「坂城の100人」に福沢諭吉が登場とは、びっくりされる方が多いかもしれませんが、以前にも書いたように福沢諭吉は坂城に大いに関係があり、彼の祖先の地なのです。
文久2年(1862)幕府使節として、ヨーロッパ歴訪の際ベルリンにて。原典:福沢研究センター
坂城町は戦国武将村上義清の地として有名ですが、最近の調査で福沢氏は、この村上氏から分派したのではないかという説が有力になっています。
福沢諭吉の先祖がいつの時代に大分の中津に移ったかは諸説があり不明ですが、福沢氏そのものが村上氏の分流であり、福沢氏の故地が坂城であったということなのです。
まず、歴史的経緯を述べると、信濃村上氏の祖とされてきた「源盛清」は、寛治八年(1094年)の白河上皇呪詛事件により信濃国村上郷(坂城町)へ配流後、再び京へ戻り、康和5年(1103年)には後の鳥羽天皇となる第一皇子(宗仁)の宣旨で宗仁親王の庁を取り締まる「御監」の役を仰せつかっています。(第一回で記述した「源盛清」をご覧ください。)
(源盛清について。 以下をご参照下さい。)
平成25年 新年のご挨拶
平成25年 新年のご挨拶
この盛清の一族は、村上郷を本貫地として信濃村上氏の祖となり、中世には信濃国内で最も大きな勢力を有することとなりました。
村上氏は多くの一族を信濃国内に分派していますが、その中に15世紀から16世紀にかけて、村上氏の所領である広大な「塩田庄」(上田市)を支配した「福沢氏」がいました。
福沢氏は、村上郷の福沢を発祥とし、塩田庄の代官として、その力は信濃でも有数でした。
中世信濃の福沢氏といえば村上一族の福沢氏であることは明白です。(『諏訪御符礼之古書』や『蓮華定院文書』などの資料より)
この後、福沢氏は天文22年(1553年)8月の武田信玄の塩田城侵攻により敗れ、翌年3月にその健在が確認できるものの、それ以降、歴史上から消えてしまいます。
福沢諭吉は、自分の祖先について 「福沢氏の先祖は信州福沢の人なり」 と記しています。
その根拠は、福沢諭吉の父 「百助」 が纏めた「福澤家系図」に拠っています。
そして、この福澤家系図では、更に福沢氏は「小笠原氏」に仕えていたとも記しています。
小笠原氏は、中世、信濃守護職を代々勤めた名家で、武田信玄に信濃を追われた後、徳川家康に仕えたことで、再び信州の松本や飯田に本拠を置くこととなりました。
つまり、福沢氏は塩田城の敗戦後、その消息を絶つなかで、一族の何れかの人物が、信濃国内で領主となった小笠原氏に仕えることとなり、その後、小笠原氏が幾つかの転封を経て、豊前中津に国替えになったことにより、福沢氏も中津へ移ってきたものと推測出来るわけです。
信州には福沢の地名が村上地区を含め長野県内で11ヶ所存在し、全国を見渡せば13県18か所に及んでます。
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以上のように仮説ではありますが話を結びつけることで、最終的に福沢諭吉の先祖は中世、村上郷福沢に発祥し、塩田庄を支配していた村上氏一族の福沢氏に求めることが最も自然なのではないかと考えられるわけです。
慶應義塾福澤研究センターにも問い合わせを行なったところでありますが、本事実が確認されれば長野県坂城町は福沢諭吉の祖先発祥の地となり福沢諭吉研究のあらたな一歩となることが期待されるところです。
ほぼ同文の内容で、公益社団法人日本工学教育協会誌にも掲載されました。
「工学教育」2012-11 vol.60 no.6? 231頁
坂城町長 山村ひろし
村上義清の正妻は小笠原家から嫁いでいます。天文22年4月9日以降に福沢は小笠原家に再仕官したのでしょう。小笠原家はその後岡山に移封されその後享保時代に中津に移封されていますから一緒について行ったのでしょう。中津藩は小笠原家はその後変わっていますが、福沢家はそのまま仕官していたと考えられます。当時の幹線である室賀峠の関所のようなところに福沢屋敷跡があります。