「坂城の100人」13回目、今回は先日掲載しました初代坂城藩主板倉重種に続いて、2代目(最後の)坂城藩主板倉重寛についてです。
カテゴリー: 4.坂城の100人(人・法人)
「坂城の100人」第12回目 江戸期に有名な女流俳人藤沢雨紅
「坂城の100人」 第11回目 初代坂城藩主板倉重種
「坂城の100人」 第10回目 松尾芭蕉
「坂城の100」も第10回目となりました。
今回は大物の登場で、松尾芭蕉です。
芭蕉も坂城に大いに関係があります。
松尾芭蕉は、「更科紀行」にあるように、貞享5(1688)年8月15日に姥捨(現千曲市)に到着し、現坂城でも句を残しました。 更科には三日ほど滞在したようです。
*更科はかつては更級郡として、明治初期には26村、1町を有する大きな郡でしたが、町村合併の結果、郡は消滅しています。 地域としては長野市の一部、千曲市の一部、坂城町の一部(村上)です。
(以下、 「笈の小文・更科紀行・嵯峨日記」:上野洋三編を参考にさせていただきます)
芭蕉は貞享4年(1687年)10月、江戸を出発して伊賀へ向かいます。
伊賀藤堂藩より 「今明年中に故郷へ帰り、役人共へ つらみせ可仕候」との命が出ていたためです。
藤堂藩は他国に出て生活している領民に対して 「5年目には故郷に戻るよう」 命じていたのです。
この命をうけ、芭蕉は伊賀上野に戻りその帰路、吉野、高野山、紀三井寺、和歌の浦、奈良を経てさらに大阪に入り、兵庫、須磨、明石を訪れています。
さらにその後、京に入り、岐阜、大津にとどまり、瀬田の蛍を見て 「この蛍 田毎の月に くらべみん」 の句を残しています。
この頃すでに、秋の名月を更科の姥捨山で見たいという気持ちが強くなったようです。
「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云ふ。」
(かの更科の里・姥捨山の名月を見ようということを、しきりに勧める秋風が、心の中に吹き騒いで、私の心を落ち着かさせない。同様に風雅心ゆえに浮かれ立ったのが、もうひとり居て、その名を越人という。)(越人:越智十蔵。尾張の蕉門)
貞享5(1688)年8月15日、芭蕉は、越人ととも姥捨山へ夜分、到着します。
以下、更科の地に関する句を4句紹介します。
まずは、越人の句から
「さらしなや三よさの月見雲もなし」
*好天に恵まれて三晩も続けて素晴らしい月を見たようですね
芭蕉の句
「俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友」
*その場には姥はいませんが、姥を捨てた息子の気持ちが察せられるようなすごい感情が感じられますね。
「いざよいもまださらしなの郡哉」(いざよいも まださらしなの こおりかな)
*姥捨山で素晴らしい名月を見た後、次の日の十六夜にもまだ去り難い思いで更科にとどまっていて、名残惜しさが強烈ですね
「十六夜もまだ更科の郡かな」の句碑。
坂城町網掛の 十六夜観月殿 脇
「十六夜」の裏面
桃青(芭蕉の号)霊神
十六夜観月殿
「身にしみて 大根からし 秋の風」
*坂城特産の「ねずみ大根(辛味大根)」を芭蕉が句に詠んでいるのがすごいですね。はたして、おしぼりうどん、あるいは蕎麦として食べたのか、大根をそのまま切り身で食べたのか不明ですが、姥捨を訪れた後、秋風の中いろいろ見にしむものがあったのだと思います。
坂城のねずみ大根(辛味大根)
「おしぼりうどん」
坂城町振興公社ホームページより
坂城町長 山村ひろし
「坂城の100人」 9人目は 村上(源)為国
私はこれには白河上皇との強い絆があったのではないかと述べました。
「坂城の100人」 8人目は 万力和蔵 です
「坂城の100人」 8人目は鼠宿出身の力士 万力和蔵 です。
「坂城の100人」第7回は昭和橋を設計した中島武さんです。
「坂城の百人」 第7回目は、中島武氏です。
「坂城の100人」第6回は 福沢諭吉です !
「坂城の100人」に福沢諭吉が登場とは、びっくりされる方が多いかもしれませんが、以前にも書いたように福沢諭吉は坂城に大いに関係があり、彼の祖先の地なのです。
文久2年(1862)幕府使節として、ヨーロッパ歴訪の際ベルリンにて。原典:福沢研究センター
平成25年 新年のご挨拶
「坂城の100人」第5回は人間国宝 宮入行平さん
「坂城の100人」 第4回目は 薄雲 太夫です。
「坂城の100人」 第4回目は 薄雲太夫です。
薄雲太夫 (源氏物語の「薄雲」ではありません)、 信州埴科郡鼠宿の玉井清左衛門の娘(玉井てる)は、元禄年間(1688~1704)の太夫として有名を馳せた江戸新吉原京町一丁目の三浦屋の遊女で、同時代の高尾と並び名妓と称された人です。
坂城出身のこのような有名な遊女がいたことに驚きですね。
まだまだ不明な点が多く、識者の皆様方のご意見を賜れば幸いです。
月岡芳年(明治8年)
とにかく、有名な遊女であり、可愛がっていた猫(玉)とともに多くの逸話が残っています。
また、当時の吉原では同じ源氏名を何代にもわたって使っていたわけですが、別の遊女で江戸前期の、初代といわれている薄雲がいます。(但し、初代薄雲ではなく、高尾太夫であったとの説が有力。)
初代薄雲(高尾太夫) : 吉原京町1丁目、信濃屋藤左衛門の抱えで、和歌をよくし、書に堪能、俳諧に名あり、義侠心に富み、金銀にものいわせる客には目もくれなかったと言われた薄雲(高尾)がいます。
この薄雲(高尾)は万治年間(1658~61)、仙台藩主第三代伊達綱宗の愛するところとなりますが、鳥取藩士島田重三郎に操を捧げて、半年におよぶも伊達綱宗には肌を許さず、3000両で身請けされたのちも意に従わず、ために一室に幽閉され,「10日に10指を断ち落とす」と脅迫されても、なおかたくなに拒み、ついに殺されてしまったということです。
道哲和尚、高尾太夫の墓
正面屋根の下にあるのが高尾大夫の墓で、向かって左手の座像が高尾の回向をした道哲和尚の墓です。右手の標柱には「二代目萬治高尾 轉譽(転誉)妙身信女」と刻まれています。(西方寺ブログより)
薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)
一方、坂城町出身の薄雲は猫が好きで、この溺愛していた猫(玉)が、命を賭して大蛇から主人薄雲を守ったという報恩談が残っていて、この逸話から招き猫が始まったとする説があります。
(薄雲の愛猫、玉がいつでも薄雲に付いて来る。 厠へも一緒に入りたがることがあり、あまりにもしつこく、猫が薄雲に憑いたのではないかと思った三浦屋のものが、玉の首を切り落としてしまった。 ところが、切り離された首が厠の中へ飛んでいき、中に潜んでいた蛇の頭に噛みついた。 つまり玉は厠へ潜んでいた蛇から薄雲を守ろうとしていたということであった。 これを不憫に思った薄雲は玉を丁重に葬り、京都から伽羅(きゃら)の香木を取り寄せ、玉の像を作らせた。 これが招き猫の元となったという説である。)
榎本其角の句に「京町の猫通ひけり揚屋町」があるほか、岡本綺堂の半七捕物帳に 「薄雲の碁盤」 という小説があり、薄雲と猫(玉)に関わる逸話が書かれています。
* インターネットの図書館、青空文庫より(以下のサイトで全文が参照できます)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1022_15044.html
薄雲と猫に関しては他にも多くの逸話、物語があります。
・近世江都著聞集(きんせいえどちょもんしゅう)から「三浦遊女薄雲が伝 」
・烟花清談から「三浦や薄雲愛猫(あいしねこ)災(わさはひ)をのかれし事 」 など
歌川広重 この猫の主人が薄雲のようです
坂城出身の薄雲は源六という人物に身請けをされるのですが、その証文が残っています。 以下、その現代語訳です。
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「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」
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なかなか、殊勝な証文です。
ただし、薄雲が350両という大金で身請けされた後、幸せな生涯を送ったのかどうかは不明です。
しかし、薄雲の死後、形見(実際には高尾太夫から受け継いだもの)といわれる打掛(裲襠 (りょうとう))が坂城の耕雲寺さんに収められ、それが現在では卓敷きに改められて、保管されているとのことです。(耕雲寺寺宝)
私は現物は拝見しておりませんが、中嶋登 町会議員さんから写真を提供していただきました。
寳物 高尾圓盡卓袱
また、浮雲の和歌が絵馬として上田市別所観音堂に額面となって残っています。
歌:しき妙の枕に残るうつり香を我身にしみてひとりかもねん
薄雲についてはまだまだ不明の点が多く、あとで補足をしたいと思いますが、今回は坂城鼠宿出身の有名な薄雲太夫がいたということをお伝えします。
以上、 「鼠」 出身で 「猫」 を愛した薄雲太夫のお話でした。
皆様からご意見をいただきたく。
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坂城町長 山村ひろし