坂城の100人 第24回目は中島銀右衛門

坂城の100人 第24回目は中島銀右衛門さんです。

中之条の国道沿いに 「中島銀右衛門」 さんを讃えた筆塚があります。

先日もご紹介しましたが、国道沿いにあるため筆塚の痛みが激しく。

6月から約2か月かけた修復作業が漸く終了いたしました。

左から修復作業にあたる、文化財センター青木所長、時信学芸員、宮下学芸員

江戸時代、中之条地区には多くの文人が出ていますが、中でも有名なのが中島銀右衛門です。

(文化3年 1806年~明治16年 1883年)

銀右衛門は、中之条陣屋によって教学人(教師)に命じられ、代官以下の役人の子や村人の子に漢籍や詩歌を教えました。

門人の中で著名な者は、明治維新後子爵となった陸軍軍医の石黒忠悳(ただのり)がいます。

忠悳は当時、陣屋手代の秋山省三(母親の弟)の家に母と共に陣屋で暮らしていました。

忠悳の長男が忠篤(ただあつ)で、戦前・戦後を通じてわが国の農業政策を展開し、農業の神様とよばれた人物です。

銀右衛門は門弟から慕われ、心温まる人であるばかりでなく、孤高の人、毅然として生きた人であったといわれています。(坂城町「ふるさと探訪」より)

また、仁厚の人で、世の中が軽薄になり師弟の関係もだんだんと薄くなりつつあった時代に、門弟から慈母のように慕われたといいます。 (「坂城のいしぶみ」より)

碑の最期に詩が書かれています。一部のみ訳をご紹介します。

「孤高の人、毅然として生きた人、こういう人こそ世の中へ顕彰すべきである。今ここに其の恩に酬ゆるために、馬のたて髪のような形をした筆塚をたてそれがそばだっている。いつまでも崩れず立っていてほしい。今我は碑文を作った。そしてこの碑を讃えて高野山のようだといいたい。」 (「坂城のいしぶみ」より)

「いつまでも崩れず立っていてほしい。」 とあるように今回、補修をいたしました。

坂城には大きな功績を残された方々がまだまだたくさんおられます。

これからもご紹介を続けていきます。

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第23回目は佐藤嘉長

坂城の100人 23回目、今回は再び江戸時代に戻り、「常山隄」を構築した、佐藤嘉長です。

嘉長は当時有名な河川管理の技術者だったようで、坂城町以外でも河川改修に関して佐藤嘉長の名を見ることができます。 (静岡県富士川近くの水神社にある「不儘河修堤碑」など。)

まず、「常山隄」の概略を説明します。(坂城町教育委員会、常山隄碑説明資料から)

(説明文)

「天保12年(1841年)の大洪水でこの地籍の耕地は壊滅に瀕した。

幕府は、代官所(代官:石井勝之進)を通じた農民の復旧の請願を受け、直ちに佐藤嘉長を派遣した。 嘉長は5年の歳月を費やして弘化2年(1845年)に彼の命名になる常山隄を完成した。

その工法は、川筋に対してほぼ直角に突出し長さ300メートル、基礎を大石で築き、堤端は畳石という巨岩を置いた堅牢無比の構築であった。 そのため千曲川の流路は西方へ移り、広大な耕地を守ることができた。

堤上には祠を立て、毎年祭りの行事として村人それそれが大石を水中に投じ堤端を補強することとした。

孫子の兵法書によれば、常山にすむ蛇は頭を打たれれば尾が、尾を打たれれば頭が、それぞれを救うという故事から、この堤も洪水がどこをついても崩れない、と嘉長は説いた。

村人は嘉長の功績と常山隄の由来とを永く後世に伝えるためこの碑を建立した。」 

次に、佐藤嘉長が名づけた「常山隄」について述べます。

「常山」は孫子の有名な戦略論の「九地」の中に出てきます。

孫子は戦には戦場に応じた戦い方があるとして、「九地」、九つの地形に分けた戦い方を挙げています。

それは、「散地」、「軽地」、「争地」、「交地」、「衢地」(くち)、「重地」、「圮地」(ひち)、「囲地」、「死地」があるといっています。 各々についてここでは詳しく説明はしませんが、兵士が機敏に対応することに大切さを説明するために 「常山」の蛇について説明しています。

「常山の蛇」

故善用兵者、譬如率然。率然者常山之蛇也。撃其首則尾至、撃其尾則首至、撃其中則首尾倶至。

故に善く兵を用うる者は、譬えば率然の如し。 率然とは常山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾倶に至る。 

そこで、兵士たちをうまく統率する者というのは、たとえば卒然のようなものである。卒然とは、常山にいるという伝説上の蛇のことだ。

その蛇の首を攻撃すると尾が迫ってくる。尾を攻撃すれば頭がくる。胴体をせめれば頭と尾が同時にかかってくる。

ということなのですが、さらに孫子は、この常山の率然という蛇のように兵士を統率できるのかという例として挙げているのが 「呉越同舟」 という言葉です。

つまり、「呉」と「越」のように敵対している国の兵士が同じ船に乗り合わせ、暴風に出会い、船が危ないとなればこの呉越の兵士が否が応でも左右の手のように助け合うことになる。 このように一致団結できるような用兵策が重要であるといっています。

常山隄の現在(平成25年8月)

昭和7年の常山隄

                       

常山隄碑                 

常山隄の図(中央縦の四角い部分が常山隄中心部)

右のほうが千曲川上流で、洪水時に常山隄に直角にぶつかり図の下方へ流れ町を保護する。

以上、常山隄を作り長く村民に慕われた河川工事技術者 佐藤嘉長の話でした。

坂城町長 山村ひろし              

坂城の100人 第22回目は 村上義光(よしてる)

坂城の100人 第22回目は村上義光(よしてる)公です。

たまたま、先日(8月16日)、昭和7年の絵葉書について触れましたが、これが村上義光公600年祭の際に作られたものであることを述べました。

                                 

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今回はこの村上義光公について記述します。(坂城町「ふるさと探訪」から引用記述します。)

村上義光、義隆親子について、戦前では国定教科書に記述されていたほど有名な人物でありました。

義光公の概略は以下のとおりです。

村上義光(よしてる)()

 生年不明~1333(元弘3)年 
 信濃村上氏の一族。村上信泰の子で通称を彦四郎と称したが、後に左馬権頭に任じられた。
 元弘の変に護良(もりよし)親王に従い、南都から紀伊国十津川に逃れてこの地の土豪を頼ったが、北条氏の命をうけた熊野別当定遍の探査を避けて十津川を出て、後に吉野山に入って幕府軍の攻撃を防いだ。
 元弘3年(1333)年閏2月1日吉野城は落ちたが、この時義光は子の義隆とともに親王の脱出をはかるため、親王の身代わりとなって敵の目前で壮烈な自害を遂げた。
                          

また、「太平記」にはその自害の状況が次のように記述されています。

『「われこそは大塔宮護良(もりよし)親王である。 今ここに自害するから、最後のありさまをよく見てお前たちが武運尽きて、腹切るときの手本にせよ。」と大声で叫んで腹一文字にかき切り、返す刀を口にくわえてうつ伏せになって息絶えた。 この間に大塔宮は天河村の方に落ちのびてゆくが、父とともに討死にしようとして父に諫められた村上義隆は、なおも追いくる敵勢を防いで満身に傷を負い、小竹の藪ににかけこみ割腹して果てた。』

「太平記」 巻第七より(國學院資料より)

戦前の歴史、国語の教科書には「村上義光」「錦の御旗」の題名で取り上げられ、全児童の学ぶところでありました。

村上義光 『前賢故実』より(ウィキペディア)

敵方に奪われた御旗を取り返す

吉野山にある村上義光の墓(吉野観光ガイドより)

しかし残念なことに皇国史観のイデオロギーによる忠君愛国の事例として強調されてしまった。 戦後はその反動で忘れられてしまったが。「太平記」の文面をありのままに理解することが大切である。(「ふるさと探訪」より)

村上小学校の裏側に立つ歌碑

「死での山こゆるも嬉し天照らす神の遠裔(みすえ)の皇子(みこ)となのりて」

揮毫は東郷平八郎

また、村上小学校の校歌の第2番では 「芳野の山の 花と散り」(村上義光、義隆親子について)、さらに 「越路の雪に 埋みても」(村上義清) とあり、いまだに歌い継がれています。

村上小学校校歌               

作詞 浅井 洌  作曲 青木 友忠

  一 源清く 末遠き
    千曲の川を 前にせる
     村上むらは 所がら
     人の心も すなおにて
     かせぎの道に いそしめば
     学びの業も 栄ゆなり

  二 芳野の山の 花と散り
     越路の雪に 埋みても
     知るきその名は 世に絶えず
     残る古城に み社に
     今も言いつぎ 語りつぎ
     ありし昔を しのぶなり

  三 千曲の水の 清ければ
     さやけき月の 影ぞ澄む
     人も心の 正しくば
     やがてそうらん 身の光
     花の朝も 月の夜も
     励め学びの 窓の友

坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第21回目は吾妻銀右衛門

 坂城の100人、21回目は小網地区で新田等の開発を行なった吾妻銀右衛門です。
 (本稿は、文化財センター学芸員の時延武史さんに纏めてもらいました)
                      
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吾妻銀右衛門 享保7年(1722)頃~寛政7年(1795)頃
 
初代銀右衛門は、鼠宿村の吾妻彦右衛門の子として生まれました。吾妻家は有力な百姓で、村役人も勤めていました。
 
安永3年(1774)から、鼠宿村の忠左衛門・孫右衛門・又右衛門と協力して小網で新田開発を始めました。開発を行ったのは、今の小網公民館の西側に広がる谷地(小網沢)で、山神・藤之木・柳沢・菖蒲沢・小平・木戸口・舟久保・鍛冶山・五林原・西山の10か所です。
                
                             
 小網沢地区
                        
地形を見ても分かるとおり、「新田開発」とは言いながらも、水田に適した場所ではなく、実際は畑地の開発でした。その上、傾斜の急な斜面地であったため、植え付けた作物が大雨で度々流されてしまいました。そこで思案の末、北上州(群馬県)から「広葉ワセ」という品種の桑苗を取り寄せて植え付けたとのことです。この桑が開墾地と相性が良く、根も強くはり、耕作地が雨に流されることも無くなりました。この事に力を得た銀右衛門達は養蚕業に精を出し、さらには蚕種業まで手掛けるようになり、相当の利益をあげるようになりました。新田開発の成功した村では凶作の困難も租税滞納も無く、開発に係る借金も返済し、非常に安定したそうです。
 
開発当初、初代銀右衛門は鼠宿村から千曲川を渡って小網沢まで通っていましたが、天明2年(1782)頃に開発地内の舟久保に移転しました。現在、杉林の中に残る石垣が屋敷跡です。最大で5m程の高さがあります。隅角部分は、長方形に加工した石材を短辺と長辺を交互に積み上げていく「算木積み」という技法が用いられています。これは城郭の石垣に多くみられる技法で、経験を積んだ石工がたずさわっていたことがうかがわれます。当地がかつて松代藩領であったことから、松代周辺から職人がやってきたのでしょう。
                   
                  
昭和20年代の写真、中央下に大きな石垣
                                        
                   
               
かつての入口(石門)
                  
                  
石垣を下から見た状況                
                       
 
屋敷跡から北へ50mほどの所に銀右衛門の墓があり、自然林に返りつつある、かつての開墾地を静かに見つめています。
                     
                
銀右衛門の墓
                  
 
初代銀右衛門による新田開発が軌道に乗るまでは大変な苦労があったのでしょうが、水田を開発するより、桑畑を開いて養蚕を行う方が、はるかに富を生み出すことができると確信していたからこそ、農業には不向きな小網沢(実際に、現在では耕作されていません)にあえて挑戦したものと思われます。
 
現在を生きる我々の豊かな生活の礎として、吾妻銀右衛門の新しい産業を切り開く先見の明と、血の滲むような努力があった事を忘れないでいたいものです。
                       
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坂城町長 山村ひろし
 

坂城の100人 今回は「和算」の大家二人

坂城の100人、今回は和算の大家二人を取り上げます。

それは新町の市川佐五左衛門と大宮の菱田与左衛門です。(坂城の100人、19人目と20人目とします)

坂城町は北国街道の要衝ということもあり、数多くの和算の大家が訪れ、多くの弟子が育ちました。

日本では飛鳥・奈良の頃すでに中国から「算木」が伝えられ、江戸時代には「算聖」といわれた関孝和が登場し、いわゆる「関流」が日本全国へ広がりました。

坂城の和算の始まりは、中之条の中島彦衛門兼秀・兼等、親子、新町の小林沖右衛門といわれ、その後、数多くの達人を輩出しました。

そのなかでも、双璧と言われるのが、新町の市川佐五左衛門、大宮の菱田与左衛門です。

  市川佐()()衛門()信任()(のぶとう)(1828~1886)
                 

市川家は「京屋」という旅籠屋をいとなんでいました。
佐五左衛門は村の指導者的立場でもあったことから、土地の測量や境界問題解決のためにも数学への関心が深かったようです。
また、養蚕業をひろくおこなっていた関係で横浜に出向くことが多く、そこで関流の大家法導寺和十郎と親交をもち、和算に傾倒していきました。
安政2年(1855)に関流の見題和言免許をうけ、門弟は30余名にのぼり、数多くの和算書をのこしました。
明治9年(1876)の横吹新道築造にさいしては頭取となって力をつくしました。和算以外にも佐久間象山との交流や華道、謡曲などにも造詣が深く才能豊かな人物でした。
                  
菱田()()()衛門()眞明(1835~1888)
             
菱田与左衛門は佐五左衛門と親交があり、そのため市川家に滞在していた法道寺に和算を学びました。
与左衛門は研究心旺盛で、三日くらいは寝食を忘れて和算の解題に没頭したり、坂城神社大鳥居前の大杉の高さを算出し、実際に木に登って実測することでその計算の正しさを証明したといわれています。
また、測量の力を駆使して、横吹新道の開削にも尽力しました。
                 
                  
                    
上:北日名の天幕社(てんばくしゃ)に収めた算額オリジナルの写真、下は複製したもの。(坂木宿 ふるさと歴史館所蔵)
この算額は市川佐五左衛門と菱田与左衛門が連名で各々2つの問題とその解を記述しています。
二人とも、観山法道寺善門人とし、関流正統八傅とあります。
                 
                
坂城の和算の歴史については「坂木宿 ふるさと歴史館」2階に展示がされていますので是非お出でください。
                     
                      
坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 18回目は 滝澤公庵です

今までに、江戸末期の坂城で高名だった文人として女流の歌人、藤澤雨虹や沓掛なか子をご紹介しましたが、今回は同じ時期に活躍した男性の登場です。

(以下の資料は鉄の展示館宮下学芸員から提供いただきました。)

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 滝澤公庵(こうあん) 1773(安永2)~1847(弘化4)年
                            
 滝澤公庵は江戸時代後期の医師で、本草学や国学・和歌(坂城の国学の先駆者)など多岐に亘って活躍した人物です。
                     
 鼠宿村に生まれた公庵は、若い頃江戸へ出て武田叔庵について医学を学ぶかたわら、詩歌と本草学を修め、帰郷して医業を開きました。
                         
 家に松の大木があったので松酒家と号し、名を木公庵と改め、後に略して公庵といいました。暇があれば山谷を歩いて本草学を研究し、一木一草名知らないものはなかったといいます。
 庭に多くの薬草を植え、薬種を作ったりしました。
                      
 天保の飢饉の時、藩命によって村を巡回し、救荒植物栽培を指導した功によって苗字帯刀を許されました。
                        
 国学者飯塚久敏や()荒木田久老(ひさおゆ)が北信濃を来遊した際、和歌の指導を受け、同門の沓掛なか子らと交わり、歌集『松のいほり』二巻を残しました。
            
  紀行の歌の中に
        
   みつくりの中山道は冴にけり 浅間おろしの雪の夕暮れ
            
 一重山のほとりに旅寝して
                   
   秋さむみ旅の衣のひとへやま 重ねまほしく嵐ふくなり
                         
                             
 

万葉防人歌碑(マンヨウサキモリカヒ)

 坂城南端の南条、会地早雄(おおちはやお)神社の境内にある万葉歌碑。

 滝沢公庵により天保年間に建立されました。

                    
           
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 以上、滝澤公庵のご紹介をしました。
                      
 現在、坂城町 「ふるさと歴史館」 の一階で 『パネル展 「坂城町の偉人」 ~近世の文人墨客~』 で 坂城町の偉人たちとして、文人墨客15名を紹介していますので、こちらもご覧ください。
                                  
            
 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第17回目は永井直治

 永井直治(ながい なおじ、1864年~1945年 旧姓 柳澤直治)は坂城町中之条出身の日本基督教会の牧師・聖書翻訳者として有名です。

 永井直治は柳澤与忽、しげ、の次男として元治元年(1864年)に中之条で生まれました。
 その後、塚田家の養子となり、塚田直治として明治23年(1890年)に明治学院神学部を卒業し東京浅草協会の牧師となりますが、明治24年(1891年)には柳澤家へ復籍し、柳澤直治を名乗ります。
 さらに2年後の明治26年(1896年)には埼玉県の永井家の養子となり、永井直治となり聖職者として活動します。
                  
永井直治の写真
(柳澤知夫さん提供、永井直治は柳澤知夫さんの大叔父にあたります)
                    
 
 聖書には多くの系統があります。
 明治になって、日本でもいくつかの系統の聖書が使われていたのですが、永井直治が翻訳をしたのは、エラスムス(1466年〜1536年 オランダの哲学者・宗教学者)が1516年に出版したと言われるギリシャ語本文で「正統派本文」と言われるものです。
              
 永井直治はこの原点と言われるギリシャ語本を翻訳し、昭和3年に自費出版をしました。
                           
「新契約聖書」の表紙
                     
                      
 この聖書は「永井訳新約聖書」と言われ、内村鑑三、尾島真治、中田重治などが推奨し、内村鑑三が「新契約聖書への序言」を書いています。
                                
                    
内村鑑三の「序言」    
                    
                                        
 また、中田重治は、これを一層普及させるためには、会社を作る必要があるとし信徒の有力者たちに呼びかけ、株主を募集し、日本聖書会社という株式会社を設立しました。
 そして、「新契約聖書」の一冊50銭の廉価版が出版されました。
                              
                 
 さらに、昨年、2012年には以下の新刊が再発行されました。
再刊された新契約聖書(2012年)
                                        
 
  以上、明治、大正、昭和と聖職者・研究者・翻訳者として活躍した坂城町中之条出身の永井直治のご紹介です。        
 
         
                       
                     
 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第16回目は甘利八右衛門

「生きながら神と祀られた甘利さん」
以前、「生きながら祀られた稲玉徳兵衞翁」のお話をしました。
  https://yamamurahiroshi.sakura.ne.jp/archives/3799                      
もう一人の「生きながら祀られた」のが甘利八右衛門です。
               
甘利といえば上田原の戦いで武田晴信を守り村上義清のために討ち死にした甘利虎泰(あまり とらやす)が有名ですが、この甘利八右衛門にどのようにつながるのか不明です。 どなたか教えていただければ幸いです。
                  
尚、甘利明 経済再生担当大臣のプロフィールには:                  

「先祖は武田信玄の末裔です (本当)。信玄の親戚であり、重臣 No2 甘利虎泰 (あまりとらやす) が我が先祖です。」 と記されています。

           
さて、甘利八右衛門さんですが、坂城町中之条にある葛尾霊園の真中に位置する老松の根本に「甘利社」という祠があります。
              
       
「甘利之社」
                  
甘利社に祀られている甘利さんは、江戸時代の末、中之条陣屋の第二十四代の代官、甘利八右衛門のことで、名代官の一人として知られています。
                  
甘利代官の在任は、文久3年(1863)から慶応2年(1866)の足かけ4年でした。
                       
甘利代官は、領内の産業を振興するために中之条牧の内一帯の開拓を進めたこと、中山道岩村田宿・小田井宿への助郷(手伝いの人足)の減免を幕府に働きかけて実現したことで大いに領民から感謝され慕われました。
そして、住民から神として祀られました。
                     
中之条の人々は甘利さんのお宮の前で毎年お祭りをしてきました。
お祭りには、重箱に煮しめを入れて持参し、村人総出でというほど盛大であったといいます。
                     
                  
甘利八右衛門はその後も異動を繰り返し、慶応3年7月には出雲崎代官に転出し、江戸幕府最後の出雲崎代官となりました。
                
また、『続徳川実紀』「昭徳院殿御在坂日次記」慶応2年2月23日の記録によれば、八右衛門の次男で別手組出役の甘利謙次郎が、孟子ならびに孫子について徳川家茂の御前で講釈をしたことが記されています。(大阪で、年齢は十三歳。別手組とは日本に在留する外国行使などを警護する組織)
なお、兄の徳太郎も別手組に属し、後に北海道開拓使となったそうです。
激動の江戸末期の時代を生きた、甘利八右衛門、徳太郎、謙次郎、親子のその後の消息は詳しくはわかりませんが、甘利徳太郎(後知)がエトロフ島を測量をしたという記録と地図が北海道大学の資料にあります
                     
                             
                          
これには「大日本開拓使所轄」とあり、「明治七年九月十四日、駿州、甘利後知識」と記されており、エトロフ島を描いた墨書図です。凡例によると甘利後知が自らこの島を踏査して作製したとあります。(北海道大学資料)
                       
甘利一家のその後についても興味はありますが、今回は 坂城町中之条で大切にされてきた ”生きながら祀られた行政官 甘利さん” の存在を記しました。
                 
                             
 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第15回目は 沓掛なか子です

 先日、江戸末期にその名を知られた俳人、藤沢雨虹を二回にわたってご紹介しました。
               
                    
                       
 今回は同時期に、歌人として、学者として活躍した沓掛なか子さんです。
                                             
 沓掛なか(仲子)
 1749(延享6)年~1829(文政12)年
                     
 沓掛なか子は、江戸時代の中頃に、坂城町で和歌や国学を先駆けて研究した人物です。 以前ご紹介した藤沢雨虹さんより20歳くらい先輩にあたります。
                      
 なか子は、更科郡今里村(長野市川中島)の内村家に生まれ、小さいころから国文の教養が深かった祖母の影響を受けて育ちました。
 この教養人であった祖母の影響により5歳のころには「百人一首」を暗唱できるくらいになっていたそうです。
                       
 16歳で小県郡塩尻村(上田市)の沓掛家に嫁ぎますが、後に夫、道秀の母の実家のあった坂木横町に移り住みます。(なんと、道秀の母の実家とは以前ご紹介した稲玉徳兵衛さんの家です)
 夫の道秀を助け酒屋(山根屋)を経営し、また質屋も営みました。
 天明3年(1783)の凶作の時には、多くの人々の手助けをしたそうです。
 道秀の死後、四男ニ女の子供を抱えながら長男の道寛を励まし、家業を盛り立てました。。
 有名な逸話として、道秀の法要の時、白衣を着て真っ先に上座に座ったので、親戚の者がその訳を聞いたところ、仲子は「妻は自分である。主賓は亡き夫なのだから、自分がそのとなりにすわるのに何の遠慮がいるだろうか。」と答え、そこにいた人たちはみなその考え方に感心したという。
                  
 なか子は生涯作家として努力し、わが国の古典を研究し、歌集・歌論・子女教育論など多くの著書を残しました。
                       
                
「千曲川 ちゞにくだ くる 波のうへに うつらふ月の 影の すゞしさ」
(田町 十王堂前にある碑)
                
                   
 沓掛なか子の研究には多くの方が取り組まれていますが、もう少し体系的に取り上げられるべき第一級の人物であると思います。
                   
                  
                
前田淑著 左:近世地方女流文芸拾遺
       右:江戸時代女流文芸史【旅日記編】
                   
 「近世地方女流文芸拾遺」では沓掛なか子の「朧夜物語」を詳しく紹介しています。
 この本は、なか子が77歳(1825年)の時に、和歌に対する意見を物語の形で書き上げたもので当時の坂木の一商家の主婦が記述したことに驚きと敬意を感じます。
                          
 
「朧夜物語」(原本)の表紙
                          
 また、「江戸時代女流文芸史【旅日記編】」では、なか子が三男の淵魚をつれて「秩父34番観世音巡礼」へ出発し、さらには江戸・江ノ島・鎌倉・日光にもあしを伸ばした大旅行記を紹介しています。(「東路の日」)  
                 
 「東路の日記」については、もろさわようこ が「信濃のおんな」でまた、永井路子が「旅する女人」と「歴史をさわがせた女たち」(庶民編)で紹介しています。
                         
                      
                  
「東路の日記」表紙と1頁目
                    
 
なか子は81歳で亡くなりますが、80歳の年に以下の和歌を残しています。
    
                       
                
「米よりは男ざかりぞ 我が庭の 梅も桜も我が物にして」
                  
                                    
 死の前年でも気力充実していたようですね。
           
 先日の藤沢雨虹を始め沓掛なか子などなど坂木の女性陣は素晴らしい。
 さらに、いろいろ調べたいと思っています。
               
 *上記のうち、原本の写真は前副町長の柳澤哲さん、鉄の展示館宮下学芸員が数年前に資料調査の際に撮影されたものを拝借しました。
                    
          
 坂城町長 山村ひろし

坂城の100人 第14回目は更科姫(伝承)!

今までに何回か、坂城町子供謡曲教室の紹介をし、子供たちが「紅葉狩」の練習をしていることも掲載しました。

ご存知のように、「紅葉狩」は能、歌舞伎の有名な題目で、「平維茂が戸隠山で、鬼女(更科姫)にめぐり逢い誘惑されかかるが、ついに撃退する」という物語ですが、坂城での「更科姫」に関わる伝承はかなり違います。

坂城町での更科姫は村上義清の家臣の娘で義清を助けるスーパー少女として長い間、語り継がれていました。

最近ではあまり話されることもなくなってしまいました。

実在の人物をモデルにしています。 彼女も語り継がれなけらばならない一人としてご紹介します。

以前ご紹介した「ふるさと探訪」から小泉長三(1878~1941)作の小説(昭和9年「幼年倶楽部」)を転載させていただきます。

『更科姫』

信濃(長野県)葛尾の城主、村上義清が、山狩をしてのかへり道、おほくの供をつれて城下へはいってくると、むかふの方でワーッといふさわぎ。

「あぶねえぞ あばれ牛だッ。」「にげろ、にげろ、角にかけられるな。」

ワイワイと、にげまどうふ わうらいの人々をおひまくり、大あばれに、あばれてゐる一頭の大牛。

いきほひはげしく角をふりたてて、行列の中へあばれこみました。

「それ、おさへろ。」 と、いったが、どうしておさへるどころか、お供の人たちはごろごろ、ばたばた、片っぱしからたふされ、角にはねとばされたり、ひづめにふみにじられたりして、行列はどっとくづれたちました。

いまや、義清の馬前ちかく、牛がをどりかからうとしたとき、そばの軒下から、まりのように、かけだした一人の少女、牛のかしらへとびついたと思うと、両手で角をむんずとつかみ、「えい えい 。」 左右へ、ぐらりぐらりとふったとみれば、ごろりと牛をねぢふし、首すじをしっかり足でふみ、「だれか、つなをかけてください。」 という聲に侍どもは、よってきて牛につなをかけました。

少女は年はまだ十二、三の、かはいい子供ですから、義清はおどろきながらたづねました。 「そちはなに者のむすめじゃ。」 「わたくしは楽岩寺右馬之助のむすめ、更科と申します。」 「いくつぢゃ。」 「十二でございます。」 「おお、右馬之助のむすめか。むかしの巴御前や、近江のおかねにもまさる大力ぢゃ。ほうびをつかわすから、城へまゐれ。」

義清は更科をつれて城へかへり、父楽岩寺右馬之助をよびだし、更科のはたらきをほめて、たくさんのほうびをたまはりました。

そのころ、村上家に牧野大九郎といふ悪いけらいがありました。 敵軍武田信玄のけらい、馬場信房と心をあわせ、主人義清の子、八歳になる竹松をぬすんで葛尾の城をにげだし、馬場信房のやしきに身をかくしました。

信房は、竹松をとらへておいて、義清にむかひ、降参しなければ、竹松をころしてしまふぞ、といってきました。 義清は竹松をころすならころせ、降参などするものかと、使をおひかえしてしまひました。

ある日、馬場信房のやしきでは、信房の奥方が、京都からきたといふ舞姫をよんで、その舞をみることになりました。

舞姫はこのごろこの地へきたもので、名をかつらといひ、年は十二、三歳であるが、めづらしく舞が上手なので方々のやしきへよばれて、舞をまひました。それをきいて、信房の奥方もみたくなったのでありました。

廣いざしきの正面に奥方がひかへ、そのそばに二葉といふ、十歳ばかりのお姫さまがならび、左右には、大ぜいのこしもとや女中がすわってゐます。

そこへ、よばれたかつらは、まだ小さいかはいい子供です。奥方は、さっそく、「なんなりと舞うてみや。」、といひました。

かつらは、舞扇をとって、うたひながら舞ひはじめたが、その聲のうつくしさ、さす手、ひく手のあざやかさ、おとなもおよばぬ上手さに、みな、われをわすれてみとれました。

かつらは舞ひながら、奥方のそばちかくすすんだと思うと、ばらばらと二葉姫のそばにかけより、姫をかるがると左の小わきにかかへて、きっとあたりをみまはしました。 「あッ、姫をどうしやる。」 「あれッ、お姫さまを 。」

奥方はじめおつきの人々が、おどろいてたちかけましたが、気がついてまたびっくり、二葉姫をかかへてたった、かつらの右手には、きらりと光る短刀が握られ、そのきっさきが、二葉姫ののどにむけられてゐます。

目にもとまらぬはやわざで、二葉姫をうばったかつらは、「みなさん、手だしをなさると、お姫さまをころしてしまひますぞ。 わたしは、けっしてお姫さまを、どうしようといふのではありません。 奥方が、わたくしのねがひをきいてくだされば、お姫さまはおかへし申します。」

「おお、どんなねがいでもきいてやる。 さあ、姫をはやくかえへしゃ。」

「わたくしのねがひといふのは こちらにとらはれてゐる、村上竹松さまをかへしていただきたいのでございます。」

「や、や、村上の竹松をかへせといふか、そちはなに者ぢや。」

「かつらと申したのはいつはり、まことは、村上義清のけらい、楽岩寺右馬之助のむすめ更科と申すもの。 このお姫さまは、大切におあづかりいたしてまゐり、竹松さまとひきかへに、おかへし申しますから、どうぞ、葛尾へ竹松さまをおかへしくださるやう、殿さまに申し上げてくださいませ。」

そのとき、女中のしらせによって、侍どもがかけつけたが、二葉姫ののどへ短刀をつきつけてゐるので、手のだしやうがありません。 

更科は、八方へ目をくばりながら、しづかにざしきの外へでてゆきます。

「門をしめろ。」 「表へだすな。」 更科のまはりをとりまいた、侍どもが、外へだすまいと思って、表門をしめさせてしまひました。 「さあ、おどき。どかぬと、かうしますぞ。」と短刀を二葉姫のむねでぴかぴかさせながら、むらがる侍の中をおし通り、やうやく表門のところへきてみると、門がぴったりとしまってゐます。 「こんな門などなんでもない。」 にっこり笑った更科は左に二葉、右に短刀、両手がつかへぬので、門の柱に肩をおしあて二,三度ぐらぐらゆすぶると、みあげるような大門ががらがらどしんと、たふれてしまいました。 何百人力かもしれぬ更科の力に、みなきもをづぶして、もう、おしとめようとするものもありません。 とうとう二葉姫は、更科のため葛尾城へつれてゆかれてしまったので、馬場信房もしかたなく、竹松を村上義清にかへして、二葉姫を、かへしてもらいました。 (をはり)

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坂城町長 山村ひろし