坂城の100人 第13回目は2代目坂城藩主板倉重寛

 「坂城の100人」13回目、今回は先日掲載しました初代坂城藩主板倉重種に続いて、2代目(最後の)坂城藩主板倉重寛についてです。

 前回同様、鉄の展示館宮下学芸員に記述をお願いしました。
                        
 
坂木藩2代藩主「板倉重寛」 
  寛文9(1669)年〜享保6(1721)年
 
 前回は、江戸時代この坂城町に大名が拠点を構えた坂木藩があり、その初代藩主板倉重種について紹介しましたが、今回は、重種の跡を継いだ2代藩主板倉重寛についてお話しします。
 
 父重種から坂木藩を継承した板倉重寛は、寛文9(1669)年に生まれました。4歳の時、旗本である祖父重矩の弟板倉重直の養子となりましたが、天和元年(1681)9月、実家に戻り嫡子となります(これが原因で家中は重寛派と重種の養子重宣派に分かれ御家騒動に発展)。
 天和3年5月、父の隠居で重寛は坂木藩3万石を相続しましたが、この時重寛は弱冠14歳であり、父と同様、坂木陣屋を本拠として藩政を進めました。
坂木藩3万石の所領は信濃国(現坂城町から千曲市、長野市、上田市、須坂市、中野市、小布施町、飯綱町、信濃町、箕輪町、それぞれの一部)を中心に、板倉氏の出身地三河国(愛知県西尾市)や上総国(千葉県東金市)の一部にも及びました。
 貞享元年(1684)2月、重寛は元服し、翌年8月、初めて坂木の地へ入部しました。その後、重寛が坂木へお国入りしたのは元禄2(1689)年2月が確認できます。2度目のお国入りをした元禄2年、重寛は亀井茲政の娘を妻に迎えました。
元禄7年3月、重寛は大坂加番(大坂城の警備担当4名の一人)を命じられ、同12年にも同職を命じられています。
 重寛は若年ながらも、道理を弁えた才能ある人物で、学問と武芸を共に励み、性格も素直で情が厚く、柔和な人柄で、領民にも哀れみの心を持っていました。さらに道理に叶った処罰と、法に基づいた審議により、君主として高い評価を得ていました。
 
 板倉重寛が治世を進めた拠点は坂木陣屋です。坂木陣屋は、前領主の越後高田藩松平光長時代に代官長谷川氏が使用していたものでした。陣屋は現在の坂城駅前横町通り南側一帯にあり、その敷地は900坪で建物は110坪程度、更に板倉時代には多くの家臣団を収容するため、陣屋の東に家臣屋敷が造成されました。当初5万石、その後3万石となった板倉氏の家臣は相当数の規模であったことが想像され、坂木は陣屋を中心とした城下町ならぬ陣屋町の街並みが形成されました。
 
 板倉氏が坂木を本拠地にして21年目の元禄15(1702)年12月、重寛は、江戸城において将軍徳川綱吉の前で福島城主(福島県福島市)=福島藩3万石への転封を命じられ、陸奥国が本領となりました。更に江戸城での控の間が、菊之間(三万石未満の譜代小大名の詰所)から雁之間(城持ちの譜代中大名の詰所)へと昇格しました。
 陣屋支配から城持ち大名に復帰することは、藩主重寛及び家臣にとって宿願であり、そのため幕閣に対し藩をあげての運動が展開され、遂に実現したのです。板倉氏以前の福島城は、譜代大名堀田氏が10万石、その前も譜代本多氏15万石の居城でした。
 元禄16年1月から福島城受け取りの準備が進められ、4月には幕府代官から城と領地を受け取りました。ここに坂木藩の歴史は幕を降ろすこととなり、以後、坂木は幕府直轄領(天領)となって、引き続き、坂木陣屋は幕府の代官陣屋として半世紀の歴史を歩むこととなります。
                          
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 坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」第12回目 江戸期に有名な女流俳人藤沢雨紅

「坂城の100人」第12回目は江戸後期に坂城が生んだ当時の有名な女流俳人藤沢()(こう)(秀子)です。
 
 
藤沢()(こう)(秀子)
                 
1767(明和4)年~弘化2(1845)年
江戸時代後期に、坂城では数少ない女流俳人として名を成した藤沢()(こう)(秀子)がいます。
本名を秀子といい、坂木宿大門町の旅籠屋「大藤屋」の当主清蔵に嫁しました。
清蔵も貞雅と号する俳人でしたが、実力は雨紅に及ばなかったそうです。
雨紅は下戸倉宿の宮本虎杖に俳句を学び、享和元年(1801)の虎杖編の句集から俳句が掲載されるようになり、この後、内外の俳書に作品が数多く収録されていきます。
江戸の俳人小蓑庵碓嶺の俳書にも雨紅の作品が多数掲載されます。
天保4年(1833)に雨紅を訪ねた江戸の俳人大野景山は「婦人には珍しき俳人なり」と評しています。
60歳(耳順)になった、文政9年(1826)には、自句集『松蔭集』を刊行しました。これは坂城で刊行された唯一の句集であり、自句208首に雨紅と親交のあった俳人の句が掲載されています。
また、辞世の句(79歳で死去) 「散やけし 花ならまじる 日もあるに」 は満泉寺の墓に刻まれています。
               
「松蔭集」の所在が不明でしたが、私が偶然、長野県立図書館で発見し、鉄の展示館宮下学芸員の力を借りて調べています。
今回、その一部をご紹介します。
                       
「松蔭集」表紙
                   
「松蔭集」序文
                       
                     
「松蔭集序文」 (江戸の俳人小蓑庵碓嶺が記述)
                        

信濃のくに坂木の雨紅今年耳順(じじゅん:60歳)の春
を迎ひ君が代にとたひ(途絶え)澄べき水の色

を、くみて知りける山の春のな(名)と

古き世の御影を限なく歓びさゝれ石
盡せぬ千曲の流を汲て更級や
葛尾山の睦月の空をうつして
老のこころをなぐさめ月花の
冥加浅からずも自の句を撰みまた
英雄の句をも女手のたよわくも拾
ひ得てこれを酒肴にかえて賀莚を
ましけるの志目出度文政九年の
春の花とや言ん實や酒肴に
かえて並べたる発句の中々朽果
る世のあらざれば號は松蔭集
と呼ことしかり   碓嶺述
                    
              
「松蔭集」は自作の俳句が208句、その後に、江戸俳壇の大家を中心とした一茶を含む著名俳人9人の発句が続き、更に雨紅と仁井田(中村)碓嶺と八朗、3人の連句36首、雨紅と遠藤雉啄の連句18首、雨紅と碓嶺、如水の連句18首、そして、全国の俳人の発句100首という構成となっている大作です。
                
是非とも、この貴重な俳句集を再版したいと思っていますが、今回は、雨紅 自作の句集の始めと終わりの数句を掲載させていただきます。
                    
「松蔭集」の1頁目
                       
                     

「松蔭集」から初めの5句。(初春の句)
                
 ・元日やこころのはなのあさ朗(ぼらけ)
 ・元日や祝ふことさへありの侭
 ・親と子の無事を宝に花の春
 ・蓬莱や行義ただしく子はそだつ
 ・月雪や世の旅ころもきそはしめ
                  
                
「松蔭集」終わりの5句。(年納めの句)
                 
 ・小原女の柴には雨かみぞれ降
 ・友(共)に白髪(かみ)いだく迠(まで)を雪の様              
 ・行としを見に行頃やなごの海
 ・年の市挟莚売も一世界・・(挟莚:さむしろ)
 ・葛尾もとしのくれ行山路哉
                   
          
坂城町は素晴らしい歴史、芸術、文化の宝庫が山のようにあります。(一部はレア・アース化しているかも知れません。)
「松蔭集」についてもまだまだ不明な点が多く、今後とも継続して調査・研究していきたいと思っております。
                        
                
坂城町長 山村ひろし

 

「坂城の100人」 第11回目 初代坂城藩主板倉重種

「坂城の100人」第11回目は初代坂城藩主板倉重種です。
                            
 以下、鉄の展示館宮下学芸員に記述していただきました。
 ちなみに、2代目(最後の坂城藩主)板倉重寛については、別途、掲載させていただきます。
 
坂木藩初代藩主「板倉重種」 
寛永18(1641)年〜宝永2(1705)年
                    
                       
坂城駅前にある「坂城陣屋跡」説明(坂城町教育委員会)
         
 
 徳川譜代の名門として名高い板倉氏は、江戸時代ここ坂城町に成立した坂木藩の藩主として、一時期この地域を支配した当地と大変ゆかりのある家で、今回紹介する板倉重種は、その初代藩主にあたります。
 
 重種を紹介する前に、まず、板倉氏と坂木藩について簡単に説明したいと思います。
板倉氏は、幕府草創期、西国大名対策や対朝廷政策の中枢を担った初代京都所司代板倉勝重が直接の祖となります。勝重の子孫はその後、4つの大名家と2つの旗本に分かれ、幕閣の最高位である老中や幕府の重役を代々つとめるなど、徳川幕府を支える重鎮として江戸時代を歩みました。
                                    
 その板倉氏のなかで勝重の二男である重昌を祖とする重昌流三代目の当主板倉重種が、天和2(1682)年2月、武蔵国岩槻(埼玉県岩槻市)から信濃国坂木(坂城町)へ国替えとなり、ここに坂木藩5万石が成立しました。当時、信濃国内で5万石といえば、松代、松本、上田に次ぐ所領規模であり、坂城町はその本拠地となったのです。
 しかし、翌年5月、重種は隠居し、5万石は2つに分割され、坂木藩は重種の長子重寛により3万石として存続することとなります。
 板倉氏は城の無い坂木の地で前代から使用していた坂木陣屋を政庁として支配を行いますが、20年後の元禄15年(1702)12月、板倉氏は幕府の命で坂木から陸奥国福島(福島県福島市)へと国替えを命じられ、ここに坂木藩の歴史は幕を降ろすこととなります。
 
 以上見てきたように、板倉重種の坂木藩主時代は僅か1年3か月という短い期間であり、40歳そこそこで隠居してしまった背景には大きな理由がありました。
 
 板倉重種は、重昌流二代板倉重矩の三男として寛永18(1641)年に生まれました。旗本の叔父重直の養子となっていた重種は、寛文12(1672)年、兄重良の廃嫡により跡継ぎとなり、翌年5月、父重矩の死により家督を相続し、上野国烏山(栃木県那須烏山市)5万石の藩主となります。
                    
 延宝5(1677)年6月、奏者番兼寺社奉行となった重種は、同8年9月、五代将軍徳川綱吉によって老中へ抜擢され、翌年2月には1万石の加増によって武蔵国岩槻藩へ国替えとなり、同年8月、綱吉の長子徳松付の老中=西丸老中を拝命しました。しかし、西丸老中就任の3ヶ月後、綱吉は重種の老中職を免じ、外出禁止の逼塞処分とします。そして、翌天和2(1682)年2月、重種は1万石を収公(没収)され、信濃国坂木への国替えを命じられ、蟄居(謹慎・外出禁止の処分)の身となります。
                          
 ここに坂木藩5万石が成立し、信濃六郡(埴科・水内・高井・佐久・小県・伊那)を本領として、上総国山辺・市原郡及び三河国幡豆郡の一部をその支配下におきました。
しかし、翌天和3年5月、重種は幕府に隠居を願い出ると、坂木藩5万石は重種の長子重寛に3万石、甥の重宣(兄重良の子)に2万石が分知され、坂木藩は重寛によって継承されます。
                         
 重種が老中を罷免され、「老中の城」として関東の要だった岩槻城主から無城の主へ急転していった理由は、重種の後継を巡る争いが原因でした。重種は、養子としていた甥の重宣ではなく、分家に出していた長男重寛を跡継ぎにしてしまったことから、家中が両派に分かれて争う御家騒動となり、それが原因で将軍綱吉の機嫌を損ね、重種が罷免されたといわれています。
 そのため、重種は自らが隠居して、家中を二分することでなんとか事態の収拾を図り、御家の安泰につなげたものと考えられます。
                   
 こうして、坂木藩は5万石から3万石となって再出発することとなりました。
                 
 (以上は、鉄の展示館 宮下修 学芸員の寄稿です)
                   
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 坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 第10回目 松尾芭蕉

「坂城の100」も第10回目となりました。

今回は大物の登場で、松尾芭蕉です。

芭蕉も坂城に大いに関係があります。

松尾芭蕉は、「更科紀行」にあるように、貞享5(1688)年8月15日に姥捨(現千曲市)に到着し、現坂城でも句を残しました。 更科には三日ほど滞在したようです。

 *更科はかつては更級郡として、明治初期には26村、1町を有する大きな郡でしたが、町村合併の結果、郡は消滅しています。 地域としては長野市の一部、千曲市の一部、坂城町の一部(村上)です。

                         

(以下、 「笈の小文・更科紀行・嵯峨日記」:上野洋三編を参考にさせていただきます)

芭蕉は貞享4年(1687年)10月、江戸を出発して伊賀へ向かいます。

伊賀藤堂藩より 「今明年中に故郷へ帰り、役人共へ つらみせ可仕候」との命が出ていたためです。

藤堂藩は他国に出て生活している領民に対して 「5年目には故郷に戻るよう」 命じていたのです。

この命をうけ、芭蕉は伊賀上野に戻りその帰路、吉野、高野山、紀三井寺、和歌の浦、奈良を経てさらに大阪に入り、兵庫、須磨、明石を訪れています。

さらにその後、京に入り、岐阜、大津にとどまり、瀬田の蛍を見て 「この蛍 田毎の月に くらべみん」 の句を残しています。

この頃すでに、秋の名月を更科の姥捨山で見たいという気持ちが強くなったようです。

「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云ふ。」

 (かの更科の里・姥捨山の名月を見ようということを、しきりに勧める秋風が、心の中に吹き騒いで、私の心を落ち着かさせない。同様に風雅心ゆえに浮かれ立ったのが、もうひとり居て、その名を越人という。)(越人:越智十蔵。尾張の蕉門)

                 

貞享5(1688)年8月15日、芭蕉は、越人ととも姥捨山へ夜分、到着します。

 以下、更科の地に関する句を4句紹介します。

 まずは、越人の句から

 「さらしなや三よさの月見雲もなし」 

 *好天に恵まれて三晩も続けて素晴らしい月を見たようですね

                     

 芭蕉の句

 「俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友」

 *その場には姥はいませんが、姥を捨てた息子の気持ちが察せられるようなすごい感情が感じられますね。

                      

 「いざよいもまださらしなの郡哉」(いざよいも まださらしなの こおりかな)

 *姥捨山で素晴らしい名月を見た後、次の日の十六夜にもまだ去り難い思いで更科にとどまっていて、名残惜しさが強烈ですね

「十六夜もまだ更科の郡かな」の句碑。

坂城町網掛の 十六夜観月殿 脇

「十六夜」の裏面

桃青(芭蕉の号)霊神

十六夜観月殿

                

                      

 「身にしみて 大根からし 秋の風」

 *坂城特産の「ねずみ大根(辛味大根)」を芭蕉が句に詠んでいるのがすごいですね。はたして、おしぼりうどん、あるいは蕎麦として食べたのか、大根をそのまま切り身で食べたのか不明ですが、姥捨を訪れた後、秋風の中いろいろ見にしむものがあったのだと思います。

坂城のねずみ大根(辛味大根)

おしぼりうどん

「おしぼりうどん」

  坂城町振興公社ホームページより                      

 

国宝・重要文化財(美術品)「更科紀行」
沖森本:芭蕉紀行文の現存唯一の草稿本
(文化遺産オンラインより)
                   

   

                                  

 坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 9人目は 村上(源)為国

 先日、「坂城の100人」の一番目で源盛清について記述しました。
 久しぶりに昔に戻り、盛清の養子の為国について記述します。
 源為国は初めて村上姓を名乗り、信濃村上氏の始めと言われています。
さて、源為国についても、単に盛清の養子となって信濃村上の地で安穏に生活をしていたわけではありません。
崇徳院に従っていたということから、保元の乱では崇徳院側につくことになり、保元元年(1156年)7月10日には、崇徳上皇・藤原頼長とともに白河北殿に参集することになります。
                     
                      
戦後処理では、その当時禁じられていた斬首の刑が復活され、ことごとくの崇徳院側の貴族、武士が斬首または島流しとなり、崇徳上皇も讃岐に流罪となりました。
                        
あまたの崇徳院側貴族や武将が厳しい処罰を受けた中で村上の親子だけが処分を免れたことについては、源為国が信西の娘と結婚していたことが挙げられますが、それだけでしょうか。 もっと強い理由があったような気がします。
                          

左:信西役の阿部サダオさ
右:平清盛役の松山ケンイチさん
信西は大変な子宝に恵まれ計25人の子供がいました。
*ウィキペディアによる
                        
子供の内訳は、男子が18名、女子が7名だそうです。
                        
信西は大変学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られており、その子のほとんどが貴族、学者となり娘も同系の家に嫁いでいますがその中で唯一、末娘が武士である源為国に嫁いでいます。
                      
源為国は保元の乱ではやむなく崇徳院側に付き信西と対峙することになりますが、一説には参陣したが、ほとんど戦うことなく過ごしたようで、格別の戦はしていなかったようであります。
                           
これからはとんでもない推察かも知れませんが、もしかすると、信西と示し合せ敵側に入ったのでないかと考えられないでしょうか。
                    
それでなくては、大方の敵将がことごとく斬首される中で信西の婿であったという理由だけで、親子でお咎めなしというのはむしろおかしいのではないかと考えますがいかがでしょう。
 また、朝廷内において、為国の養父の盛清の存在も少しは影響しているのではないかと思うのも考えすぎでしょうか。(多分、その頃、生存していても70過ぎと思われますが)
                             
源盛清にしても、源為国にしても不思議な歴史の舞台回しの上に乗り、坂城の村上氏が始まり、信濃村上氏の勢力拡張の基を築いたのです。
                       
 坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 8人目は 万力和蔵 です

「坂城の100人」 8人目は鼠宿出身の力士  万力和蔵 です。

 
 力士 万力和蔵(中村和蔵)
 1823(文政6)~1858(安政5)年
 
 江戸時代の信州の力士というと、東御市(旧東部町)出身の雷電為右衛門を思い出しますが、鼠宿出身で、江戸後期、十両まで昇進した力士、万力和蔵がいます。
 
 和蔵は鼠宿中村与七の次男として生まれ、小さい時から大力の持ち主で、21歳の時に志を立てて江戸に上り、行司の木村庄之助の門下に入り、相撲道に励みました。
 弘化2年(1845年)の11月場所で 「矢車和介」 として初土俵を踏み、安政3年(1856年)の11月場所で十両格に昇進し、番付は西幕下5枚目になりました。
                        
 矢車和介に始まった四股名は、その後、矢車和蔵、東車和蔵、幕下となった嘉永3年に(1850年)に八十島和蔵と改め、安政3年から 「万力和蔵」 と改名しています。
                 
 安政3年(1856年)十両に昇進後、同5年(1858年)には松代藩のお抱え力士となりました。
 しかし、十両格になってからは体調不良により成績は振るわず、十両格での出場は3場所だけとなりました。 (残念ながら1勝もできぬまま急逝してしまう。)
 この間、和蔵は故郷に錦を飾り、嘉永7年(1854年)に産土神(うぶすながみ)の会地早雄神社(おおち はやお じんじゃ)に江戸大相撲を奉納しましたが、その後、36歳の若さで急逝しました。
                       
 以下は万力和蔵が八十島を名乗っていた頃に木村庄之助より相撲免許を得て会地早雄神社で江戸大相撲奉納を許された時の文書です。
 
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  奉献証状之事
             
     信濃国埴科郡鼠宿村・新地村産神
                  
会地早雄神社
                     
  此度八十島和蔵心願ニ付御取次太鼓櫓奉納仕候
  依之神事祭礼之砌幾久敷可被相用候 依而如件
               
       嘉永七年寅年七月
      
  本朝相撲司御行司             
    吉田豊後守追風      二十一代    
           
  従二位左中将殿家                
    木村若狭守正規      十三代   
 
  五篠殿家 日本角力行司目付   
               木村庄之助
 
                    正輝花押
 
         赤池勧解由介殿
 
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会地早雄神社(おおぢはやおじんじゃ)
                 
 
 
                 
 
万力和蔵の墓 南条鼡
 
万力和蔵の墓の裏面
万延元年8月(1860年)とあります
                   
 
 
  
万力和蔵の肖像(芳春画)
(写真:山崎仁さん提供)
                    
                
 
八十島(万力)和蔵の略歴(久保草賢書)
(写真:山崎仁さん提供)
                  
                     
                 
 ちなみに、昨年、第34代木村庄之助さん(在位2007年5月〜2008年4月)が坂城にお出でになりましたが、三井袈裟喜さん経由でこの色紙をいただきました。
                    
 
    第34代木村庄之助さんの書
         「力心一途」
 
                       
                   
 力強くて、力まず、素直な、素晴らしい書ですね。
                        
                       
 尚、現役の坂城町出身のお相撲さんは三段目西46枚目の旭鵬山(本名:山崎英旗)です。 こちらの踏ん張りにも期待します。
                
                     
向こう側:旭鵬山 昨年の金井地区相撲大会での見本相撲
                                              
 
                       
 以上、参考資料:「ふるさと探訪」(坂城町教育委員会)
        「北国往還ねずみ宿」(山崎仁編) 他
                 
                   
 *会地早雄神社の近くの墓地を見ていたら「力士目代 小車幸太郎碑」と書いてありました。 裏面には 松代真田領 とありました。
              
  山崎仁さんのお話では、当時の地元相撲愛好家の小山さんの碑とのことです。
  とにかく、相撲の盛んな土地柄ですね。
               
 
                        
                     
                             
                     
 坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」第7回は昭和橋を設計した中島武さんです。

「坂城の百人」 第7回目は、中島武氏です。            

 中島氏は坂城町生まれの方ではありませんが、もはや歴史的遺産といえる、昭和橋の設計者です。
 坂城町には159の橋がありますがその中でも 「土木遺産」 に認定された特別な橋です。
 坂城町では来年度より橋梁の補強工事を計画的に実施してまいりますがその中でもこの昭和橋の長寿命化は大切な事業だと考えております。
                           
 以下、この昭和橋ならびに設計をされた中島武さんについて、坂城町で2005年に編纂した 「ふるさと探訪」 から元教育長の大橋幸文さんの文章をお借りし記述させていただきます。
                        
 昭和橋を設計していただいた、中島武さんと昭和橋の物語です。
                       
土木遺産としての認定書
                      
昭和橋に架けられている認定盤
                    
                      
昭和橋近影        
   
昭和橋と自在山      
                     
                             
以前ご紹介した牧忠男さんの水墨画による「昭和橋」
                   
(牧忠男さんの昭和橋研究は以下のサイト)
                            
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(「ふるさと探訪」 2005年 より)
            
・鉄筋コンクリートローゼ橋の生い立ち
                       
 鉄筋コンクリートのローゼ橋は、戦争のため鋼材が不足したとき、昭和8年(1933年)から、長野県の道路技師を務めた中島武技師が設計した世界初の技術です。
 長野県内では、戦前に6橋10連、戦後昭和44年(1969年)までに28橋67連が建造されました。
 美しい放射線を描くアーチが特徴で、印象的な景観をつくっています。
 鋼材が自由に手に入るようになってからは、コンクリートローゼ橋の時代は終え、鋼橋となっています。
・中島武道路技師のこと
                     
 昭和8年(1933年)から昭和12年(1937年)までの4年間、長野県道路技師・土木技師を務めた中島武は、明治39年(1906年)札幌市に生まれました。
 昭和6年(1931年)北海道大学工学部土木工学科を卒業しました。
 卒業後、茨城県道路技手、岐阜県道路技手を経て、弱冠27歳で、長野県道路技師・土木技師となり、その時に鉄筋コンクリートローゼ橋を設計したのです。
 その後、国の内務省土木局に務め、戦後は建設省中部建設局長、関東建設局長などを経て、首都高速道路公団理事となり、昭和38年(1963年)に退職しました。
 昭和55年に亡くなられています。道路事業一筋に歩まれた生涯でありました。
・昭和橋の歴史
                     
 坂城と村上を結ぶ交通は、昭和3年(1928年)まで渡し船(渡船)でありました。船着き場までの道も、畦道程度のものでした。
 橋を架けたいという住民の願いは、年を追って高まり、たまたま上五明経営の渡し船が傷んで新調が迫られたのを契機に、昭和2年に坂城町と村上村両町村で更埴南道路組合を設立しました。組合は、翌年3年に木橋(板橋)を架け「昭和橋」と名付けました。
 昭和橋は、馬車も通れましたが、板橋のガタガタ橋で、下駄の歯が板の隙間に挟まるので、下駄を脱いで渡った人もいたということです。
 年々この道路の利用者が増大し、昭和10年(1935年)には室賀村(現上田市室賀)が加わり、坂城・室賀道路組合となり、永久橋架橋の計画が立てられました。しかし、町村道であるため、三か町村では永久橋にする経費が捻出できず、県の補助をあおぎました。
 少しでも多くの補助を受けるために、交通量の調査には、籾がらを俵やかますに詰めたり、子どもまで炭俵に入れて、荷車やリヤカーで何回も坂城駅まで運んだと、昨年亡くなられた田島清蔵元老人クラブ会長も炭俵に入れられて運ばれた経験を語っていました。
 昭和12年(1937年)、ようやく県の補助を得て、坂城側から3連を鉄筋コンクリートローゼ橋とし、その先を木橋として架設されました。
 しかし、木橋部は洪水のたびに流出したので全部を永久橋にしたいという住民の要望は年々高まりました。昭和22年(1947年)この路線が県道に編入され、県道上室賀坂城停車場線となり、昭和橋の維持管理も坂城・室賀道路組合から県に移管されました。
 昭和24年(1949年)のキティ台風で木橋部が流出した時は、上流の鼠橋も下流の笄橋も流出し、村上と坂城間の交通は上田橋を渡らなければなりませんでした。
 翌25年、既設の鉄筋コンクリートローゼ橋と同様のローゼ橋が災害復旧工事として着工され、27年(1952年)6連のローゼ橋が竣工し、現在の9連のローゼ橋となりました。この竣工を伝える「坂城町公民館報」には、「流れては直し、直しては流れと賽の河原を繰り返し今日に至った。故人となられた人々を始め先輩の努力が漸く実を結んだもので、感謝に堪えないところである」と記されています。
 しかし、9連の永久橋は完成しましたが、西端120m は架橋されず河川敷から斜めに木橋をかけて上り下りしました。ここに鋼橋の2連が架橋されたのは昭和39年(1964年)でありました。この鋼橋は国道19号線の改良工事によって生坂村で不要となった犀川の橋梁です。
 こうして全長460mの昭和橋が永久橋となったのは、最初の工事が始められて27年、県道になってから17年の年月を要しました。
 車時代になると昭和橋は交通のネックとなり、新たな橋が求められました。昭和62年(1987年)、坂城大橋が竣工しました。坂城大橋が、県道上室賀~坂城停車場線となり、今まで県道であった昭和橋ルートは再び町道に移管されました。
                                
(以上、「ふるさと探訪」 (2005年) より、元教育長 大橋幸文さんの文章から)
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 坂城町長 山村ひろし
 

「坂城の100人」第6回は 福沢諭吉です !

「坂城の100人」に福沢諭吉が登場とは、びっくりされる方が多いかもしれませんが、以前にも書いたように福沢諭吉は坂城に大いに関係があり、彼の祖先の地なのです。

ファイル:Yukichi Fukuzawa Berlin2.jpg

文久2年(1862)幕府使節として、ヨーロッパ歴訪の際ベルリンにて。原典:福沢研究センター

坂城町は戦国武将村上義清の地として有名ですが、最近の調査で福沢氏は、この村上氏から分派したのではないかという説が有力になっています。
 福沢諭吉の先祖がいつの時代に大分の中津に移ったかは諸説があり不明ですが、福沢氏そのものが村上氏の分流であり、福沢氏の故地が坂城であったということなのです。
まず、歴史的経緯を述べると、信濃村上氏の祖とされてきた「源盛清」は、寛治八年(1094年)の白河上皇呪詛事件により信濃国村上郷(坂城町)へ配流後、再び京へ戻り、康和5年(1103年)には後の鳥羽天皇となる第一皇子(宗仁)の宣旨で宗仁親王の庁を取り締まる「御監」の役を仰せつかっています。(第一回で記述した「源盛清」をご覧ください。)
(源盛清について。 以下をご参照下さい。)
平成25年 新年のご挨拶
この盛清の一族は、村上郷を本貫地として信濃村上氏の祖となり、中世には信濃国内で最も大きな勢力を有することとなりました。
村上氏は多くの一族を信濃国内に分派していますが、その中に15世紀から16世紀にかけて、村上氏の所領である広大な「塩田庄」(上田市)を支配した「福沢氏」がいました。
福沢氏は、村上郷の福沢を発祥とし、塩田庄の代官として、その力は信濃でも有数でした。
中世信濃の福沢氏といえば村上一族の福沢氏であることは明白です。(『諏訪御符礼之古書』や『蓮華定院文書』などの資料より)
この後、福沢氏は天文22年(1553年)8月の武田信玄の塩田城侵攻により敗れ、翌年3月にその健在が確認できるものの、それ以降、歴史上から消えてしまいます。
福沢諭吉は、自分の祖先について 「福沢氏の先祖は信州福沢の人なり」 と記しています。
その根拠は、福沢諭吉の父 「百助」 が纏めた「福澤家系図」に拠っています。
そして、この福澤家系図では、更に福沢氏は「小笠原氏」に仕えていたとも記しています。
小笠原氏は、中世、信濃守護職を代々勤めた名家で、武田信玄に信濃を追われた後、徳川家康に仕えたことで、再び信州の松本や飯田に本拠を置くこととなりました。
つまり、福沢氏は塩田城の敗戦後、その消息を絶つなかで、一族の何れかの人物が、信濃国内で領主となった小笠原氏に仕えることとなり、その後、小笠原氏が幾つかの転封を経て、豊前中津に国替えになったことにより、福沢氏も中津へ移ってきたものと推測出来るわけです。
信州には福沢の地名が村上地区を含め長野県内で11ヶ所存在し、全国を見渡せば13県18か所に及んでます。
?
以上のように仮説ではありますが話を結びつけることで、最終的に福沢諭吉の先祖は中世、村上郷福沢に発祥し、塩田庄を支配していた村上氏一族の福沢氏に求めることが最も自然なのではないかと考えられるわけです。
慶應義塾福澤研究センターにも問い合わせを行なったところでありますが、本事実が確認されれば長野県坂城町は福沢諭吉の祖先発祥の地となり福沢諭吉研究のあらたな一歩となることが期待されるところです。
ほぼ同文の内容で、公益社団法人日本工学教育協会誌にも掲載されました。
 「工学教育」2012-11 vol.60 no.6? 231頁
坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」第5回は人間国宝 宮入行平さん

 「坂城の100人」 第5回は長野県出身ただ一人の人間国宝 宮入行平です。
                          
 (今回の文章は、坂城町 「鉄の展示館」 宮下学芸員の資料を基にしています。)
                                 
 
宮入行平1913(大正2)年~1977(昭和52)年
                    
宮入行平は、大正2年(1913)、坂城の鍛冶屋の家に生まれました(本名は堅一、60歳まで昭平を名乗り、昭和48年(1973)、行平に改銘)。
                       
小さい頃から毎日、鎚(つち)の響きや鞴(ふいご)の音を聞きながら育ち、小学校を卒業した頃から父親について鍛冶の仕事をするようになりました。
行平の作った農具や刃物は、父親よりも上手いと言われるほど好評でしたが、本人はそれらの作品を作ることに興味はなく、徐々に刀づくりに惹かれていきました。
 
そして 「東京に出て刀鍛冶の修行を」 という思いを強くし、願いが叶い24歳で上京し、栗原彦三郎が主宰する日本刀鍛錬伝習所に入門して、刀づくりの修行を始めました。
そして精魂込めて一人前の刀鍛冶になろうと懸命の努力を行いました。
しかし、戦争が激しさを増し、東京では刀づくりも難しくなったため、32歳の年に郷里の坂城町に戻ることになります。
                     
その後も、全生涯絶え間ない作刀の研究と鍛刀に情熱を燃やし続け、64歳で亡くなるまで数々の名刀を世に残しました。
行平は25歳で第三回新作刀展覧会に初入選して以来、数々の賞を授かっています。
また、靖国神社など、御神刀謹作も数多く、49歳で坂城町名誉町民第一号に選ばれました。
そして50歳の時、国の重要無形文化財日本刀の部保持者、いわゆる人間国宝の認定を受け、文字通り日本一の刀鍛冶になりました。
坂城町では、人間国宝故宮入行平刀匠の功績を顕彰するとともに、町の工業発展に大きく寄与した鉄の素材、加工技術の変遷など鉄に思いを馳せて、鉄の展示館を開設いたしました。
(鉄の展示館)
                    
今では、行平の志を受け継いだ多くの弟子たちが「宮入一門」として結集し、研究と鍛刀に情熱を傾けています。                       
                       
行平の直系の継承者は勿論、長男の宮入恵さんで、父、行平の伝統を受け継いでおります。
                  
宮入恵さん(小左衛門行平)~NHK長野放送局から~                   
                 
(以前の私のブログから                
                 
坂城町としては今後とも宮入恵さんを中心にして刀剣伝統文化の継承をサポートしてまいります。
                                               
なお、「鉄の展示館」では、本年、人間国宝宮入行平が生誕100年を迎えることから、特別展示展を開催予定です。 ご期待ください。
                         
                                        
                       

                    

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 第4回目は 薄雲 太夫です。

「坂城の100人」 第4回目は 薄雲太夫です。

薄雲太夫 (源氏物語の「薄雲」ではありません)、 信州埴科郡鼠宿の玉井清左衛門の娘(玉井てる)は、元禄年間(1688~1704)の太夫として有名を馳せた江戸新吉原京町一丁目の三浦屋の遊女で、同時代の高尾と並び名妓と称された人です。

 坂城出身のこのような有名な遊女がいたことに驚きですね。

 まだまだ不明な点が多く、識者の皆様方のご意見を賜れば幸いです。         

月岡芳年(明治8年)

                         

 とにかく、有名な遊女であり、可愛がっていた猫(玉)とともに多くの逸話が残っています。

 また、当時の吉原では同じ源氏名を何代にもわたって使っていたわけですが、別の遊女で江戸前期の、初代といわれている薄雲がいます。(但し、初代薄雲ではなく、高尾太夫であったとの説が有力。)

                       

 初代薄雲(高尾太夫) : 吉原京町1丁目信濃屋藤左衛門の抱えで、和歌をよくし、書に堪能俳諧に名あり、義侠心に富み、金銀にものいわせる客には目もくれなかったと言われた薄雲(高尾)がいます。

 この薄雲(高尾)は万治年間(165861)、仙台藩主第三代伊達綱宗の愛するところとなりますが、鳥取藩士島田重三郎に操を捧げて、半年におよぶも伊達綱宗には肌を許さず、3000両で身請けされたのちも意に従わず、ために一室に幽閉され,10日に10指を断ち落とす」と脅迫されても、なおかたくなに拒み、ついに殺されてしまったということです。

       

道哲和尚、高尾太夫の墓 

正面屋根の下にあるのが高尾大夫の墓で、向かって左手の座像が高尾の回向をした道哲和尚の墓です。右手の標柱には「二代目萬治高尾 轉譽(転誉)妙身信女」と刻まれています。(西方寺ブログより)         

 

                   

薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)

                   

 一方、坂城町出身の薄雲は猫が好きで、この溺愛していた猫(玉)が、命を賭して大蛇から主人薄雲を守ったという報恩談が残っていて、この逸話から招き猫が始まったとする説があります。

 (薄雲の愛猫、玉がいつでも薄雲に付いて来る。 厠へも一緒に入りたがることがあり、あまりにもしつこく、猫が薄雲に憑いたのではないかと思った三浦屋のものが、玉の首を切り落としてしまった。 ところが、切り離された首が厠の中へ飛んでいき、中に潜んでいた蛇の頭に噛みついた。 つまり玉は厠へ潜んでいた蛇から薄雲を守ろうとしていたということであった。 これを不憫に思った薄雲は玉を丁重に葬り、京都から伽羅(きゃら)の香木を取り寄せ、玉の像を作らせた。 これが招き猫の元となったという説である。)

 榎本其角の句に「京町の猫通ひけり揚屋町」があるほか、岡本綺堂の半七捕物帳に 「薄雲の碁盤」 という小説があり、薄雲と猫(玉)に関わる逸話が書かれています。

* インターネットの図書館、青空文庫より(以下のサイトで全文が参照できます)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1022_15044.html

                               

 薄雲と猫に関しては他にも多くの逸話、物語があります。 

 ・近世江都著聞集(きんせいえどちょもんしゅう)から「三浦遊女薄雲が伝 」

 ・烟花清談から「三浦や薄雲(あいしねこ)(わさはひ)のかれし事 」 など

                    

歌川広重 この猫の主人が薄雲のようです

                 

 坂城出身の薄雲は源六という人物に身請けをされるのですが、その証文が残っています。 以下、その現代語訳です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  元禄13年(1700年)の薄雲身請の証文

「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」

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なかなか、殊勝な証文です。

ただし、薄雲が350両という大金で身請けされた後、幸せな生涯を送ったのかどうかは不明です。

                              

 しかし、薄雲の死後、形見(実際には高尾太夫から受け継いだもの)といわれる打掛(裲襠 (りょうとう))が坂城の耕雲寺さんに収められ、それが現在では卓敷きに改められて、保管されているとのことです。(耕雲寺寺宝)

 私は現物は拝見しておりませんが、中嶋登 町会議員さんから写真を提供していただきました。

       寳物 高尾圓盡卓袱    

                                              

 また、浮雲の和歌が絵馬として上田市別所観音堂に額面となって残っています。

 歌:しき妙の枕に残るうつり香を我身にしみてひとりかもねん

                       

 薄雲についてはまだまだ不明の点が多く、あとで補足をしたいと思いますが、今回は坂城鼠宿出身の有名な薄雲太夫がいたということをお伝えします。

以上、 「鼠」 出身で 「猫」 を愛した薄雲太夫のお話でした。

 皆様からご意見をいただきたく。

                  

*過去の「坂城の100人」をご覧になる場合は、画面右上の「記事から検索」に 坂城の100人 とインプットして検索をしていただくとすべての記述が出てきます。

         

                           

 坂城町長 山村ひろし