坂城の100人 第36回目は村上頼時

 坂城の100人、第36回は村上頼時です。

 前回、登場した村上経業(つねなり)の子息です。

 今回も鎌倉と信州村上家のつながりについて新たな知見をもとに鉄の展示館宮下学芸員に寄稿していただきました。

 村上氏と鎌倉幕府ならびに北条氏との関わりについては、これからもっと研究しなくてはならないテーマだと思っております。

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源実朝、藤原定家とゆかりある「村上頼時」>

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前々回から平安末~鎌倉時代の村上氏を紹介してきましたが、今回は前回紹介した村上経業の子村上頼時を紹介します。

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鎌倉時代、村上氏は2つの系統が存在し、その一つが頼時の父から始まる経業系(右馬助系)でした。頼時の歴史的初見は、父と共に頼朝の勝長寿院供養に供奉した文治元年(118510月からです。以後、鎌倉御家人として父や伯父(基国)と共に活動した記録が見られます。>

ところが、建久9年(1198)以降になると、頼時は京都においてその動き確認できます。村上氏は院政期から京武者として京都に基盤を持っていましたが、頼時は少なくとも建久9年から承元元年(1208)にかけて京都の治安維持と民政を所管する「検非違使」を勤めていました。>

鎌倉では六位相当の「左衛門尉」であった頼時は、検非違使になると五位相当の「大夫尉」、そして従五位下「筑後守」へと昇進し、元久元年(1204)には「従五位上」となります。これらは京都での活動を通じて、朝廷、つまり後に承久の乱を起こす後鳥羽上皇から与えられたものと思われ、頼時は後鳥羽上皇と何かしらの関係を築いていたようです。>

検非違使の任を解かれた後も頼時は京都で活動していましたが、一方で鎌倉幕府三代将軍源実朝に対しても、近しい立場で仕えていました。>

建暦2年(12129月、頼時は実朝の行列供奉のため関東に下向しますが、この時「新古今和歌集」の撰者として有名な歌人藤原定家の許を訪れ、下向の旨を伝えると、鎌倉において将軍実朝に定家の消息や和歌などを献じ、京都の情報も伝えています。実朝は歌人としても有名で定家を師と仰いでいました。>

このように頼時は、京都と実朝の間をつなぐ役割を担っていたことが推測でき、実朝との深い関係が想定できるのですが、二人の関係も承久元年(1219127日に生じた実朝暗殺事件により途絶えてしまいます。そして、更にこの事件があった日を最後に頼時の名前をこの後確認することは出来なくなってしまいます。>

実朝暗殺後、実朝を支えていた側近の御家人や近習たちは数多く出家し、幕府の中枢からはずされるのですが、頼時もこのなかの一人であった可能性が高いと指摘されています。>

頼時だけでなく前々回紹介した村上基国及びその系統も、この事件前後から以後、幕府側の記録からは一切その名前が消えてしまうことから、それまで御家人の上層クラスであった村上氏(基国系・経業系)は、頼時が実朝の側近であったことを理由に幕府権力から遠ざけられたものと思われます。>

しかし、前々回からお話ししているように、村上氏は幕府の中枢からはずされたとはいえ、本領の信濃国では2つの村上氏が鎌倉中期の建治元年(1275)には間違いなく御家人として存続し、今回紹介した頼時の子孫は、京都で「筑後前司跡」として、これまた御家人として存在していたことが確認されています。>

こうして鎌倉期を通じ経業・頼時父子の系統(右馬助系と筑後守系)は信濃と京都で存続し、村上氏が平安後期以降も引き続き京都で基盤を維持し続けていたことがわかります。>

村上氏が鎌倉時代、御家人として存続できたのは、実朝没後、幕府の権力を握った北条氏に接近し、北条氏の被官になったからだとの指摘があります。そのため、北条氏が滅亡した後、それまで村上氏の中核であった基国系と経業系は共に没落し、それにとってかわる形で同じ村上為国の子で、庶流の地位にあった安信系(安信は寿永2年【118311月の法住寺合戦で討ち死に)から村上義光・義隆父子と村上信貞が輩出され、村上氏の惣領になった、との新しい見解が出されています。>

従来、空白の多かった鎌倉時代の村上氏の新たな知見として大変興味深い内容であり、村上氏が常に中央権力と結び、勢力を維持し続けていたことがわかります。

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坂城町長 山村ひろし

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