坂城の100人 第23回目は佐藤嘉長

坂城の100人 23回目、今回は再び江戸時代に戻り、「常山隄」を構築した、佐藤嘉長です。

嘉長は当時有名な河川管理の技術者だったようで、坂城町以外でも河川改修に関して佐藤嘉長の名を見ることができます。 (静岡県富士川近くの水神社にある「不儘河修堤碑」など。)

まず、「常山隄」の概略を説明します。(坂城町教育委員会、常山隄碑説明資料から)

(説明文)

「天保12年(1841年)の大洪水でこの地籍の耕地は壊滅に瀕した。

幕府は、代官所(代官:石井勝之進)を通じた農民の復旧の請願を受け、直ちに佐藤嘉長を派遣した。 嘉長は5年の歳月を費やして弘化2年(1845年)に彼の命名になる常山隄を完成した。

その工法は、川筋に対してほぼ直角に突出し長さ300メートル、基礎を大石で築き、堤端は畳石という巨岩を置いた堅牢無比の構築であった。 そのため千曲川の流路は西方へ移り、広大な耕地を守ることができた。

堤上には祠を立て、毎年祭りの行事として村人それそれが大石を水中に投じ堤端を補強することとした。

孫子の兵法書によれば、常山にすむ蛇は頭を打たれれば尾が、尾を打たれれば頭が、それぞれを救うという故事から、この堤も洪水がどこをついても崩れない、と嘉長は説いた。

村人は嘉長の功績と常山隄の由来とを永く後世に伝えるためこの碑を建立した。」 

次に、佐藤嘉長が名づけた「常山隄」について述べます。

「常山」は孫子の有名な戦略論の「九地」の中に出てきます。

孫子は戦には戦場に応じた戦い方があるとして、「九地」、九つの地形に分けた戦い方を挙げています。

それは、「散地」、「軽地」、「争地」、「交地」、「衢地」(くち)、「重地」、「圮地」(ひち)、「囲地」、「死地」があるといっています。 各々についてここでは詳しく説明はしませんが、兵士が機敏に対応することに大切さを説明するために 「常山」の蛇について説明しています。

「常山の蛇」

故善用兵者、譬如率然。率然者常山之蛇也。撃其首則尾至、撃其尾則首至、撃其中則首尾倶至。

故に善く兵を用うる者は、譬えば率然の如し。 率然とは常山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾倶に至る。 

そこで、兵士たちをうまく統率する者というのは、たとえば卒然のようなものである。卒然とは、常山にいるという伝説上の蛇のことだ。

その蛇の首を攻撃すると尾が迫ってくる。尾を攻撃すれば頭がくる。胴体をせめれば頭と尾が同時にかかってくる。

ということなのですが、さらに孫子は、この常山の率然という蛇のように兵士を統率できるのかという例として挙げているのが 「呉越同舟」 という言葉です。

つまり、「呉」と「越」のように敵対している国の兵士が同じ船に乗り合わせ、暴風に出会い、船が危ないとなればこの呉越の兵士が否が応でも左右の手のように助け合うことになる。 このように一致団結できるような用兵策が重要であるといっています。

常山隄の現在(平成25年8月)

昭和7年の常山隄

                       

常山隄碑                 

常山隄の図(中央縦の四角い部分が常山隄中心部)

右のほうが千曲川上流で、洪水時に常山隄に直角にぶつかり図の下方へ流れ町を保護する。

以上、常山隄を作り長く村民に慕われた河川工事技術者 佐藤嘉長の話でした。

坂城町長 山村ひろし              

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