坂城の100人 第24回目は中島銀右衛門

坂城の100人 第24回目は中島銀右衛門さんです。

中之条の国道沿いに 「中島銀右衛門」 さんを讃えた筆塚があります。

先日もご紹介しましたが、国道沿いにあるため筆塚の痛みが激しく。

6月から約2か月かけた修復作業が漸く終了いたしました。

左から修復作業にあたる、文化財センター青木所長、時信学芸員、宮下学芸員

江戸時代、中之条地区には多くの文人が出ていますが、中でも有名なのが中島銀右衛門です。

(文化3年 1806年~明治16年 1883年)

銀右衛門は、中之条陣屋によって教学人(教師)に命じられ、代官以下の役人の子や村人の子に漢籍や詩歌を教えました。

門人の中で著名な者は、明治維新後子爵となった陸軍軍医の石黒忠悳(ただのり)がいます。

忠悳は当時、陣屋手代の秋山省三(母親の弟)の家に母と共に陣屋で暮らしていました。

忠悳の長男が忠篤(ただあつ)で、戦前・戦後を通じてわが国の農業政策を展開し、農業の神様とよばれた人物です。

銀右衛門は門弟から慕われ、心温まる人であるばかりでなく、孤高の人、毅然として生きた人であったといわれています。(坂城町「ふるさと探訪」より)

また、仁厚の人で、世の中が軽薄になり師弟の関係もだんだんと薄くなりつつあった時代に、門弟から慈母のように慕われたといいます。 (「坂城のいしぶみ」より)

碑の最期に詩が書かれています。一部のみ訳をご紹介します。

「孤高の人、毅然として生きた人、こういう人こそ世の中へ顕彰すべきである。今ここに其の恩に酬ゆるために、馬のたて髪のような形をした筆塚をたてそれがそばだっている。いつまでも崩れず立っていてほしい。今我は碑文を作った。そしてこの碑を讃えて高野山のようだといいたい。」 (「坂城のいしぶみ」より)

「いつまでも崩れず立っていてほしい。」 とあるように今回、補修をいたしました。

坂城には大きな功績を残された方々がまだまだたくさんおられます。

これからもご紹介を続けていきます。

坂城町長 山村ひろし

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