先日、「坂城の100人」の一番目で源盛清について記述しました。
久しぶりに昔に戻り、盛清の養子の為国について記述します。
源為国は初めて村上姓を名乗り、信濃村上氏の始めと言われています。
養父の源盛清は嘉保元年(1094年)の白河院呪詛事件に連座し信濃国へ配流された後、6年後に許され、康和5年(1103年)には後の鳥羽天皇となる第一皇子(宗仁)の宣旨で宗仁親王の庁を取り締まる「御監」の役を仰せつかり、さらには永久2年(1114年)に山城守にも任命され『金葉和歌集』にも和歌がとりあげられるなど大変な活躍をしております。
私はこれには白河上皇との強い絆があったのではないかと述べました。
さて、源為国についても、単に盛清の養子となって信濃村上の地で安穏に生活をしていたわけではありません。
崇徳院に従っていたということから、保元の乱では崇徳院側につくことになり、保元元年(1156年)7月10日には、崇徳上皇・藤原頼長とともに白河北殿に参集することになります。
このとき、白河北殿には藤原頼長に続き、藤原教長、藤原盛憲・経憲の兄弟など主な貴族17名、武士では平家弘・源為国(息子の源信国、源基国)、源為義、平忠正(清盛の叔父)・源頼憲など30名が揃い、「軍、雲霞の如し」(『兵範記』7月10日条)というほど軍兵で埋め尽くされた。
戦後処理では、その当時禁じられていた斬首の刑が復活され、ことごとくの崇徳院側の貴族、武士が斬首または島流しとなり、崇徳上皇も讃岐に流罪となりました。
この中で、唯一、罪を許されたのが源為国、源信国、源基国の親子でありました。(敗北後の罪名宣下にその名がなく処罰を免れたものと考えられている。『兵範記』(平信範の日記)同年7月10日条、同27日条より)。
あまたの崇徳院側の貴族や武将が厳しい処罰を受けた中で村上の親子だけが処分を免れたことについては、源為国が信西の娘と結婚していたことが挙げられますが、それだけでしょうか。 もっと強い理由があったような気がします。
*信西は藤原通憲(ふじわらのみちのり)、または高階通憲(たかしな–)といい、藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子、正五位下、少納言で平清盛とともに新たな時代つくりを行おうとした。テレビの平家物語では阿部サダオさんが演じていました。平清盛は松山ケンイチさんでした。
左:信西役の阿部サダオさ
右:平清盛役の松山ケンイチさん
信西は大変な子宝に恵まれ計25人の子供がいました。
*ウィキペディアによる
子供の内訳は、男子が18名、女子が7名だそうです。
信西は大変学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られており、その子のほとんどが貴族、学者となり娘も同系の家に嫁いでいますがその中で唯一、末娘が武士である源為国に嫁いでいます。
源為国は保元の乱ではやむなく崇徳院側に付き信西と対峙することになりますが、一説には参陣したが、ほとんど戦うことなく過ごしたようで、格別の戦はしていなかったようであります。
これからはとんでもない推察かも知れませんが、もしかすると、信西と示し合せ敵側に入ったのでないかと考えられないでしょうか。
それでなくては、大方の敵将がことごとく斬首される中で信西の婿であったという理由だけで、親子でお咎めなしというのはむしろおかしいのではないかと考えますがいかがでしょう。
また、朝廷内において、為国の養父の盛清の存在も少しは影響しているのではないかと思うのも考えすぎでしょうか。(多分、その頃、生存していても70過ぎと思われますが)
源盛清にしても、源為国にしても不思議な歴史の舞台回しの上に乗り、坂城の村上氏が始まり、信濃村上氏の勢力拡張の基を築いたのです。
坂城町長 山村ひろし