「坂城の100」も第10回目となりました。
今回は大物の登場で、松尾芭蕉です。
芭蕉も坂城に大いに関係があります。
松尾芭蕉は、「更科紀行」にあるように、貞享5(1688)年8月15日に姥捨(現千曲市)に到着し、現坂城でも句を残しました。 更科には三日ほど滞在したようです。
*更科はかつては更級郡として、明治初期には26村、1町を有する大きな郡でしたが、町村合併の結果、郡は消滅しています。 地域としては長野市の一部、千曲市の一部、坂城町の一部(村上)です。
(以下、 「笈の小文・更科紀行・嵯峨日記」:上野洋三編を参考にさせていただきます)
芭蕉は貞享4年(1687年)10月、江戸を出発して伊賀へ向かいます。
伊賀藤堂藩より 「今明年中に故郷へ帰り、役人共へ つらみせ可仕候」との命が出ていたためです。
藤堂藩は他国に出て生活している領民に対して 「5年目には故郷に戻るよう」 命じていたのです。
この命をうけ、芭蕉は伊賀上野に戻りその帰路、吉野、高野山、紀三井寺、和歌の浦、奈良を経てさらに大阪に入り、兵庫、須磨、明石を訪れています。
さらにその後、京に入り、岐阜、大津にとどまり、瀬田の蛍を見て 「この蛍 田毎の月に くらべみん」 の句を残しています。
この頃すでに、秋の名月を更科の姥捨山で見たいという気持ちが強くなったようです。
「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云ふ。」
(かの更科の里・姥捨山の名月を見ようということを、しきりに勧める秋風が、心の中に吹き騒いで、私の心を落ち着かさせない。同様に風雅心ゆえに浮かれ立ったのが、もうひとり居て、その名を越人という。)(越人:越智十蔵。尾張の蕉門)
貞享5(1688)年8月15日、芭蕉は、越人ととも姥捨山へ夜分、到着します。
以下、更科の地に関する句を4句紹介します。
まずは、越人の句から
「さらしなや三よさの月見雲もなし」
*好天に恵まれて三晩も続けて素晴らしい月を見たようですね
芭蕉の句
「俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友」
*その場には姥はいませんが、姥を捨てた息子の気持ちが察せられるようなすごい感情が感じられますね。
「いざよいもまださらしなの郡哉」(いざよいも まださらしなの こおりかな)
*姥捨山で素晴らしい名月を見た後、次の日の十六夜にもまだ去り難い思いで更科にとどまっていて、名残惜しさが強烈ですね
「十六夜もまだ更科の郡かな」の句碑。
坂城町網掛の 十六夜観月殿 脇
「十六夜」の裏面
桃青(芭蕉の号)霊神
十六夜観月殿
「身にしみて 大根からし 秋の風」
*坂城特産の「ねずみ大根(辛味大根)」を芭蕉が句に詠んでいるのがすごいですね。はたして、おしぼりうどん、あるいは蕎麦として食べたのか、大根をそのまま切り身で食べたのか不明ですが、姥捨を訪れた後、秋風の中いろいろ見にしむものがあったのだと思います。
坂城のねずみ大根(辛味大根)
「おしぼりうどん」
坂城町振興公社ホームページより
坂城町長 山村ひろし