坂城の100人、今回は和算の大家二人を取り上げます。
それは新町の市川佐五左衛門と大宮の菱田与左衛門です。(坂城の100人、19人目と20人目とします)
坂城町は北国街道の要衝ということもあり、数多くの和算の大家が訪れ、多くの弟子が育ちました。
日本では飛鳥・奈良の頃すでに中国から「算木」が伝えられ、江戸時代には「算聖」といわれた関孝和が登場し、いわゆる「関流」が日本全国へ広がりました。
坂城の和算の始まりは、中之条の中島彦衛門兼秀・兼等、親子、新町の小林沖右衛門といわれ、その後、数多くの達人を輩出しました。
そのなかでも、双璧と言われるのが、新町の市川佐五左衛門、大宮の菱田与左衛門です。
市川佐五左衛門信任(のぶとう)(1828~1886)
市川家は「京屋」という旅籠屋をいとなんでいました。
佐五左衛門は村の指導者的立場でもあったことから、土地の測量や境界問題解決のためにも数学への関心が深かったようです。
また、養蚕業をひろくおこなっていた関係で横浜に出向くことが多く、そこで関流の大家法導寺和十郎と親交をもち、和算に傾倒していきました。
安政2年(1855)に関流の見題和言免許をうけ、門弟は30余名にのぼり、数多くの和算書をのこしました。
明治9年(1876)の横吹新道築造にさいしては頭取となって力をつくしました。和算以外にも佐久間象山との交流や華道、謡曲などにも造詣が深く才能豊かな人物でした。
菱田与左衛門眞明(1835~1888)
菱田与左衛門は佐五左衛門と親交があり、そのため市川家に滞在していた法道寺に和算を学びました。
与左衛門は研究心旺盛で、三日くらいは寝食を忘れて和算の解題に没頭したり、坂城神社大鳥居前の大杉の高さを算出し、実際に木に登って実測することでその計算の正しさを証明したといわれています。
また、測量の力を駆使して、横吹新道の開削にも尽力しました。
上:北日名の天幕社(てんばくしゃ)に収めた算額オリジナルの写真、下は複製したもの。(坂木宿 ふるさと歴史館所蔵)
この算額は市川佐五左衛門と菱田与左衛門が連名で各々2つの問題とその解を記述しています。
二人とも、観山法道寺善門人とし、関流正統八傅とあります。
坂城の和算の歴史については「坂木宿 ふるさと歴史館」2階に展示がされていますので是非お出でください。
坂城町長 山村ひろし