為に渙然たり。故に茂吉の世を終る、里大訟無し。書札を善くし、其の筆蹟を学び、弟子の礼を執る者六百人、信上越の間に散居す。年七十三病家に散る。弟子追慕して已ます。乃ち其の退筆を其の家に需めて、瘞めて一塚と為す。」>

 茂吉は、非常に寛容の人で、争い事があると聞けば、よく言い聞かせ、そのため近郷には争い事は無かった。和漢の学や書に優れ、弟子の礼をとる者が六百人余もあり、なかには上州や越後から来る者もいた。七十三才で没し、弟子たちが師匠を悼んで遺品を納めて筆塚を築いた。>

 山極家文書は、上田市立博物館にわずかではあるが入っている。その中には、お手本の『千字文』などがあり、幕府領の取締役を勤めたことがわかる古文書も残されている。

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 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第43回目は西澤仁兵衛

 坂城の百人、第43回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、西澤仁兵衛(にへい)(1808~1882)について記述します。

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。

 

坂城町の寺子屋師匠(2)  西澤(にしざわ)()兵衛(へえ)鼠宿村)>

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 西澤仁兵衛の筆塚は、鼠宿の最南端、上田から来ると国道一八号線右側に整備された旧道の中程近くに建つ。中之条石で造られているためか、一部が剥落している。

         

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               >

 寺子屋師匠の西澤仁兵衛と筆塚については、西澤卓郎氏が『さかき』創刊号(さかき歴史同好会刊)に「筆塚考」を書いているので、それらを参考にする。>

 西澤家は仁兵衛を称する者が多く、幕末には三代続き、寺子屋師匠をしたのは二代目仁兵衛昭敬である。仁兵衛昭敬は、文化五年(一八〇八)に仁兵衛昭方の嫡子に生まれる。幼名は圭蔵、成人して牧太、嘉永元年(一八四八)九月、家督を相続して仁兵衛昭敬と改名する。>

 仁兵衛は、幼少の頃より学問を好み、和漢の学に深く、書にも優れ、多くの門弟に読み書きを教えた。また、学問を通じて佐久間象山とも交遊があり、象山もよく仁兵衛宅を訪れたと伝える。>

弘化四年(一八四七)十月、上五明村の者たちが収穫した薩摩芋を上田へ持っていこうとしたところ、下塩尻村中島の者たちに差し留められ、更に用水揚口を切り落とされる事件へと発展してしまった。この時、仁兵衛昭敬は、父の仁兵衛昭方に代わり江戸へ出府したり、松代藩役所へ出向いたりして解決に尽力している。文久三年(一八六三)十二月、松代藩から「奇特之体これ有に付」として籾一五俵が下賜されている。>

 仁兵衛昭敬は、明治十五年(一八八二)七月十八日に亡くなる。筆塚は明治二十年十一月、幕末・明治に活躍した山岡鉄太郎(鉄舟)の書による。

              

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第42回 山城一圭

 坂城の百人、第42回目は坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、山城一圭(1862~1895)について記述します。

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。今後、代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載していきます。

坂城町の寺子屋師匠(1)  山城一(やましろいっ)(けい)(上五明村)>

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 上五明の寺子屋師匠である山城一圭について『更級郡・埴科郡人名辞書』に、次のように記されている。

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 「幕末明治時代の寺子屋師匠、文久二年更級郡村上村字上五明に生る。幼にして学を好み、同村西教寺住職眞譽和尚について漢籍を学び、和算又俳句等を修める。家に寺子屋を開いて近郷の子弟に漢文及び珠算等を教える。来り学ぶもの五十六名の多きに達した。明治二十七年八月歿す。享年僅かに三十三、子弟その徳を頌して村の入り口に碑を建てその恩に報いる。」>

 山城一圭の孫にあたる山城昭先生が平成二十四年二月二十四日にご逝去された。遺族が家にある手本や文書類を町に寄贈された(現在は、格致学校に納められている)。前副町長の 澤哲先生が整理され、さかき歴史同好会『さかき』第九号に「山城昭氏寄贈文書目録について」として、寄稿している。>

 筆塚(顕彰碑)は、現在坂城大橋から村上方面に向かい、渡辺製作所から西(右)へ入る道、五〇mほど行った北側に建っている。かつては自宅近くにあったのを移転したものである。碑には、「一圭先生碑」とあるが、 澤先生が目録を作ってみると、「一圭」ではなく「一景」と記された文書もあり、その多くは本名の市三郎と記しているという。>

 市三郎は、文久二年(一八六二)の生まれで、明治元年はまだ六歳、学校が設立される明治七年には十二歳であった。学校に行かない、行けない青年たちは、夜学で学んだ。上五明村には「明治共学会」が設立され、市三郎はそこで学び、指導者でもあった。また、明治二十二年四月、村上村初の村会議員にも当選している。

               

 坂城町長 山村ひろし

 

坂城の100人 第41回は小野沢時仲です

 先日、坂城の100人 第40回目として鎌倉期に活躍した小野沢氏の祖「小野沢仲実」をご紹介しましたが、今回はその息子、小野沢時仲です。

 村上氏というと村上義清を中心とした戦国期のみを考えがちですが、11世紀後半の源盛清以来、500年もの長きにわたって村上の地を統治した歴代の村上氏ならびに分派した村上氏ゆかりの人物にもっともっと焦点が当てられるべきだと思います。

               

 その意味で、今回は前回に続き、鎌倉期に大活躍をした小野沢氏についての物語続編です。

 地名に残る小野沢は坂城町びんぐしの里公園と自在山(三角山)の間で、村上氏発祥の地 「島」 地区の東側下流の場所です。

          

現在の小野沢地区

びんぐしの里公園と自在山(三角山)の間で島地区の東側

            

    

小野沢にある村上保育園での運動会

後方に見えるのは「びんぐしの里公園」

               

       

この地図の上方左側の出浦沢川の右側に「島」、そのやや右側に「小野沢」、さらにその下側びんぐし湯さん館の左側に「福沢」の地名が見えます。これを見ただけでも「村上氏」の他に「出浦氏」、「小野沢氏」、「福沢氏」の存在が分かりますね。

                

 今回も坂城町 「鉄の展示館」 学芸員、宮下修氏に記述していただきました。

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北条得宗家に仕えた小野沢氏 その(2)「小野沢時仲」>

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今回も村上氏の一族である小野沢氏を紹介します。>

前回は小野沢氏の祖「仲実」でしたが、今回は仲実の子である小野沢時仲です。>

仲実の時代に北条得宗家の被官となり、御家人としても主家村上氏から自立し、幕府の中枢で活動するようになりましたが、その立場は時仲の代でも変わらず、幕府の記録では様々な場面で登場しています。>

嘉禎元年(1235)629日、時仲は将軍藤原頼経の五大明王院供養の参道に供奉したのをはじめ、頼経のあとを継いだ将軍藤原頼嗣やその後皇族将軍となる宗尊親王の近習として、数多くの出御の際に供奉しています。>

 また、時仲は弓矢の名人でもあったため、宝治2(1248)115日には弓始の射手2番をつとめ、弘長元年(1261)425日には、極楽寺(北条重時)邸における笠懸の射手をつとめるなど、度々弓始の射手や笠懸の射手などの儀式に参加しています。>

 建長4(1252)43日、頼嗣が将軍を解任され京都へ送還される際、時仲はその路次奉行をつとめました。>

弘長元年(1261)919日、時仲は、将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理し、将軍及びその御所の警備を統括した「小侍所」の所司を一時的につとめています。この職は代々幕府に仕えていた東国御家人の一族であるという家柄が重視された他、弓馬などの諸芸に通じている事も考慮されたため、これに選ばれることは名誉とされており、一時的にしろ、この職の任に就いたことは、小野沢氏のこの時期の立場を示しているといえます。>

一方、得宗被官として時仲は、寛元3(1245)7月、将軍頼嗣のもとへ得宗北条時頼の妹である檜皮姫が嫁いだ際、同じ得宗被官の尾藤景氏と共に随行員として供奉し、2年後に檜皮姫が亡くなるとその葬送に参列しています。また、建長2(1250)527日には、北条時頼の使者として『貞観政要』の一部を将軍頼嗣に進上しています。>

このように時仲は、父仲実と同様、将軍に近侍する御家人として、将軍3代(藤原頼経、頼嗣、宗尊親王)に仕え、路次奉行や小侍所の所司を一時的につとめるなど、かなり重要なポストに就任していきますが、こうした地位向上の背景には、小野沢氏が幕府のトップである得宗北条氏の被官であったことが大きな要因にありました。>

建治元年(1275)の六条八幡宮造営記録には、鎌倉在勤の御家人として「小野沢左近大夫入道跡」が記されており、鎌倉後期以降も小野沢氏の健在が予想できますが、鎌倉幕府崩壊後、その動向は確認できなくなります。他の多くの得宗被官の家々が北条氏とともに滅亡するか没落していきましたが、小野沢氏もその一つであった可能性が高いといえます。>

しかし、村上氏以外の坂城町の地名を冠する武士が、鎌倉時代、歴史の大きな中心で活躍していた事実は、坂城の歴史にとって大きな出来事であったことは間違いありません。

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坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第40回目は小野沢仲実です

 村上氏というと村上義清を中心とした戦国期のみを考えがちですが、11世紀後半の源盛清以来、500年もの長きにわたって村上の地を統治した歴代の村上氏ならびに分派した村上氏ゆかりの人物にもっともっと焦点が当てられるべきだと思います。

               

 その意味で、今回は鎌倉期に大活躍をした小野沢氏についての物語です。

 地名に残る小野沢は坂城町びんぐしの里公園と自在山(三角山)の間で、村上氏発祥の地 「島」 地区の東側下流の場所です。

          

現在の小野沢地区

びんぐし公園と自在山(三角山)の間で島地区の東側

            

             

この地図の上方左側の出浦沢川の右側に「島」、そのやや右側に「小野沢」、さらにその下側びんぐし湯さん館の左側に「福沢」の地名が見えます。これを見ただけでも「村上氏」の他に「出浦氏」、「小野沢氏」、「福沢氏」の存在が分かりますね。

                

 今回は坂城町 「鉄の展示館」 学芸員、宮下修氏に記述していただきました。

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北条得宗家に仕えた小野沢氏 

  その(1)「小野沢仲実」>

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今回と次回、村上氏の一族として鎌倉時代にその活躍が知られている「小野沢氏」について紹介します。>

小野沢氏は頼朝・頼家・実朝の源氏将軍三代後、鎌倉幕府で絶大な権力を握った北条氏の研究で数多く取り上げられ、その姿は主家の村上氏より詳しく伝えられています。>

小野沢氏の祖である小野沢仲実は、『尊卑分脈』によると村上為国の孫(父は「出浦氏」の祖:成国)で、村上氏が発祥した村上地区上平の「島」に隣接する「小野沢」の地名を名字として誕生しました。

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           >

仲実が歴史上に登場するのは、嘉禎元年(1235)711日、将軍藤原頼経の小御所出御に伺候した記録からです。その3年後にも頼経の上洛に供奉しており、仲実は将軍に近侍する御家人であったことがわかります。>

一方、暦仁元年(1238107日、仲実は執権北条泰時が派遣した弔問の使者として上洛しており、泰時の被官であった様子も窺えます。>

このように、仲実は将軍に仕える御家人であるとともに、北条氏の惣領=「得宗」の被官の立場でもあったのでした。>

その後、いったん仲実の動きは見えなくなりますが、建長3年(12518月になると、再びその姿が明らかになってきます。>

この年から文永2年(1265)まで、仲実は鎌倉の一般行政を担当する地奉行人であったことが確認できるのです。地奉行人は2名いて、1名は得宗の被官から任命されたことから、仲実は得宗北条時頼の被官として任命されたと考えられています。>

このように、小野沢氏の初代仲実は、御家人であると同時に、幕府最大の権力者北条氏の惣領である得宗の被官となり、さらに鎌倉の地を支える奉行人になるなど、小野沢氏は本国信濃から離れて幕府の所在する鎌倉を地盤に、幕府の中枢で活動していたことがわかります。>

主家であった村上氏は、承久の乱前後以降、幕府中枢から外されることになりましたが、小野沢氏はそれと入れ替わるような形で北条泰時の被官となり、以後、得宗家の被官としてその基盤を築き、村上氏から自立していったものと思われます。

        

次回は小野沢仲実の息子の小野沢時仲を取り上げます。

              

                   

坂城町長 山村ひろし

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