坂城の100人 第44回目は山極茂吉

 坂城の百人、第44回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、山極茂吉(もきち)(1761年~1834年)について記述します。  

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。(今回で3人目です。)

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坂城町の寺子屋師匠(3)山極茂吉(もきち)(金井村)

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 南条小学校の西、旧道沿いに大きな石碑がある。江戸時代の寺子屋師匠、山城茂吉の筆塚・頌徳碑である。山極茂吉は字を高明、号を 高斎又碧山という。宝暦十一年(一七六一)に金井村の山金井に生まれる。

            

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 山極茂吉の筆塚の撰文は、佐久間象山によるもので、『象山全集』にも掲載されている。漢文で書かれているが、前の部分を読み下しにすると次のようになっている。>

 「山極高明茂吉と称す。世これを金井に居信す。人と為り寛蕑慈祥、人争訟有るを聞けば輒を循々これを解く。人亦往々これが為に渙然たり。故に茂吉の世を終る、里大訟無し。書札を善くし、其の筆蹟を学び、弟子の礼を執る者六百人、信上越の間に散居す。年七十三病家に散る。弟子追慕して已ます。乃ち其の退筆を其の家に需めて、瘞めて一塚と為す。」>

 茂吉は、非常に寛容の人で、争い事があると聞けば、よく言い聞かせ、そのため近郷には争い事は無かった。和漢の学や書に優れ、弟子の礼をとる者が六百人余もあり、なかには上州や越後から来る者もいた。七十三才で没し、弟子たちが師匠を悼んで遺品を納めて筆塚を築いた。>

 山極家文書は、上田市立博物館にわずかではあるが入っている。その中には、お手本の『千字文』などがあり、幕府領の取締役を勤めたことがわかる古文書も残されている。

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 坂城町長 山村ひろし

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