坂城の100人 第39回目は扇池亭澄(ますみ)(心光寺縁阿弥上人)。
坂城町込山の心光寺住職、縁阿弥上人です。(1778~1833)
前回に続き、当時の坂木を代表する狂歌師です。
当時、江戸の著名な文化人であった狂歌師の蜀山人(太田南畝)が序文を書いた「信上諸家人名録」の中央左側に、「狂歌、澄、号 扇池亭、坂木、心光寺」として紹介されています。
心光寺南側にある縁阿弥上人の筆塚。 亀型の基石の上に建てられています。
縁阿弥上人筆塚側面(内容は以下をご覧ください。)
建立されてから180年、判読が難しい状況になっています。
以下、今回も、「ふるさと探訪」から、塚田睦樹先生の解説を引用して掲載します。
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澄は込山の心光寺住職として朝夕仏の道を勤め、食事をすることさえ忘れるほど精進したといわれています。
余暇には、上人の学徳を慕って教えを受けにきた弟子は百人を越えたとのことです。
文政元年(1818)頃、住職を退いた後は、心光寺境内の観月舎(月見堂)で、池に住む蛙を友とするなどして、狂歌を盛んにつくったといいます。
天保四年(1833)に建立された縁阿弥の筆塚の側面には、四方瀧水の書(蜀山人の門下生)に以下のように書かれている。
「扇池亭澄 心光寺縁阿弥上人
信州坂木の人。 寤寐(ごび)ただ狂歌を以てつとめとす。平生居る所の室、反古積もりて堆し。(ほごつもりて うづたかし) 是ミナ其詠ずる所の歌屑なりとぞ。」
(信州坂木の人。寝ても覚めてもただ狂歌を作るのを日々の勤めとしている。普段居住している部屋は、書き損じた紙片が積もってうずたかい。これは皆彼が詠んだ狂歌の屑である。)
以下、扇池亭澄の狂歌 2句を掲載します。
「虫」
あき風をひくまの小野の月しろに髭のはえたる虫の鳴くらむ
(吹き荒れる秋風がおさまる間の、小野の郷の月の出に空の白む頃には、髭の生えている虫が鳴いているだろうか。小野は京都の比叡山の里か、山科の里。
「海辺春立」(うみべはるたつ)
人よりも春たつけさの霞まで一といふ字をひく筆の海
(筆の海は、筆で描いた海か。立春の朝、その海に一という字を引いて霞とした。海辺には人は立っていない。ただ一面に霞が立ち込めている風景。)
以上、江戸後期の坂木を代表する狂歌師3名をご紹介しました。
いわゆる「狂歌」の持つ諧謔、軽薄なイメージではなくいずれも大変哲学的な深いものを感じますね。
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坂城町長 山村ひろし