男谷燕斎の書発見!

 センセーショナルなタイトルですが、数十年間、坂城町文化センターの金庫の中に眠り忘れ去られていた、男谷燕斎の書が発見されました。

                       

 男谷燕斎については以前ご紹介しましたが、江戸後期に坂木、中之条の名代官として活躍した人物です。 (勝海舟の父、勝小吉の兄でもあります。)

 燕斎は一方で幕府の表祐筆を務めるなど書道の大家でもありました。

 そのため、坂城町には燕斎による遺墨が幾つも現存しています。

(燕斎については以下のサイトをご覧ください。)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30345

               

 以下、ご紹介する書は、昭和56年、県宝 「格致学校」 移転復元を記念して、坂城町ご出身の中島英雄さんからご寄贈いただいたものです。

 大切に金庫にしまっていたのは良いのですが、展示される機会もありませんでした。

                         

                 

 

                

 どうでしょうか、大胆な書ですね。 よく見るとあちこちに襖の桟(さん)のあとが見えます。

                          

上部にはっきりと桟のあとが見えますね。

                    

           

 私には、男谷燕斎が酔いに任せ、襖に一気に書き上げたように思われますが如何でしょう。

             

 さて、この書をどう読むかですが、坂城町の学芸員の皆さんとも議論をしましたが、以下のような解釈をいたしました。

                

如何でしょうか。

                

 また、私の意訳としては、以下のように考えました。

                

 「井の水で午酔を漱ぎ、身をあらため、夕の涼に座し、夏の帳(とばり)から庭を見れば、そこには老紅木がいまだ春のよそおいをとどめ、静かに佇んでいる。」

                                             

              

 現在、この書は坂城町役場町長公室に掲げてあります。

 お出での節に一度ご覧いただければ幸いです。

                                                

 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第39回目は扇池亭澄

 坂城の100人 第39回目は扇池亭澄(ますみ)(心光寺縁阿弥上人)。

 坂城町込山の心光寺住職、縁阿弥上人です。(1778~1833)

 前回に続き、当時の坂木を代表する狂歌師です。

                          

当時、江戸の著名な文化人であった狂歌師の蜀山人(太田南畝)が序文を書いた「信上諸家人名録」の中央左側に、「狂歌、澄、号 扇池亭、坂木、心光寺」として紹介されています。

              

心光寺南側にある縁阿弥上人の筆塚。 亀型の基石の上に建てられています。

               

縁阿弥上人筆塚側面(内容は以下をご覧ください。)

建立されてから180年、判読が難しい状況になっています。

                     

 以下、今回も、「ふるさと探訪」から、塚田睦樹先生の解説を引用して掲載します。

                 

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 澄は込山の心光寺住職として朝夕仏の道を勤め、食事をすることさえ忘れるほど精進したといわれています。

 余暇には、上人の学徳を慕って教えを受けにきた弟子は百人を越えたとのことです。

 文政元年(1818)頃、住職を退いた後は、心光寺境内の観月舎(月見堂)で、池に住む蛙を友とするなどして、狂歌を盛んにつくったといいます。

 天保四年(1833)に建立された縁阿弥の筆塚の側面には、四方瀧水の書(蜀山人の門下生)に以下のように書かれている。

                        

 「扇池亭澄 心光寺縁阿弥上人

 信州坂木の人。 寤寐(ごび)ただ狂歌を以てつとめとす。平生居る所の室、反古積もりて堆し。(ほごつもりて うづたかし) 是ミナ其詠ずる所の歌屑なりとぞ。」

 (信州坂木の人。寝ても覚めてもただ狂歌を作るのを日々の勤めとしている。普段居住している部屋は、書き損じた紙片が積もってうずたかい。これは皆彼が詠んだ狂歌の屑である。)

                    

 以下、扇池亭澄の狂歌 2句を掲載します。

                  

                      

 「虫」

                   

 あき風をひくまの小野の月しろに髭のはえたる虫の鳴くらむ

                 

 (吹き荒れる秋風がおさまる間の、小野の郷の月の出に空の白む頃には、髭の生えている虫が鳴いているだろうか。小野は京都の比叡山の里か、山科の里。

                       

           

 「海辺春立」(うみべはるたつ)

                 

 人よりも春たつけさの霞まで一といふ字をひく筆の海

                           

 (筆の海は、筆で描いた海か。立春の朝、その海に一という字を引いて霞とした。海辺には人は立っていない。ただ一面に霞が立ち込めている風景。)

                       

                          

 以上、江戸後期の坂木を代表する狂歌師3名をご紹介しました。

 いわゆる「狂歌」の持つ諧謔、軽薄なイメージではなくいずれも大変哲学的な深いものを感じますね。                         

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 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第38回目は北国堂雪高

 先日、坂木の狂歌師の一人として、船海堂潮来(前澤茂左衛門)の紹介をしました。

 今回はその続編で、やはり同時期の有名な狂歌師、北国堂雪高(荒井得三郎)の紹介をします。

 北国堂雪高は坂木、横町の生まれで多数の狂歌を残しました。

                         

狂歌集の数々。荒井直喜さん蔵。(「ふるさと探訪」より)

                   

「信上諸家人名録」、左から二人目に荒井得三郎の名が。

                    

                  

 「ふるさと探訪」より北国堂雪高の句を五句掲載します。

 解説は塚田睦樹先生によります。

                   

                 

 「残鶯」(ざんおう)

                  

 すみなれし花の古巣も若葉して老荘の杜へかよううぐひす

               

 (住み慣れた花の古巣が若葉してしまったので、鶯は老荘の杜へ不老長寿の修行に通っている。老子荘子は中国の思想家。鶯を擬人化して老人の願いを示唆したのがおもしろい。)

                          

                      

 「猿」

                 

 なく猿の皮ハ鼓(つづみ)となりながらうって替りし声のさびしさ

                

 (猿はけたたましく鳴き騒ぐ。それが皮となり、鼓になっても音立てるが、あの元気さとうって替ってしまってさびしいなぁ。皮になっても鳴く哀れさ。)

                            

                     

 「梅」

                 

 ぬすみてもあと嗅ぎつけて追いかけん匂いにしれる梅の枝道

             

 (盗んでも後を嗅ぎつけて追いかけよう。梅の匂いでそれとしれるよ、梅の枝道は。 卑俗的な盗みと優雅な梅の香の取り合わせが面白い。どじな泥棒への笑い。)

                             

                          

 「旅春雨」(たびのはるさめ)

                        

 はるの雨ふるさと遠くはなれ来て音信(いんしん)もなき旅ぞ淋しき

                 

 (春雨がシトシトと降る。故郷を遠く離れて来て何の音信もない旅は心も滅入って淋しい。春雨が降るからか、たよりのないからか、淋しいのは、よく分かる心境。)

                               

                                

 「林外筍」(はやしのそとのたけのこ)

                     

 けん竿と末ハなりなん藪越て人の分地にいづる竹の子

                    

 (終いには間竿になってしまうだろう、竹藪を越えて他人の分地に顔出した竹の子は。林外筍は間竿になって土地の境を測るとした諧謔。)

                        

 以上、いずれの句もなかなか奥深いものがありますね。

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 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第37回目は船海堂潮来

 「坂城の100人」 第37回目は、先日ご紹介した江戸、天明期の有名な狂歌師、船海堂潮来(前澤茂左衛門)です。 天明(1781~1789)狂歌と言われた狂歌全盛期の狂歌師。

                        

 船海堂潮来(ちょうらい)は坂木、横町の生まれで家は代々茂左衛門を襲名した旅籠です。(村名主も務めた家です。)

                       

 以下、潮来の狂歌を5句ご紹介します。 (「ふるさと探訪」より。解説は塚田睦樹先生によるものです。)

                   

 塚田睦樹先生の解説と共に読むと狂歌というイメージではなく深い哲学的な叙情を感じます。

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 「老人」

            

 頭にハ雪をつミてし老(おひ)が身は杖をつかねバあぶなかりけり

 (頭に雪のような髪を積んでしまった老いの身は、雪の積む道は杖をつかなければあぶないな。老人の白髪を「雪の積む」の比喩が妙。)

                

                 

 「苗代」

                

 糸ほどな水せきいれて小山田にいのちをつなぐ種も蒔たり

 (糸ほどのか細い水を堰きとめて引いた小さな山田に、籾の種も蒔いた。これでかろうじて命がつなげる。山間の小さな田に暮らしをかける貧農の思い。 水・せき・田・種などの縁語が適切。)

             

              

 「擣衣(きぬをうつ)」

                

 背なかにハ子をおひながらひとりして子持縞(こもちじま)をもうてる衣(きぬ)うち

 (背中には子を負いながら独りで子持縞をうっている衣うちの女がいる。その姿があたかも子持縞だと見立てた連想が面白い。)

                     

              

 「山霞」

                

 染草の出るてふ山の白妙もついぞやすくかかすむむらさき

 (染の原料の染草が生えているという山の白妙も、そんなにたやすく紫に霞むのだろうか。話を聞いただけで、そのように見えるのは人の心の面白さ。)

                   

                

 「神楽」(かぐら)

             

 寒けさにみな音のたへし虫の名の鈴のミぞきく霜のよかぐら

 (秋が深みすべての虫の音の絶えてしまった霜夜に、神楽の鈴の音だけが聞ゆる。霜夜の寒さと心にしみる鈴の音に更けゆく晩秋の夜の叙情を詠む。鈴虫の名の鈴だけを取り出したのが妙。)

                    

                    

 次回以降、同時期の坂木の狂歌師、北国同雪高(荒井得三郎)、扇池亭雪高(縁阿弥萬誉上人)を順次、ご紹介します。

           

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 坂城町長 山村ひろし

「信上當時人名録」

 「信上當時人名録」は文政十年(1827)に発行された信州と上州の文化人を記録した書物(人名録)です。

 当寺の有名文化人を紹介した本です。

 「坂城の100人」を進めていくうえで、江戸文化の中で一時期をつくった「狂歌師」が坂木でどのように活躍していたかを調べようと、この本の原本を探していたのですが、何と、長野県のディジタルアーカイブ(「信州デジくら」)に登録されていました。

             

 この本の序文は当時、江戸の著名な文化人であった狂歌師の蜀山人(太田南畝)が記しています。

                  

             

 この人名録には345名の名が記されていますが、坂木からは20名もの人物が名を連ねています。 坂木の文化人も大活躍ですね。

 俳人では、以前にもご紹介した、藤沢雨紅や沓掛仲子などのほか小林一茶などがあり、狂歌師としては、3名記されていました。

                       

中ほどに小林一茶、右端に沓掛仲子

中央左に:藤澤秀子(雨紅)

                  

一番左に:藤澤清助(貞雅。雨紅の主人の名も。主人の清助も俳人として有名人だったのですね。)

              

左から3番目に、前澤茂左衛門(狂歌師)

              

 当時、坂木を代表する狂歌師は次の3名です。

 船海堂潮来(前澤茂左衛門)、北国同雪高(荒井得三郎)、扇池亭雪高(縁阿弥萬誉上人)

                   

 狂歌は、諧謔、滑稽、機智を詠んだ短歌ですが、江戸時代、天明期(1781~1789)に大流行しました。

 その中でも有名な狂歌師が蜀山人(太田南畝)です。

 上記の坂木の狂歌師も蜀山人の影響を強く受けています。

 北国街道、坂木宿に往来する江戸文化の香りが素晴らしいものです。

 次回以降の「坂城の100人」ではこの狂歌師の作品を一人づつご紹介したいと思っております。

                      

 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第36回目は村上頼時

 坂城の100人、第36回は村上頼時です。

 前回、登場した村上経業(つねなり)の子息です。

 今回も鎌倉と信州村上家のつながりについて新たな知見をもとに鉄の展示館宮下学芸員に寄稿していただきました。

 村上氏と鎌倉幕府ならびに北条氏との関わりについては、これからもっと研究しなくてはならないテーマだと思っております。

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源実朝、藤原定家とゆかりある「村上頼時」>

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前々回から平安末~鎌倉時代の村上氏を紹介してきましたが、今回は前回紹介した村上経業の子村上頼時を紹介します。

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鎌倉時代、村上氏は2つの系統が存在し、その一つが頼時の父から始まる経業系(右馬助系)でした。頼時の歴史的初見は、父と共に頼朝の勝長寿院供養に供奉した文治元年(118510月からです。以後、鎌倉御家人として父や伯父(基国)と共に活動した記録が見られます。>

ところが、建久9年(1198)以降になると、頼時は京都においてその動き確認できます。村上氏は院政期から京武者として京都に基盤を持っていましたが、頼時は少なくとも建久9年から承元元年(1208)にかけて京都の治安維持と民政を所管する「検非違使」を勤めていました。>

鎌倉では六位相当の「左衛門尉」であった頼時は、検非違使になると五位相当の「大夫尉」、そして従五位下「筑後守」へと昇進し、元久元年(1204)には「従五位上」となります。これらは京都での活動を通じて、朝廷、つまり後に承久の乱を起こす後鳥羽上皇から与えられたものと思われ、頼時は後鳥羽上皇と何かしらの関係を築いていたようです。>

検非違使の任を解かれた後も頼時は京都で活動していましたが、一方で鎌倉幕府三代将軍源実朝に対しても、近しい立場で仕えていました。>

建暦2年(12129月、頼時は実朝の行列供奉のため関東に下向しますが、この時「新古今和歌集」の撰者として有名な歌人藤原定家の許を訪れ、下向の旨を伝えると、鎌倉において将軍実朝に定家の消息や和歌などを献じ、京都の情報も伝えています。実朝は歌人としても有名で定家を師と仰いでいました。>

このように頼時は、京都と実朝の間をつなぐ役割を担っていたことが推測でき、実朝との深い関係が想定できるのですが、二人の関係も承久元年(1219127日に生じた実朝暗殺事件により途絶えてしまいます。そして、更にこの事件があった日を最後に頼時の名前をこの後確認することは出来なくなってしまいます。>

実朝暗殺後、実朝を支えていた側近の御家人や近習たちは数多く出家し、幕府の中枢からはずされるのですが、頼時もこのなかの一人であった可能性が高いと指摘されています。>

頼時だけでなく前々回紹介した村上基国及びその系統も、この事件前後から以後、幕府側の記録からは一切その名前が消えてしまうことから、それまで御家人の上層クラスであった村上氏(基国系・経業系)は、頼時が実朝の側近であったことを理由に幕府権力から遠ざけられたものと思われます。>

しかし、前々回からお話ししているように、村上氏は幕府の中枢からはずされたとはいえ、本領の信濃国では2つの村上氏が鎌倉中期の建治元年(1275)には間違いなく御家人として存続し、今回紹介した頼時の子孫は、京都で「筑後前司跡」として、これまた御家人として存在していたことが確認されています。>

こうして鎌倉期を通じ経業・頼時父子の系統(右馬助系と筑後守系)は信濃と京都で存続し、村上氏が平安後期以降も引き続き京都で基盤を維持し続けていたことがわかります。>

村上氏が鎌倉時代、御家人として存続できたのは、実朝没後、幕府の権力を握った北条氏に接近し、北条氏の被官になったからだとの指摘があります。そのため、北条氏が滅亡した後、それまで村上氏の中核であった基国系と経業系は共に没落し、それにとってかわる形で同じ村上為国の子で、庶流の地位にあった安信系(安信は寿永2年【118311月の法住寺合戦で討ち死に)から村上義光・義隆父子と村上信貞が輩出され、村上氏の惣領になった、との新しい見解が出されています。>

従来、空白の多かった鎌倉時代の村上氏の新たな知見として大変興味深い内容であり、村上氏が常に中央権力と結び、勢力を維持し続けていたことがわかります。

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坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第35回目は村上経業(つねなり)

  坂城の100人、今回は村上経業(つねなり)です。

 村上経業の主な活動の場は鎌倉で、鎌倉時代の歴史書 「吾妻鏡」 にも源右馬助(うまのすけ)として度々登場しています。

                    

(嵐山町web博物誌より)

 

 最近、平安期から鎌倉期にかけての村上氏の研究に精力的に取り組まれている、宮下学芸員に寄稿していただきました。

 以下、いささか長文ですが、信濃村上氏の新たな一面をご覧ください。

                       

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鎌倉時代、もう一つの村上氏「村上経業(つねなり)>

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今回も前回に引き続き、平安末から鎌倉時代に活躍する村上氏として村上経業を紹介します。>

経業は前回の村上基国の兄弟で、最初「明国」、長兄の信国らが亡くなってから経業に改名したようです。>

鎌倉時代、信濃村上氏の嫡流は前回紹介したように村上基国系だと思われますが、この基国系とほぼ対等に信濃国を本拠に活動していたのがこの経業の系統です。つまり、鎌倉時代、村上氏は2つのほぼ同等の家が存在していたのです。

                  

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経業が歴史上に登場するのは他の兄弟より遅く、その初見は鎌倉に政権が成立して間もない文治元年(1185)で、鎌倉で御家人として活動していた記録からです。>

それ以前では、長兄の右馬助信国が亡くなるきっかけとなった寿永2年(118311月の法住寺合戦において、経業も他の多くの兄弟と共に参陣していたものと思われ、この合戦後に信国が亡くなったことで、村上氏は基国と経業が一門の中心となり、経業は兄の官途である右馬助(正六位下相当)を拝官したものと考えられます。>

このように経業が京都で活動した記録はほとんど確認できず、上述したように、その活動は鎌倉において顕著となります。>

経業も基国と同じように鎌倉での活動の中心は、儀式などでの将軍頼朝への供奉でした。文治元年に子息頼時と共に頼朝の勝長寿院の供養に供奉したのを始め、『吾妻鏡』では合計5回、頼朝の供奉を勤めていたことが確認でき、その行陣の隊形において経業は、初期鎌倉幕府内の高位者が位置する「御後」を勤めていました。前回の基国同様、この時期の村上氏は清和源氏頼信流という名門で、平安後期以来京武者であった来歴ゆえに、このような上層メンバーとして位置づけられていたと考えられます。>

経業については、建久6年(11953月、頼朝の東大寺供養の供奉を最後にその活動は確認できなくなるので、その後間もなくして亡くなったのでしょう。経業亡き後は、子の頼時が跡を継ぐのですが、頼時については、次回、稿を改めて紹介したいと思います。>

経業系の子孫は、その後、基国系と同様に承久の乱(1219年)前後から鎌倉幕府の記録から姿を消してしまいます。しかし、前回も紹介したように、鎌倉中期の建治元年(1275)には、経業の子孫も「村上馬助跡」として基国系の子孫とほぼ同程度の勢力を保持して、信濃国で御家人として存続していたことがわかります。>

従来、村上氏は鎌倉初期を除き、北条氏が権力を握ってから、北条氏から疎遠にされたといわれてきましたが、最近の研究では、幕府中枢から村上氏は排除されたものの、北条氏との関係については距離を縮め、北条氏の被官になっていったとも云われています。>

このように、ここ数年の研究により、村上氏を含めた村上一族全体の動きがより鮮明になってきており、従来の定説というものが様々な点で書き換えられてきています。前回と今回紹介した村上基国と経業兄弟、そして、その子孫の動きはこうした歴史研究の成果によって知ることが出来ました。

                         

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坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第34回目は村上基国

 「坂城の100人」今回は34人目として村上基国を取り上げます。

 源義経とともに源平合戦で大活躍した人物です。

 以下、鉄の展示館宮下学芸員に寄稿していただきました。

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鎌倉時代の信濃村上氏嫡流「村上基国」>

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今回は、村上氏のなかでも平安末から鎌倉初期に活躍した村上基国を紹介します。>

500年にわたる信濃村上氏のなかで基国の名はあまり聞き慣れないかもしれませんが、基国は本ブログの9回目に登場した村上為国の子にあたります。このブログで何度も系図の典拠としている『尊卑分脉』では、為国には大勢の子どもがあったことが記されており、基国は「次郎判官代」として為国の次男であったことがわかります。

               >

村上氏の祖源盛清以降、村上氏は村上郷を本拠としながらも、京都に活動基盤をおいて時の権力者たちと深い関係を築く「京武者」であったことが最近の研究で明らかにされています。  >

               >

基国も京武者村上氏として鎌倉時代以前は、京都で活動していたことがわかっています。その初見は父とともに参加した保元の乱(保元元年:1156)でした。保元の乱については為国の時にご紹介したように、この乱で為国・基国父子は敗れた崇徳上皇方に付いていたのですが、乱後に処罰された形跡は無く、その後、基国は保元の乱で相手方だった後白河天皇の異母妹である八条院の蔵人なっています。八条院はこの後、平氏全盛時代の中で、反平氏勢力結集の拠点になっていくことから、基国をはじめとする村上氏一門は比較的早い時期から反平家の立場になっていたと考えられます。

                >

その後しばらく村上氏自体の動きは見えなくなりますが、基国の兄で為国の嫡子であった信国は、寿永2年(11837月、京から平家を都落ちさせた木曽義仲の軍中枢として京都の治安維持にあたります。しかし、その4か月後、義仲と後白河法皇が不和となり生じた法住寺合戦では、信国を始めとする村上一族は後白河方として参陣し、基国の弟三郎安信が討ち死にし、合戦後、長兄信国も義仲によって官職を解かれ、殺害されたと考えられています。  >

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基国もこの合戦に参加したと思われますが、この後間もなくして、義仲を滅ぼした源義経らの鎌倉軍に属し、基国は義経のもとで一の谷合戦などの平氏追討に参加し、勲功をあげます。

                   

『源平合戦図屏風』(大阪府高槻市霊松寺蔵・平凡社)

嵐山町Web博物誌より「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」

              

こうして基国は兄・弟の死後、村上氏の中心となり、基国の系統がその後の村上氏の嫡流になっていったと考えられます。>

平氏滅亡後、基国の活動は京から鎌倉へ舞台を移します。つまり、基国は源頼朝のもと御家人となったのです。

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基国は文治4(11883月、頼朝の鶴岡八幡宮大般若経供養供奉を皮切りに、建久8年(1197)の頼朝善光寺参詣供奉まで、頼朝の供奉を幾多も勤めています。また、建久234日に発生した鎌倉大火で、基国の屋敷が北条氏や比企氏といった幕府中枢の邸宅とともに類焼したように、村上氏は鎌倉御家人としてかなり上層クラスであったことがわかります。

              

基国が頼朝に供奉した善光寺

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基国以後、その子孫の鎌倉における活動は見えなくなりますが、鎌倉中期の建治元年(1275)には、基国の子孫である「村上判官代入道跡」が本拠地信濃国で御家人として、また、村上一族の筆頭であったことが確認でき、鎌倉幕府のもと、御家人として把握されていたことがわかります。

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くわえて、信濃から遠く離れた出雲国でも基国の系統と考えられる村上氏が富田新庄という荘園の地頭であったことも判明しており、さらに陸奥国津軽でも基国系の可能性が高い村上氏が存在していたことがわかっています。 >

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このように鎌倉期に入り、村上氏の嫡流となった基国系の村上氏は、鎌倉幕府の中枢から離れたとはいえ、本拠地信濃国村上を中心に出雲や津軽にまで一族を拡げていたことが理解できます。

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こうした経緯を背景に、鎌倉末から再び歴史の表舞台に登場する村上氏(=村上義光・義隆父子、義光の兄弟で本ブログの32回目で紹介した村上信貞)が活躍していくのです。

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坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第33回目は源顕清

 先日、「村上海賊の娘」に関して記述しましたが、信濃村上氏の祖でもあり村上水軍(海賊)の祖とも考えられる源顕清について、鉄の展示館宮下学芸員に記述してもらいましたので以下掲載いたします。ご覧ください。(多少、長文です。)

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信濃村上氏と村上水軍の祖?「源顕清」
 
「坂城の100人」の記念となる1回目に登場した人物は、信濃村上氏の祖と考えられている「源盛清」でした。
                  
盛清については、前述したように平安期の第一級史料である『中右記』によって、寛治8年(1094年)に起きた白河上皇呪詛事件により、信濃国(村上郷と推定)に配流され、盛清の子孫が村上郷を本拠として、以後の信濃村上氏の繁衍につながっていく大きなきっかけを作った人物として紹介しました。
                  
(源盛清について)
(関連して橋本治先生からいただいた手紙)
                         
しかしながら、この『中右記』の記述が発見される以前は、長らく信濃村上氏の始祖は、今回紹介する源顕清とされていました。
 その論拠となっていたのは、姓氏調査の基本図書で南北朝時代から室町初期に編纂されてと考えられる『尊卑分脈』の記述によります。これによると信濃国に配流されたのは顕清で、盛清は顕清の弟仲清の子とされています。そして、信濃村上氏として村上姓を初めて名のった村上為国(9回目に紹介)は、この顕清の実子と記述されています。
                          
 信濃村上氏の発祥に関しては、尊卑分脈以外に知る手だてが無かったため、おそらく何百年にもわたって、この地域では村上氏の祖は顕清と思われてきたのですが、戦後の歴史研究の成果の中で、中右記により信濃国に流罪となったのは、顕清ではなく盛清で、顕清は越前に流罪となり、且つ、盛清は顕清の弟で、兄弟の長兄である惟清(白河上皇呪詛事件の首謀者とされる)の養子であったことが判明したのです。
 しかしながら、尊卑分脈の記述がすべて間違いというのも早計であり、村上為国の実父が顕清であることからも、顕清が実際に村上郷へ移ってきた可能性を否定することは出来ません。というのも、盛清の紹介の中でお伝えしたように、盛清自体は、流罪の9年後康和5年(1103年)には京において「御監」の役を仰せつかり、その後も京都で活動していたことが判明しました。盛清自身は信濃村上氏の本拠地村上郷に居なかったのです。
                      
そのため、顕清が村上氏の本拠地に移り、信濃村上氏の礎を築いて、その子為国が跡を継いだという可能性を想定できる訳ですが、この為国もまた、村上氏の惣領でありながら、史料で確認できるのはすべて京都での動きばかりで、養父盛清と同様に京都で朝廷に仕える身であったことが分かっています。故に、為国の前の惣領を盛清とするのか、それとも顕清とするのか、その点について現状で判断することは非常に難しいと云わねばなりません。
 
 さて、この顕清については、さらにもう一つ大きな顔を持っています。それは信濃村上氏のみならず、瀬戸内海で有名を馳せた「村上水軍」の祖と伝えられる「村上定国」の実父として尊卑分脈に記されているからです。
 つまり、中世、日本の東西で歴史の表舞台で活躍することとなる両村上氏の血筋的始祖が源顕清ということになるわけです。
 つい先日、2014年の「本屋大賞」に輝いた 『村上海賊の娘』 和田竜(新潮社)について、このブログでも紹介されたように、村上水軍と信濃村上氏の関係は、その可能性を大いに秘めています。
 歴史的にそれらを実証することは非常に難しいのですが、このことについては、4月18日(金)から坂木宿ふるさと歴史館にて、信濃村上氏と村上水軍のコーナーを設けて、パネル展示にて紹介いたします。是非、この機会にご来館いただき、両村上家の関係について想いを馳せてみてください。
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(坂木宿 ふるさと歴史館 の紹介)

ふるさと歴史館

  戦国時代に甲斐の武田信玄を2度も打ち破った郷土の名将・村上義清と、江戸時代、北国街道の宿場町として栄えた「坂木宿」の歴史・文化をひもとく様々な史料を展示する歴史館です。また、建物自体が、昭和4年に建築された木造建築を、当時の面影を損ないままに修復した趣ある建物でもあります。

開館時間

午前9時~午後5時

(入館は午後4時30分まで)

休館日

月曜(月曜が休日の場合は翌日)・年末年始

展示室の観覧料

個人:100円

20人以上の団体:50円

(小学生及び町内中学生は無料)

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 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第32回は村上信貞

 坂城の100人 第32回は村上信貞(のぶさだ)です。

 村上信貞は以前記述した村上義光(よしてる)の弟ですが、信貞についてはもっと再認識され、研究されなくてはならないと思います。

 (村上義光については以下のサイトから)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=33151

                                

 村上義光は上記のサイトに書かれるように 「元弘の変に護良(もりよし)親王に従い、南都から紀伊国十津川に逃れてこの地の土豪を頼ったが、北条氏の命をうけた熊野別当定遍の探査を避けて十津川を出て、後に吉野山に入って幕府軍の攻撃を防いだ。  元弘3年(1333)年閏2月1日吉野城は落ちたが、この時義光は子の義隆とともに親王の脱出をはかるため、親王の身代わりとなって敵の目前で壮烈な自害を遂げた。」 ということで、戦前は忠君の士として日本国中で有名になった人物であります。 

                
 しかしながら、坂城町にとってはその弟の村上信貞も大変重要な人物であります。
                          
 村上信貞は南北朝時代足利尊氏側(北朝)につき、新田義貞征伐の中心となり、越後へ出兵したりしますが、北条氏の勢力を排除するため、当時、坂城側を治めていた薩摩工藤一族(北条氏側)を滅ぼし更科郡から埴科郡へ勢力を伸ばすことになりました。
                    
 (村上から坂城へ本拠を移したのは元中2(1385)年ころと言われています。)
                   
                        
                  
葛尾城址
                   
葛尾城跡
                                    
葛尾城址からみた風景、上田市・千曲市方面を一望にする絶景(ながの観光コンベンションビューローならびに坂城町資料より)
                     
               
 また、村上信貞は足利尊氏から種々の軍功により 「信濃惣大将」 (どうも正式な称号ではないようですが)と いう称号を与えられ、塩田庄(上田市)を所領化し福沢氏(後の福沢諭吉のルーツ)を代官として派遣しています。
                     
                   
塩田城跡建物跡全景
                           
 元弘三年(1333)、塩田の地を治めていた塩田北条氏が滅亡した後、ここは坂木(城)を本拠とした勢力者村上信貞の領地となったことが記録にみえます。村上氏は、室町中期以後重臣福沢氏をこの塩田城におき、前線基地として長い間統治した。 (上田市資料より)
                                       
            
 以下、簡単な記述ではありますが、坂城町資料より紹介します。
              
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 村上信貞 
               
               
 後期・南北朝時代の人
               
 初め蔵人、備中守、河内守を称す。
                 
 更級郡村上郷を本拠とし、建武2年(1335)9月、信濃惣大将となり薩摩刑部左衛門を坂城北条に攻める。
 翌年1月、埴科郡英多荘清滝城を攻め、さらに更級郡牧城の香坂入道を攻め、2月に北条高時の一族四朗時興と筑摩郡麻績御厨で戦う。6月には再度牧城を攻めて破り、11月は越後に攻め入って同国守護、目代らの軍を攻めて破る。翌年には足利尊氏党として、正月には新田義貞の軍を越前金崎城に攻めて攻撃を繰り返してここを陥れた。
                    
 初め後醍醐天皇方(南朝)に属したが、尊氏が天皇に背くに及んで、以後尊氏党(北朝)として信濃惣大将と称し、軍功を立てた。
 この信貞の時代に、後に村上氏が本拠を置く坂城郷や塩田庄を所領化している。
                       
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 以上のように、当時の村上信貞の活躍は縦横無尽であり、現在の坂城町の原型を作った人物であります。
                         
 坂城町長 山村ひろし