先日、江戸末期にその名を知られた俳人、藤沢雨虹を二回にわたってご紹介しました。
今回は同時期に、歌人として、学者として活躍した沓掛なか子さんです。
沓掛なか(仲子)
1749(延享6)年~1829(文政12)年
沓掛なか子は、江戸時代の中頃に、坂城町で和歌や国学を先駆けて研究した人物です。 以前ご紹介した藤沢雨虹さんより20歳くらい先輩にあたります。
なか子は、更科郡今里村(長野市川中島)の内村家に生まれ、小さいころから国文の教養が深かった祖母の影響を受けて育ちました。
この教養人であった祖母の影響により5歳のころには「百人一首」を暗唱できるくらいになっていたそうです。
16歳で小県郡塩尻村(上田市)の沓掛家に嫁ぎますが、後に夫、道秀の母の実家のあった坂木横町に移り住みます。(なんと、道秀の母の実家とは以前ご紹介した稲玉徳兵衛さんの家です)
夫の道秀を助け酒屋(山根屋)を経営し、また質屋も営みました。
天明3年(1783)の凶作の時には、多くの人々の手助けをしたそうです。
道秀の死後、四男ニ女の子供を抱えながら長男の道寛を励まし、家業を盛り立てました。。
有名な逸話として、道秀の法要の時、白衣を着て真っ先に上座に座ったので、親戚の者がその訳を聞いたところ、仲子は「妻は自分である。主賓は亡き夫なのだから、自分がそのとなりにすわるのに何の遠慮がいるだろうか。」と答え、そこにいた人たちはみなその考え方に感心したという。
なか子は生涯作家として努力し、わが国の古典を研究し、歌集・歌論・子女教育論など多くの著書を残しました。
「千曲川 ちゞにくだ くる 波のうへに うつらふ月の 影の すゞしさ」
(田町 十王堂前にある碑)
沓掛なか子の研究には多くの方が取り組まれていますが、もう少し体系的に取り上げられるべき第一級の人物であると思います。
前田淑著 左:近世地方女流文芸拾遺
右:江戸時代女流文芸史【旅日記編】
「近世地方女流文芸拾遺」では沓掛なか子の「朧夜物語」を詳しく紹介しています。
この本は、なか子が77歳(1825年)の時に、和歌に対する意見を物語の形で書き上げたもので当時の坂木の一商家の主婦が記述したことに驚きと敬意を感じます。
「朧夜物語」(原本)の表紙
また、「江戸時代女流文芸史【旅日記編】」では、なか子が三男の淵魚をつれて「秩父34番観世音巡礼」へ出発し、さらには江戸・江ノ島・鎌倉・日光にもあしを伸ばした大旅行記を紹介しています。(「東路の日」)
「東路の日記」については、もろさわようこ が「信濃のおんな」でまた、永井路子が「旅する女人」と「歴史をさわがせた女たち」(庶民編)で紹介しています。
「東路の日記」表紙と1頁目
なか子は81歳で亡くなりますが、80歳の年に以下の和歌を残しています。
「米よりは男ざかりぞ 我が庭の 梅も桜も我が物にして」
死の前年でも気力充実していたようですね。
先日の藤沢雨虹を始め沓掛なか子などなど坂木の女性陣は素晴らしい。
さらに、いろいろ調べたいと思っています。
*上記のうち、原本の写真は前副町長の柳澤哲さん、鉄の展示館宮下学芸員が数年前に資料調査の際に撮影されたものを拝借しました。
坂城町長 山村ひろし