坂城の100人、21回目は小網地区で新田等の開発を行なった吾妻銀右衛門です。
(本稿は、文化財センター学芸員の時延武史さんに纏めてもらいました)
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吾妻銀右衛門 享保7年(1722)頃~寛政7年(1795)頃
初代銀右衛門は、鼠宿村の吾妻彦右衛門の子として生まれました。吾妻家は有力な百姓で、村役人も勤めていました。
安永3年(1774)から、鼠宿村の忠左衛門・孫右衛門・又右衛門と協力して小網で新田開発を始めました。開発を行ったのは、今の小網公民館の西側に広がる谷地(小網沢)で、山神・藤之木・柳沢・菖蒲沢・小平・木戸口・舟久保・鍛冶山・五林原・西山の10か所です。
小網沢地区
地形を見ても分かるとおり、「新田開発」とは言いながらも、水田に適した場所ではなく、実際は畑地の開発でした。その上、傾斜の急な斜面地であったため、植え付けた作物が大雨で度々流されてしまいました。そこで思案の末、北上州(群馬県)から「広葉ワセ」という品種の桑苗を取り寄せて植え付けたとのことです。この桑が開墾地と相性が良く、根も強くはり、耕作地が雨に流されることも無くなりました。この事に力を得た銀右衛門達は養蚕業に精を出し、さらには蚕種業まで手掛けるようになり、相当の利益をあげるようになりました。新田開発の成功した村では凶作の困難も租税滞納も無く、開発に係る借金も返済し、非常に安定したそうです。
開発当初、初代銀右衛門は鼠宿村から千曲川を渡って小網沢まで通っていましたが、天明2年(1782)頃に開発地内の舟久保に移転しました。現在、杉林の中に残る石垣が屋敷跡です。最大で5m程の高さがあります。隅角部分は、長方形に加工した石材を短辺と長辺を交互に積み上げていく「算木積み」という技法が用いられています。これは城郭の石垣に多くみられる技法で、経験を積んだ石工がたずさわっていたことがうかがわれます。当地がかつて松代藩領であったことから、松代周辺から職人がやってきたのでしょう。
昭和20年代の写真、中央下に大きな石垣
かつての入口(石門)
石垣を下から見た状況
屋敷跡から北へ50mほどの所に銀右衛門の墓があり、自然林に返りつつある、かつての開墾地を静かに見つめています。
銀右衛門の墓
初代銀右衛門による新田開発が軌道に乗るまでは大変な苦労があったのでしょうが、水田を開発するより、桑畑を開いて養蚕を行う方が、はるかに富を生み出すことができると確信していたからこそ、農業には不向きな小網沢(実際に、現在では耕作されていません)にあえて挑戦したものと思われます。
現在を生きる我々の豊かな生活の礎として、吾妻銀右衛門の新しい産業を切り開く先見の明と、血の滲むような努力があった事を忘れないでいたいものです。
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坂城町長 山村ひろし