「南條夢物語」の続き

 先日、「南條夢物語」ついて記述しました。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=34973

 

 その後、坂城町文化財センター青木所長が青木元麿さんの奥様千尋様を訪問し南條夢物語についてお話を伺ったところ、青木曾左衛門さんの書かれた原本が残されていました。(残念ながら全部ではないようですが)

 早速、この原本を坂城町文化財センターで保管させていただくことになりお預かりしてきました。

 大切に保管するとともに、内容の分析を進めたいと思います。

                        

 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第31回目 青木曾左衛門

 坂城の100人、今回は青木曾左衛門さんです。

 青木曾左衛門さんは天保14年(1844年)に南条金井村に生まれ、昭和11年(1936年)に没された郷土史研究家であり、南方熊楠のごとき「博覧強記」の人物です。

 南条の風土、歴史、故事来歴についてあらゆる観点から記し、大著を残されました。

 それが「南條夢物語」(上下巻 600ページ弱)として残っています。

 この書は大正元年に書き上げたとされていますが、幸いなことに、平成6年に青木曾左衛門さんの孫の青木元麿さんがワープロに打ち直し、栗林庄三、桑原近雄、宮下一夫の三氏が新たに「南条夢ものがたり」として刊行されました。

青木曾左衛門さん(大正2年)

                 

 とにかく、大著です。

 南条に限らず、坂城地区の風土、歴史、伝聞についてものすごい「博学力」をもって記述されています。

 記述内容の正確性については議論のあることかと思いますが、その網羅性に敬意を表したいと思います。

 この著をまとめるにあたり序文に次のことを書いています。(口語文に訳します)

 「ある時、地方の青年が訪れて、どうしてもこの土地の歴史をはじめ伝説について教えて欲しいと来た。はじめは断ったがどうしてもという事なので纏めることにした。 灯台下暗しというように地元の人が気付かない事が多い。

 昔の歌に『我が土地は まつ毛の上のつるしもの あまり近くて見つけ ざりけり』とあるように遠方の名所旧跡には興味を持っても身の回りのことにはあまり関心を持たない」 ということがこの大著をまとめるきっかけとなったようです。

 青木元麿さんが「あとがき」にいきさつを書かれています。(平成6年)一部を紹介します。

 「青木曾左衛門は私の祖父に当たり、天保14年金井村に生まれ、昭和11年に没しました。一昨年、ふとした機会に祖父の書き残した墨書の「南条夢ものがたり」の原稿、罫紙1300枚を発見しました。私共がうすうす聞き覚えている2、3の物語以上の事柄が173話に亘り書かれていました。・・・私は少年期の頃、祖父の部屋に寝泊まりして居りました。祖父は昼は、梅の木の鉄砲虫の駆除や剪定に精を出し、夜は正座して周りに古書を積み上げ書き物をし、書いたものを仮綴じしたり、差し替えたりしていた姿が今も目に浮かんできます。・・・」

 この書の目次の始めの部分と終わりの部分の一部をご紹介します。

 上巻目録 第一「成福寺の由来」、第二「上人は茲をいとまを告げる」、第三「上人像を刻む」・・・

 下巻目録最後の部分 第百五十九「小腐池田明神並びに社宮神」、第百六十「萩の牧場を開発した漢土 秦時代の徐福について」、第百六十一「金井観音堂」

          

 いろいろ興味ある箇所がたくさんあるのですが、ここでは、上巻 第百十二「堀部安兵衛碑標」について紹介します。

 「江戸、赤坂では松代候と浅野候の屋敷が隣接していた。それ故に松代候と浅野候とは深い関係に結ばれていた。 そして大石良雄の実姉が松代の家臣岩崎氏へ嫁いだにより、其の因を尋ねて堀部安兵衛の未亡人が松代に来て妙海尼となって遂に松代にて生涯を果たした。 この事は大林寺の墓地にある。 今も墓標が判然としている。 この堀部安兵衛の未亡人が松代に来る際、三才の男の子を連れてきたのである。 其の時の話である。 金井村の住職は松代出の者であるが、この住職が私用によって松代へ行ったときに堀部安兵衛の未亡人が三才の子を抱いて生活にも困窮しているのを見て愍なるにより成福寺の住職が連れ来たり養育して成長の後は金井村の住職に成ったとのことである。 而して成福寺の本堂の南の方に些少なる堀部安兵衛の碑と云うのが建っていた。・・・・」

 ということが書かれています。

堀部安兵衛の息子が南条成福寺の住職になっていたなどびっくりしますね。

なお上記の堀部安兵衛の碑は後に寺の火災などの際に破壊されてしまったということです。

 この「南条夢ものがたり」のコピーは坂城町BIプラザ内の「坂城町文化財センター」に保管されています。

 ご関心をお持ちの方は以下にお問い合わせください。

坂城町文化財センター TEL  0268-82-1109

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第30回は村上国清

 昨年1月から始めました、「坂城の100人」 今回で30人目です。

 節目の30人目ということで、再び村上家に戻ります。

 村上義清は100人目に記述するつもりですので、今回は息子の国清について記述します。

 村上国清の最期については不明な点が多く、したがって墓の所在についても確かなものはありませんが、満泉寺12代の住職朝宗によって宝暦12年(1762)に建てられたものが坂城神社の裏、葛尾城への登り口の手前を左に入った急斜面を登ったところにひっそりと設置されています。

斜面入口の標識。

                

 しばらく行くとさらに以下の標識。

 これが2つあります。

 上記の標識の場所からもうひと踏ん張りでようやく国清の墓所にたどり着きます。

 結構、息が切れます!

                 

                           

村上国清の墓

「村上院殿決山源正大居士」

               

 ひっそりと建てられた感がします。

 村上国清について不明な点も多いのですが、ここでは、坂城町教育委員会編纂の「ふるさと探訪」の記述によります。

 是非、お墓へもお出で下さい。                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (以下、「ふるさと探訪」より)

 「村上義清の子、国清の墓は坂城神社の裏山にある。国清は3歳のとき越後の上杉謙信に預けられ上杉氏の家臣となっていた。

 天正10年(1582)武田氏が滅亡すると謙信のあとを継いだ上杉景勝は、国清を海津城主(後の松代城)に任じた。

 この時、国清は御所沢にあった村上氏の菩提寺修善寺を村上氏の館跡へ移して再建した。これが満泉寺である。

 天正12年(1584)景勝の副将を務めていた屋代秀正が徳川家康に招かれて徳川氏へついたため、国清も去就を疑われ、越後へ呼び戻され、家臣は四散し村上氏は力を失った。

 山中にひっそりと建つ国清の墓は、満泉寺12代の住職朝宗によって宝暦12年(1762)に建てられたものである。国清没後170年が過ぎていた。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                      

 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第29回目は西澤正太郎さん

年が明け、平成甲午二十六年となりました。 本年もよろしくお願いいたします。

今年も坂城の「100人」を続けます。

昨年の1月1日から始めましたので今まで、大体、毎月二人をご紹介してまいりました。

今年の一人目として、西澤正太郎さんを取り上げます。 今回で29人目となりました。

西澤正太郎さんについては、以前、孫にあたられる西澤眞澄さん他から書、絵画などを寄託された際にご紹介したのですが、その当時は「坂城の100人」の記載を始めていませんでした。

ここに改めて 「坂城の100人」 の一人としてご紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

坂城町、鼠宿出身の西澤正太郎さんという方がおられます。 文久3年(1863年)に生まれ明治43年(1910年)に亡くなられました。

 明治23年3月に東京大学政治科卒業、法学士となり、直ちに同年4月から内務省へ入省。 宮崎県・新潟県参事官を歴任し、香川・滋賀・兵庫・大阪・京都の書記官を経て、明治37年に官選知事として青森県知事を明治41年まで勤め、明治41年からは福島県知事となるも在任中の明治43年に急逝されました。
性格は豪放磊落、風貌颯爽、漢詩・和歌の趣味深く、床次竹次郎(内務官僚、政治家)、白仁武(元栃木県知事)、池上秀畝(日本画家)、大森鐘一(内務官僚、京都府知事)、村上寿夫と親交。 青森県知事在任中、東北地方の飢饉に際し、米や麦を購入して、窮民に施し、福島県知事在任中は、不毛の土地を開拓、整理したことから群民により頌徳碑が建てられました。墓地は耕雲寺にあります。
 おそらく、坂城町の歴史上、初めての東京大学出身者であり、知事としても初めてであろうと考えられています。 ちなみに正太郎氏の16歳下には、同じ鼠宿の出身で、東京帝国大学法律学科を卒業し、内務官僚となって静岡県知事になり、警視総監を経て貴族院勅選議員になった赤池濃(あつし)氏がおられます。 町内で都道府県知事になったのはこの両名だけだと思われ、いずれも鼠宿の出身者です。
 
 生前は伊藤博文とも親交が深く、上記の書は伊藤博文が西澤正太郎氏に贈ったもので、孫の真澄氏によると、明治42年(1909)10月、博文が中国ハルビンで暗殺される直前に贈ったものだといわれています。
 書は 「形在江海之上、心在魏闕之下」 〈形は江海の上(ほとり)に在(あ)り、心は魏闕(ぎけつ)の下(もと)にある〉 これは5世紀末中国・南朝「梁」の「劉勰(りゅうきょう)」が著した文学理論書『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』の第六巻【神思】第二十六の一文です。
意としては 「身は紅海のほとりに隠遁しながら、心では魏の宮門のことが忘れられない」ということのようです。 (伊藤博文の心境を語っているものと思われます)
平成23年10月14日に、西澤正太郎氏の孫にあたられる、西澤眞澄さん、康代ご夫妻、正太郎氏の実家におられた、西澤澄人氏。正太郎氏の生家ご当主の西澤哲雄さんの妹のご主人である石井健一氏が坂城町役場に来られ、伊藤博文の書と西澤正太郎の書簡、西澤正太郎の肖像画、正太郎が福島県知事時代に福島に大正天皇(当時は皇太子)をお迎えした時のことを讃えて建立した石碑の拓本をお預かりいたしました。 (これらはいずれも鉄の展示館で保存し、適宜展示させていただいております。)
左から、西澤真澄さん、山村、西澤康代さん、西澤澄人さん、石井健一さん
この肖像画は正太郎死後8年後に制作されたもの
坂城町に、明治期に活躍されたこのような傑物がおられたことに驚くとともに大変名誉なことだと思います。
坂城町長  山村ひろし

坂城の100人 第28回目は中島仲重校長先生

坂城の100人、今までは歴史上の人物を中心に取り上げてきましたが、さる、12月22日の日本経済新聞全国版、「熱風の日本史」の中の「御真影 守護に重圧」というテーマで中島仲重校長が取り上げられたということもあり、今回は「坂城の100人」28人目として、南条小学校の校長で大正10年1月6日に同校の火災の際に天皇陛下の御真影を取り出そうとし殉死した中島仲重氏を取り上げます。

平成25年12月22日付日経の記事

中島仲重校長の顕彰碑は南条小学校にあります。

中島仲重校長は明治17年(1884年)中之条村に生まれました。

明治39年に長野県師範学校を卒業、戸倉小学校に勤務、大正2年(1913年)、29歳で南条小学校の校長となりました。

若くして校長になり、全身全霊で教育に打ち込み、大変人望のあった方だったそうです。

今でも、南条小学校のホームページには中島校長が当時力をいれて行った教育活動を以下のように伝えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           

(南条小学校ホームページより。 中島校長の努力されたこと)

1.社会をよくし、本当に人生を切り開くことのできる実力ある人間をつくる

2.高等科の設置を復活させ、自ら生徒募集に村内を廻り、特に女子生徒の入学をすすめ、教育の実を挙げる。

3.研究の裏づけがあって教育は発展するとし、自身はもちろん職員の研究に大いに熱意を傾ける。

4.同僚職員に対する親身の指導信頼、そして全責任をもって守る。

5.自ら積極的に村民の中に入り込んで教育する。あるときは、婦人会長まで行う。

6.高い見識をもって努力する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

                                 

 そんな中での火災。

大正10年1月6日、午後6時半頃、南条尋常高等小学校で火災が発生。

東校舎2階南側から発した火は、2時間にわたって燃え続け、東校舎、南北両袖校舎および小使室など校舎の大半を焼きつくし、教室1棟、雨天体操場1棟、便所1棟を残して、午後8時半ころようやく鎮火した。

火災の状況は以下の通りです。(「坂城町誌」より)

「当日、中島校長が火災警報を聞いて山金井の居宅から学校に駆けつけた時、御真影奉安室にあてられていた東校舎2階の宿直室は、すでに猛煙に包まれていた。南条小学校へは大正4年に大正天皇、翌5年に皇后の御真影が下賜され、厳格な奉護既定のもとにおかれていたが、中島校長はその御真影を守ろうと、階段をのぼり奉安室に達したまま脱出できず焼死したのである。」(享年38歳)

中島校長の焼死は殉職として全国的に社会的な大反響を呼び、全国から弔慰金が集められその金額は総額21,137円に達したという。(「岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』)

岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』

その当時の時代背景により、中島校長の殉死は「御真影」の扱いについて大きな影響を与えることになり、「御真影の安全管理は命を賭してでも守る絶対的な義務」となっていきます。

ただし、中島校長の焼死が伝えられる中で、「人と物とは何時の場合も換(か)ゆ可きものではない。畏れ多いことではあるが御真影は物であって中島校長は人である」というような意見もあったそうです。(当時はまだ大正デモクラシーの時代でもあった)

来年度から南条小学校の改築工事が始まりますが、中島校長の顕彰碑のある箇所は「中島公園」として大切に保存されます。

中島校長の殉死の後、各学校には堅牢な奉安殿が作られるようになったのですが、中島校長が生前、村の委員会に切望していたものがまさにそれで、以下の提案文章が残されています。

(中島校長の提言)           

設備ヲ要スベキ建物及其内容

一、御真影奉安殿・・・・何モノヨリ先ニ完全の設備ヲ

(「南条小学校百年誌」より)

坂城町長 山村ひろし

「玄古たばこ」追加資料 その2

「玄古たばこ」の続きです。

「玄古たばこ」 について、その後、いろいろな方からご連絡をいただきましたが、最大のものは、坂城町宮下副町長の情報です。

戸倉にある蕎麦料理の専門店で坂井銘醸が経営されている「萱」という店の展示室に 「玄古たばこ」 があったような気がするという話でした。

早速、お邪魔すると酒に関する展示室の片隅に 「玄古たばこ」 の現物と説明資料が展示されていました。

展示ケースを指さす宮下副町長

「葉たばこ」についての説明(以下、全文を掲載します)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

葉たばこ

明治八年南条村横尾小滝 吾より

買入れた 南条金井は有名な玄古

煙草の名産地 この品は日本最古

の葉たばこです

タバコは明治三七年専売制となる

明治八年(一八七五)戸倉村戸長 酒井賎雄

また小滝 吾も南条村戸長勤務

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和57年のニュース

坂井銘醸さん(代表取締役専務:村尾ふみさん)が戸倉で酒造りを止めるため土蔵の整理をしていたところ、中から100年前の玄古たばこが出てきたとのことで、それを展示することになったというニュースです。

130年前の「玄古たばこ」  しっかりと原型をとどめています。

このように、「玄古たばこ」の現物が展示されているのは他にないのでは。

坂城町のかつての特産品で南条では江戸期を通して主要産業であり、最近ではほとんど忘れ去られていた 「玄古たばこ」 の存在が急に身近なものになってきました。

大いに、往海玄古の再評価をしたいと思います。

今回、いろいろと情報を提供してくださった方に感謝いたします。

坂城町長 山村ひろし

「玄古たばこ」の追加資料

先日、往海玄古と「玄古たばこ」について書きました。

坂城の100人 第27回目は「往海玄古」

その後、関連する貴重な資料が坂城町文化財センターに保存されていることがわかりました。

昭和5年に編纂された「南條郷土研究」の61ページから74ページにわたり、詳細に「玄古たばこ」について記載されていました。

概ね先日ご紹介した内容と違いはありませんが、以下のように図入りで説明しています。

江戸末まで横尾村の村民の約半数が「玄古たばこ」の生産に関与していたそうです。

上図にもある、「玄古たばこ」 用の 「たばこ包丁」(約20cm)

最近まで南条小学校で保管されていました。

今後とも、坂城町内に残されている貴重な文化財の修復、保存、閲覧などできるよう整備をしてまいります。

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第27回目は「往海玄古」

往海玄古は埴科郡横尾村に 「玄古たばこ」 の種を持ち込み、近在の村々の名産物にしたお坊さんです。

ただし、この玄古和尚がなぜ横尾村に来たのかは諸説あって不明な面が多いようです。

江戸期を通して(幕末まで)、坂城で特産の煙草を普及させた、玄古和尚の功績についてもっと評価すべきだと思っています。

先日、「たばこと塩の博物館」に問い合わせをしたところ、いくつかの資料をご紹介いただきました。

まず、玄古和尚についてですが、明治30年ころの資料によると武蔵国児玉郡今井町(現埼玉県本庄市)の出身で、元和年間(1615年~1624年)、諸国を遍歴した後に埴科郡に到来し、南条に庵をくみ薩摩から持ち寄った煙草の種を移植したとされています。

以下、明治30年頃に集められた史料をもとに、全国で『煙草調査書』が作成された小出雲の『煙草調査書』の一部を掲載します。(「たばこと塩の博物館」 学芸員 湯浅淑子さんから提供いただきました。)

「沿革
日記ノ伝フル処ニヨルニ、元和年間秀忠公ノ将軍タルトキ、作洲津ノ山ノ城主森右近ノ所領タリシトキ、釈門玄古ナルモノ{武蔵国児玉郡今井町(方今共和村)高橋左京之助ノ男}幼少ノ頃ヨリ諸国ヲ遍歴シ、其帰路薩州国分ヨリ種子ヲ得、コレヲ埴科郡ニ携帯シ、南條村ニ庵ヲ立テ、コゝニ初メテ栽植セリ、{或説ニハ薩摩ノ僧ナリト云ヒ南條村ノ住職ナリトモ云フ}而シテ其当時ハ位置ハ今尚存スルカ、寺庵附近一町歩余ノ小丘ナリト{其一ニ設建セラレタル碑文アリ寛文三年四月二十八日遷化}之レ玄古煙草栽培ノ起原ニシテ、玄古葉ノ播種セラレテヨリ近郷漸次耕作スルニ至リ、七十四余年前頃迄ハ全盛ヲ極メケルモノノ如ニシテ、小県郡上田町ハコレカ集散ノ中心トナリ、其需用ノ区域ハ佐久平ヲ主トシ、関東諸国ニ至タリ」

これによると、江戸の末期でも上田を集積所として佐久平、関東に広く盛んに出荷していたことが分かります。

また、玄古については、「或説ニハ薩摩ノ僧ナリト云ヒ南條村ノ住職ナリトモ云フ」とあるように、薩摩の僧、あるいは南條村の住職であると言い、南條の寺庵近くの丘に1町歩ほど栽培をしていたとのことです。

                                  

また、これも湯浅さんからご紹介いただいたのですが、江戸のたばこ屋三河屋弥平次が文政頃(1818年~1830年)に記した記録 「煙草諸国名産」 (『狂歌煙草百首』という本の一部)には、『玄古煙草は(玄固煙草と記されている)、埴科郡横尾村の庵室に玄古坊という僧がおり、諸国を遍歴するうち、丹波から煙草の種を持ち帰った』と記されています。

西尾市岩瀬文庫ディジタル資料に 「煙草諸国名産」 が収録されていました。 (岩瀬文庫は愛知県西尾市の古書専門の博物館)

「煙草諸国名産」 (西尾市岩瀬文庫ディジタル資料より)

上段に玄古坊が横尾村に煙草を持ち込んだと書かれていますが、「丹波」から持ち帰ったと記されています。

私は喫煙者ではありませんので煙草の味は分かりませんが、「ふるさと探訪」(坂城町教育委員会)によると、『「玄古たばこ」は、味は辛いが香気があり、坂木五千石の代官長谷川安左衛門から領主高田松平氏へ献納された記録が残されている』 そうです。

玄古碑 (往海玄古 主庵)(町横尾)

玄古碑(裏面)(町横尾)

「たばこ元祖、埴科郡横尾村」

往海玄古の墓(寛文3年―1663年)(町横尾)

                  

中央の表記には 『右の自然石は他所にあったものを後に移したもので読み取ることは難しくなっているが、「この所に於いて往海玄古法師は玄古たばこ元祖者也」と思われる』 と記述されています。

* かつての特産物 「玄古たばこ」 について、あるいは往海玄古について資料をお持ちの方がおられましたらご教授下さい。

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第26回目は川島小助

川島小助(明治13年 1881年~昭和28年 1953年)の名はあまり知られていません。

川島小助は上五明に生まれ、建設事業に携わった人物です。

大正3年から建設が始まった県道力石上田線は、大変難航しながらも、昭和8年にいたって開通をします。 特に坂城から上田側に入った半過の急峻な崖を切り開きこの県道の開発に大いに功績のあったのが川島小助です。

この県道(昭和8年完成)が開通するまでは、崖を上ってトンネルを抜けて上半過へ出なければなりませんでした。 今ではとても想像できません。

川島小助が開いた半過の急崖と旧道のトンネル(「ふるさと探訪」より。 現在はこの道路は通行止めとなっています)

 

上半過のトンネル(現在は利用できません)

このトンネルは、明治42年(1909)、地元民によって完成したそうです。 それまでは、河川敷の道と、古くからの古道である山越えの道だけでしたが、このトンネルによって人々の交流も盛んとなり、農作業においても利用されました。

しかし、不思議なことにこのトンネルを掘り上げるための中心人物あるいは組織がどうなっていたのか資料は現存していません。(明治末期の話なのに不思議ですね)

ここからの千曲川や坂城方面の眺望は大変素晴らしく、大正10年には日本百景に認定されたそうです。

半過坂城寄りに設置されている「県道開通記念碑(昭和8年4月)」

県道開通記念碑にはこの半過の工事が如何に難工事であったかが記述されていますが、残念ながら工事を請け負った川島小助の名はありません。(国道上田坂城バイパス開通記念誌『半過、明日への道、岩鼻の黎明』 2011年3月26日発刊))

現在、国道18号線のバイパス工事の事業化が始まっていますが、上田側へ通ずるための先人の大変な苦労を偲ぶことも大切なことだと思います。

なお、川島小助はこの事業の成功もあって、村上小学校へ奉安殿を上五明の村上神社には大鳥居を寄贈しています。(奉安殿は現存していません)

村上神社の大鳥居(川島小助の名はありませんが、昭和8年4月建立と記されています)

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第25回目は塚田善作です

坂城の100人 第25回目は塚田善作さんです。

あまり、この名前に馴染みが無いかも知れませんが、坂城町の県宝 「格致学校」 の建設を進めた人物です。

私が坂城町で大変大きな感銘を受けたものの一つが「格致学校」 の存在です。

格致学校の校舎は明治11年(1878年)に建設されましたが、松本の開智学校、佐久の中込学校に続いて長野では3番目に古い学校です。

格致学校

長野県宝 格致学校

                                                        

格致は四書五経の「大学」の言葉、「格物致知」 からとった名前ですが、「物事の本質を極め知識を極める」 ということです。

この「格致」を掲げ、現在に至るまで学校を大切にしてきた坂城の先人に大いなる敬意をはらいたいと思います。

塚田善作は天保14年(1843年)、中之条に生まれました。

明治9年(1877年)、33歳のときに格致学校の執事(責任者)に任ぜられ、校舎の新築に努力しました。

御堂山の官有林の払い下げを受けて、これを工費にあてて格致学校が建設されました。

この当時、鼠宿と新地村には「精成学校」、金井村には「金井学校」、坂木村には「坂木学校」、また、上平村、網掛村、上五明、力石村、新山村、上山田村の地区で「六郷学校」が作られましたが、各々、寺院を利用したもの、民家を借用したものなどが一般的でした。

新たに校舎を新築する場合に必要な巨額の建設費用は地元の人々の募金を募って建設されました。

当時の人々の教育にかける熱意には頭が下がります。

格致学校は、当初は西念寺を仮校舎として発足し(明治6年 1873年)、教室が手狭になったため、隣接地の一行寺本堂を改修し移転しました。(明治7年 1874年)

明治10年(1877年)には県に増築願いを提出し工事に入りましたが老朽化がひどい状態であったことから、新築に変更されました。

明治11年(1878年)には現存の校舎とほぼ同じ建物が完成します。

明治12年の生徒数は140人、教員数は6人で当時の就学率は63%とのことです。

明治19年(1886年)には小学校令が出され、中之条村と南条村を合わせて埴科郡第一番小学校となり、南条小学校と呼ばれるようになりました。

この段階で「格致学校」という名称は使われなくなりました。

その後も学制変更などのため校名がしばしば変更されましたが、127年後となった現在でも、「格致学校」の名前と校舎が保存されており、誠に素晴らしいことであります。

教育に対する坂城町の人々の思いに改めて敬意を表します。

格致学校の扁額 創立当初のもの

学校増築の願書 但し、増築ではなく新築となる

学校内教室の風景

「塚田善作翁之碑」

格致学校では折々に種々のプログラムを実施しております。 ぜひ、お立ち寄りください。

坂城町長 山村ひろし