「坂城の100人」 51人目は村上顕国(あきくに)

「坂城の100人」と言うことで、今まで主に歴史上の人物をご紹介してきました。

また、50人目で俳人の宮本虎杖をご紹介して大分日数が経ちました。

51人目に、村上義清の父、顕國(あきくに)を書こうと思っていたのですが、なかなか資料が少なく、記述する機会を得ませんでした。

そんな中で、昨日、坂城町の満泉寺で村上顕國の没後500回忌法要が行われましたので、その様子と「坂城の100人」51人目として村上顕國をご紹介します。

村上顕國は有名な戦国武将村上義清の父であることは知られていますが、ほとんど記録がなく詳細はわかりません。

生年も不明で、没年が1520年あるいは1526年といわれています。

1520年とすると今年は没後500年目節目となります。

3年前の平成29年には500年忌の「予修」として満泉寺のご住職に法要をしていただきました。

このたびは、御所沢村上氏史跡保存会(会長:大橋昌人さん)の主催で、村上顕國「満泉院殿大器良通大禅定門」五百回忌法要が満泉寺で執り行われました。

ここで、村上顕國と満泉寺の関係、義清の子國清と満泉寺の関係についてなど以下、ご紹介します。(以下は、大橋昌人さんの資料から)

満泉寺は村上山と号し、本尊は釈迦如来。寺伝によると応和3年(963年)坂城字御所沢に、僧延昌によって開創され、16世紀良源までは天台宗「修善寺」と称していた。

その後、修善寺は永正元年(1504年)村上顕國により、上州(群馬県)西の牧村長楽寺二世宝室見尊を迎え、顕國の法名に因み曹洞宗の「満泉寺」と改める。

天文22年(1553年)甲斐(山梨県)の武田信玄に攻められて、4月9日葛尾城は落城し、満泉寺も消失した。

天正10年(1582年)武田氏滅亡後、川中島(北信)は一時、森長可が支配し、のち上杉氏の領地となる。上杉氏の配下として海津城将となった村上義清の子景國(源吾・国清)は、翌11年(1583年)村上氏の居館跡に満泉寺を再建する。

その後、天正10年(1582年)3月、織田信長により武田氏が滅ぼされると、同年4月北信は信長の配下森長可(ながよし)の支配となる。しかし、同年6月3日京都本能寺の変により、森長可は美濃(岐阜県)へ逃げ帰る、そのあとへ入ってきたのが上杉景勝である。

上杉景勝は村上景國(源吾・國清)を海津城将にし、北信の支配をまかせた。しかし、翌同11年(1583年)5月23日、海津城の副将屋代秀正は上杉氏と対立する徳川氏に通じ、海津城を抜け出す謀反を起こす。そのため景國は海津城将を罷免され、越後に戻される。 以上。

いずれにしても、村上顕國は満泉寺の開祖であり、昨日、500回忌が行われました。

さる、7月に御所沢にある村上顕國の供養塔を訪問した際の様子は以下のサイト。
村上顕国の供養碑など御所沢地区散策

▼中央に斉藤住職、その右が会長の大橋昌人さん

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 50人目は宮本虎杖

先日、江戸後期の坂木宿の旅籠「大藤屋」の女将で当時高名な俳人、藤沢雨紅の俳句集「松蔭集」の再刊をしたことを掲載しました。

「坂城の100人」第12回目 江戸期に有名な女流俳人藤沢雨紅

今回は藤沢雨紅の師匠で大変影響力のあった宮本虎杖を掲載します。

坂城町学芸員の本間美麻さんに寄稿をしていただきました。 以下、ご覧ください。

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宮本虎杖(みやもと・こじょう)

  寛保元年(1741)~文政6年(1823             

 宮本虎杖は、「坂城の100人」で12番目に紹介された女流俳人「藤沢雨紅」の師です。

江戸時代中ごろ、坂木宿より1里半ほどの下戸倉(現在の千曲市戸倉)に豪農の子として生まれました。

ちょうどその頃、信州にも江戸の俳諧文化が入り始め、特に松尾芭蕉を正統とする「蕉風俳諧」の復古運動が起きていました。

 虎杖は、この蕉風俳諧の俳人である加舎白雄(かや・しらお)に明和5年(1768)ごろに入門したといわれています。28歳ごろのことです。最初の俳号は古慊(こけん)といいました。

 加舎白雄は上田藩士の子として江戸で生まれ育ち、蕉風俳諧を学んだ人物です。

信州北部・東部に多くの弟子がいました。虎杖より3つほど年上です。

3132歳で白雄と共に北陸・関西方面へ行脚し、3335歳ごろには江戸の松露庵烏明(しょうろあん・うめい)のもとで俳諧の修業をしました。44歳となった天明4年(1784)、白雄から判者の資格を与えられ、虎杖庵を名乗ります。

 天明8年(1788)、白雄は江戸の海晏寺で芭蕉百回忌法要を執行し、虎杖も宗匠として参加しています。この法要は俳句大会も兼ねており、白雄が芭蕉の俳諧を正統に継いでいることを知らしめるものでもありました。

 白雄と共に中央での知名度が高くなった虎杖は、人気俳人番付でも上位に名を見せます。

芭蕉が『更科紀行』に記した名月の里・姨捨を訪れる俳人たちの間でも、案内人として有名でした。

 藤沢雨紅の句が虎杖の刊行物に確認できるのは、享和元年(1801)の『つきよほとけ』からです。

虎杖の師・白雄は寛政3年(1792)に没し、寛政12年(1800)、姨捨長楽寺に句碑が建立されます。発起人は虎杖でした。この建碑を記念した句集が、翌年刊行の『つきよほとけ』です。(ちなみに、この白雄句碑の用材は、坂城町中之条地区産出の中之条石とのことです)

この句集には雨紅と、虎杖の後妻・鳳秋との歌仙(2人で交互に詠む連句の形式のひとつ)が収録されました。このことから、雨紅は虎杖夫妻と親しく、俳人としての評価も高かったことが想像できます。

 雨紅をはじめ、坂城の俳人はほぼ虎杖の門人であり、中之条陣屋(代官所)に詰めていた武士の中にも、虎杖庵を訪ねる俳人がいました。

苅屋原の泉徳寺、南条の酒玉神社、村上の自在神社には虎杖が関係した奉納俳額があり、坂城の俳人と交流が深かったことがわかります。坂城の俳諧文化をより豊かにしたのが、この虎杖だと言えるでしょう。

虎杖は温厚な人柄で、寺子屋を開くなどして人望もありました。他流派の小林一茶も、北国街道を通る折に虎杖庵へ立ち寄りました。こうした縁からか、泉徳寺の俳額には一茶も奉句しています。

文政6年(1823)、虎杖は83歳で没します。翌年に息子で虎杖庵三世の八朗が追善の句集を刊行しました。その中に、「はるの野に 急ぐ景色ハ なかりけり」という虎杖の句があります。

30歳前後から俳句に打ち込み、50歳を過ぎてから初めての子に恵まれ、老いてからも多くの門人たちと句集を編み、人生をゆっくりと楽しんだ虎杖の姿が見えるような気がします。

        

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坂城町泉徳寺にある宮本虎杖碑

正面に「乕杖翁」、裏面に「夜桜や 世に阿類ものの迎馬」

          

坂城町長 山村ひろし

藤沢雨紅 「松蔭集」 の再刊

先月、坂城町教育委員会から、江戸後期に女流俳人として有名をはせた、藤沢雨紅の句集 「松蔭集」 を再刊発行いたしました。

今年は藤沢雨紅の生誕250年にもあたります。

以下、以前、私がブログに書いた記述と重複する部分がありますが、改めてご紹介をいたします。

藤沢()(こう)(秀子) 1767(明和4)年~弘化2(1845)年 について

江戸時代後期に、坂城では数少ない女流俳人として名を成した藤沢()(こう)がいます。

本名を秀子といい、坂木宿大門町の旅籠屋「大藤屋」の当主清蔵に嫁しました。

以下は、江戸後期の坂城町大門町の図

中央マークしてある家が、「大藤屋」

清蔵も貞雅と号する俳人でしたが、実力は雨紅に及ばなかったそうです。

雨紅は下戸倉宿の宮本虎杖に俳句を学び、享和元年(1801)の虎杖編の句集から俳句が掲載されるようになり、この後、内外の俳書に作品が数多く収録されていきます。

江戸の俳人小蓑庵碓嶺の俳書にも雨紅の作品が多数掲載されます。

天保4年(1833)に雨紅を訪ねた江戸の俳人大野景山は「婦人には珍しき俳人なり」と評しています。

60歳(耳順)になった、文政9年(1826)には、自句集『松蔭集』を刊行しました。これは坂城で刊行された唯一の句集であり、自句208首に雨紅と親交のあった俳人の句が掲載されています。

また、辞世の句(79歳で死去) 「散やけし 花ならまじる 日もあるに」 は満泉寺の墓に刻まれています。 

                          

「松蔭集」の所在が不明でしたが、私が偶然、長野県立図書館で発見し、約5年かかりましたが、このたび再刊することができました。

満泉寺の雨紅さんの墓前にささげました。

今回、その一部をご紹介します。 

        「松蔭集」表紙 右が今回再刊された句集の表紙

 「松蔭集序文」 (江戸の俳人小蓑庵碓嶺が記述)

信濃のくに坂木の雨紅今年耳順の春

を迎ひ君が代にとたひ(途絶え)澄べき水の

いろをくみてしりける山の春の難と

古き世の御影を限なく歓びさゝれ石

盡せぬ千曲の流を汲て更級や

葛尾山の睦月の空をうつして

老のこころをなぐさめ月花の

冥加浅からずも自の句を撰みまた

英雄の句をも女手のたよわくも拾

ひ得てこれを酒肴にかえて賀莚を

ましけるの志目出度文政九年の

春の花とや言ん實や酒肴に

かえて並べたる発句の中々朽果

る世のあらざれば號は松蔭集

と呼ことしかり   碓嶺述

「松蔭集」は自作の俳句が208句、その後に、江戸俳壇の大家を中心とした一茶を含む著名俳人9人の発句が続き、更に雨紅と仁井田(中村)碓嶺と八朗、3人の連句36首、雨紅と遠藤雉啄の連句18首、雨紅と碓嶺、如水の連句18首、そして、全国の俳人の発句100首という構成となっている大作です。

「松蔭集」から初めの5句。(初春の句)

               

 ・元日やこころのはなのあさ朗(ぼらけ)

 ・元日や祝ふことさへありの侭

 ・親と子の無事を宝に花の春

 ・蓬莱や行義ただしく子はそだつ

 ・月雪や世の旅ころもきそはしめ

                             

「松蔭集」終わりの5句。(年納めの句)                

 ・小原女の柴には雨かみぞれ降

 ・友(共)に白髪(かみ)いだく迠(まで)を雪の様         

 ・行としを見に行頃やなごの海

 ・年の市挟莚売も一世界・・(挟莚:さむしろ)

 ・葛尾もとしのくれ行山路哉         

 

また、今回の再刊に際し、私の畏友で俳人の朝吹英和さんに前書きをお願いしました。

素晴らしい、前書きを寄稿していただきましたので、以下、掲載させていただきます。

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 藤澤雨紅『松蔭集』を読む      朝吹 英和

様々な人々が往還した坂木宿旅籠屋の女将の感性が掬い取った俳句には日常生活を詠ったものが多く見られるが、中でも四季折々の豊かな自然の恵みに対する喜びが素直に表現されている。

旅籠屋の女将として加賀前田家をはじめとする参勤交代の一行、佐渡で採掘された金銀を江戸に運ぶ人たち、商売人から社寺参詣の庶民に至るまで幅広い階層の人々との交流から吸収した知識や情感は洗練された言葉遣いに結晶し、雨紅の俳句を格調高いものにしている。    

まつ風や松をはなれて松の聲        

 句集名にも表れている通り、松を詠んだ句が多く収録されているが、芭蕉の名言である「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」が想起された。対象と直接に向き合う事によってその本質は理解出来る。俳句における「写生」とは本質を認識する行為であり、写生を極めた掲句には松の木を揺らし松を離れて吹き抜けた風の中になお松の存在を感じる事が出来る。

 松は古来より日本では神の宿る木として崇められ、常緑樹である所からも不老長寿の象徴として尊ばれて来た。能舞台の背面に描かれた老松は「鏡板の松」と呼ばれ、神の依代とされる「(よう)(ごう)の松」に由来すると聞いた。掲句の他にも松をモチーフとした句が多く、雨紅の松に寄せる思いの強さが偲ばれる。       

はつ秋や松にはふるき松の聲

             

初雪や松はまつにて有ながら

きのふ見し松の低さや秋の月           

 平成二十七年九月、坂城町山村町長のお招きで「十六夜観月殿」で催された俳句会に参加した時の感興が蘇った。太郎山から姿を現し、輝きを増して中天に昇る月に言葉を失って見惚れる至福の時。後年、偶然にもサントリー美術館で遭遇した歌川広重の「六十余州名所図会」に収録された「信濃 更科田毎月 鏡薹山」は坂木の北東に位置する鏡薹山を描いた浮世絵ゆえに雨紅の眺めた名月に通じるものがある。

 右下に配された姥捨の棚田や松の木、左上の鏡薹山の上には輝く月の姿が美しく、棚田の一枚一枚にその月が映り込んでいる。

「田毎の月」に遭遇した芭蕉は十五夜のあまりの美しさに感動して俳句にする事が叶わず、翌日訪れた坂木で十六夜の句を作ったと伝えられ、その句碑は「十六夜観月殿」のそばに建立されている。         

いざよひもまだ更科の郡かな   芭蕉              

 そして芭蕉は坂木を訪れた翌年の正月には「田毎の月」を「田毎の日」に置き換えて詠っている。        

元日は田毎の日こそ恋しけれ  芭蕉          

 「田毎の月」の忘れ難い感動の大きさと、それを俳句に出来なかった芭蕉の悔しさが滲み出ている句ではないだろうか。

朝日よりゆふ日おがまんはるの海        

 海に面していない信州であれば、海に出掛けた折の体験か海をイメージしての句であろう。永劫回帰、輪廻転生の象徴としての循環する太陽に対する畏敬の念。落日を拝む雨紅の姿が想起され、希望に満ちた明日の存在を保証する太陽の再生への祈りが自然に伝わって来る。

寝る人はねかせてののちや月の宿           

江戸幕府による北国街道の整備に伴い坂木藩や幕府の代官陣屋の置かれていた坂木は十七世紀の初め(慶長年間)に宿場が開設され隆盛を極めたとされ、大勢の旅人を饗応するために飯盛女(宿場女郎)も公認されていたという。

掲句の「寝る人」は様々な解釈が可能であるが、官能に溢れた旅の一夜を想像して読む事も出来るのではないか。華やぎの時も静まり静寂を取り戻した宿でしみじみと見上げる月の美しさはまた格別なものであろう。

 産土の自然や風物を詠った雨紅の俳句に通底する瑞々しい抒情や詩情は時代を超えて現代の我々の心に沁み渡る。

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 以下、教育委員会からのご案内

 お問い合わせは、文化財センター(0268-82-1109)までお願いします。

 

教育委員会刊行図書

 
NEW!!  松蔭集
     松蔭集

¥1,000
発行 2017年10月 坂城町教育委員会
著者 藤沢雨紅
★本書は江戸時代の坂城で唯一刊行された俳句集を、現代仮名と解説で読みやすくして出版したものです。著者の藤沢雨紅は、北国街道坂木宿の旅籠の女将であり、蕉風俳諧の俳人でした。前半は雨紅の自句集で、初春から年の暮までの句を歳時記のように収めています。後半は雨紅の選による、小林一茶ら江戸俳壇で活躍した俳人の名句集となっています。江戸時代の庶民の暮らしが垣間見え、俳句ファンならずとも楽しめる一冊です。(100P)

http://www.town.sakaki.nagano.jp/www/contents/1001000000634/index.html    
            

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門

 「坂城の100人」第49回目は雷電為右衛門としました。

 今年、生誕250年を迎えた雷電為右衛門は近郊の小県郡大石村(現東御市滋野乙)出身の大変有名な、無双力士といわれた相撲取りですが、巡業のため頻繁に北国街道を通り、坂木宿など訪れていました。

 また、雷電日記によると、少なくとも2回、坂木宿と中之条で相撲興行をおこなっています。

 十分、坂城ゆかりの人物ということが出来ます。

 相撲巡業についての記述は「雷電日記」(渡邊一朗監修、小島貞二編、ベースボール・マガジン社)によれば以下の通りです。

 

1.坂木宿での巡業 寛政12年(1800年)

 「信州坂木の宿で二日間の興行を勤めた。ここでも天気に恵まれ、大入りであった。福蔵という人物が勧進元だったが、儲けは五分五分の取り決めで、木戸銭から十五両が手元に入った。 この興行が終わって在所に立ち寄り四日ほど逗留したが、その際、以前新築した家の建築費の未払い分五十両、また新築祝いの酒屋への支払い分二十八両を一括して支払った。」

 以上のように、坂木宿での興行の後、その儲けで故郷の大石村に帰り新築した家の支払いなどにあてたそうです。

2.中之条での興行 文化2年(1805年)

 「信州中野城(中之条)というところで三日間の興行を勤めた。ここでは百貫ほど(25両程度)の利益が上がった。」

 このあと、上田城下で一日逗留し、田沢温泉へ行き三日間逗留したなどと記述があります。

 

 「雷電日記」によると、とにかく、現在の北海道、沖縄を除く全国をくまなく巡業しています。 まるで芸能人の全国ツアーのようです。

 江戸期に相撲取りのことを 「十日で暮らすよい男」 などのような暇はまったくないことがわかりました。

            

 さて、坂城町「鉄の展示館」では、きたる、9月7日(土)より11月5日(日)まで、「大相撲と日本刀展」 を開催します。

 江戸期から現代までの名力士の所有する太刀や脇差などが展示されます。 もちろん雷電の所有していた道中差なども展示されます。 ぜひお出でください。

「鉄の展示館」サイト

http://www.tetsu-museum.info/

           

 以下、雷電為右衛門についての紹介をご覧ください。(東御市観光パンフレットより)

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無双力士 雷電為右衛門パンフレットより

道の駅雷電くるみの里 雷電資料館パンフレットより
1、生い立ち
 天下無双の大力士雷電為右衛門は、明和四年(1767)信濃国小県郡大石村(現東御市滋野乙)に生まれた。父は 半右衛門、母を けん といった。幼名を太郎吉と称した。太郎吉が少年だったある夏の午後、母のけんが庭で据風呂に入っていた。ところが急に雷鳴とともに激しい夕立がしてきた。太郎吉は、母を風呂桶ごとかかえて、家の土間に運び込んだという親孝行な逸話が伝えられている。
 また、細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまった。せまい道、よけることもできず困った太郎吉は、荷をつんだ馬の足を持って目よりも高くさしあげ、無事行列をお通しし、「あっぱれじゃ。」と殿様からお褒めにあずかった。
2、江戸相撲に入門
 千曲川の対岸の長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学問好きで寺子屋師匠をする傍ら、石尊の辻をつくって相撲好きな若者の世話にも余念がなかった。このことを知った太郎吉は、上原源五右衛門方に寄食して学と技を磨いた。折しも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。その時、太郎吉は、浦風に相撲とりとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)十七才で出府、江戸相撲に入ることとなった。恵まれた天与の素質に加えて、熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政二年(1790)には関脇に付出され優勝した。完成七年には大関に昇進し、実に十六年二十七場所の長きにわたり大関の栄位を保持し、九割六分二厘という古今最高の勝率をあげた。
 雷電には禁じられた手が三つあった。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」である。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。なお、雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退した。

3、お抱え力士
 山陰地方の親藩松江藩の殿様松平治郷(不昧公)は、雷電の力と技と学徳の傑出していることを見てとり天明八年(1788)松江藩に召し抱えた。雷電は、八石に三人扶持を与えられ、お抱え力士として活躍したのであった。彼は生涯雲州関為右衛門と自らも称し、藩務にも精を惜しまず、引退後は松江藩相撲頭取を任ぜられた。松江市にある松平家の累代の霊廟の一隅には雷電の墓が今も残っているが、彼がいかに厚偶されたかを知るに十分である。雷電は、文政八年(1825)妻にみとられながら五十九才で没した。死後その遺骨は分骨され故郷大石村(現東御市滋野乙)の関家墓地に葬られているが、雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えない。

4、生家とその復原
 三十三才の時、故郷大石村に帰った雷電は五十両で自分の生家を建てなおした。もっとも、その家は、自分が少年時代世話になった長瀬村の庄屋上原家より小さく建てた。ここに義理堅い雷電の一面がうかがえる。もっとも、家の竣工祝に、建築費と同額の五十両を投じ大盤振舞をしたという。
 昭和五十九年、雷電が建てたというその家も老朽化したので、関係者の協力で生家の復原ができた。この家は、土間に土俵が作られていることと、二階が桟敷席になっており、相撲ぶりが観覧できるのが特徴である。

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 坂城町長 山村ひろし

「たばこ史研究」

(公益)たばこ総合研究センターから、「たばこ史研究」No.139が発行されました。

今回の研究論文の中に、昨年、坂城町の「玄古たばこ」の調査をされた、山本拓哉さんの論文が掲載されています。

山本さんは、坂城町の調査の後に、生坂村を訪れ、「生坂たばこ」についても調査されたそうです。

表紙には、千曲市戸倉の「坂井銘醸」さんで保管されている、「玄古たばこ」の写真と

目次として、

・阿部徳吉郎110回忌にあたって

・長野特集(1) 「生坂たばこ」と中央大学初代総長「加藤正治(犀水)」を生んだ在方荷主に関する考察

・長野特集(2) 坂城町に残る玄古和尚の墓と碑

などが特集されています。

本ブログで詳細を記述することはできませんが、ご興味のある方は、(公益)たばこ総合研究センター(〒105-0001 港区虎ノ門3-2-2 虎ノ門30森ビル Tel:03-3436-3771)へお問い合わせください。

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坂城町長 山村ひろし

男谷燕斎の書 続き(西念寺 般若心経)

昨日(11月3日)、坂城町中之条の浄土宗 西念寺(若麻績実豊ご住職)で10回目となる「中之条だいこん祭り」が開催されました。

恒例のお茶、おしぼりだいこんのお振る舞いのほか、今回は、神田陽子、神田桜子さんによる講談を聞かせていただきました。

神田桜子さんは今年4月に陽子さんに弟子入りしたばかりの新人ですが、なかなかの才能をうかがわせるお話を聞かせていただきました。

神田陽子さんからは、「真田幸村 大坂出陣の巻」など大変迫力のある素晴らしい講談を演じていただきました。

そんな折に、若麻績住職にお願いし、かねてより拝見したかった、男谷燕斎の貴重な書を拝見させていただきました。

これは、文化11年 甲戌(1814年)に書かれたもので、男谷燕斎が中之条の陣屋に代官として赴任した年で、燕斎が西念寺さんに般若心経を奉納したものです。

男谷燕斎の書は今までにもいくつかご紹介してきましたが、このようにしっかりとした楷書で書かれているものも珍しく思います。 さすが、江戸幕府の正祐筆だなと感じました。

また、この書は、絹布に書かれており素晴らしい色彩でもあります。 

西念寺さんと男谷燕斎代官との関係の深さも感じられました。           

 

 

ご住職の若麻績実豊さん

 

坂城町長 山村ひろし

男谷燕斎の書

先日、私の友人から男谷燕斎の新たな書を二つ紹介されましたが、そのうちの一つに大変、趣のある書がありましたので以下、ご紹介します。

男谷思孝(燕斎)1777(安政6)年~1840(天保11)年、江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。(中之条代官の期間は1813年から1820年)

 今までにも何回かご紹介しましたので、ご興味があれば以下のサイトをご覧ください。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30345
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40528
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40433
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40721

さて、今回ご紹介するのは、男谷燕斎が中之条の代官を勤めた後に越後国水原の代官を務め、江戸に戻り、丸御留守居役に就任した1823年以降に書かれたものと推定されるものです。

 

「人情大密反成疎」

人情は本来、大変こまやかなものであるが、気をつけねば疎(あらい)ものになってしまう。

 

箱書きに「鍋島閑叟公御師範 男谷燕斎孝筆行書」とあり、軸の上部裏面には「貞丸殿御師範 男谷氏筆」とあります。

  

 貞丸は鍋島直正(閑叟)の幼名で、男谷燕斎が江戸に戻った1823年は8歳です。(直正はその後17歳で藩主となります。)

 

http://www.nabeshima.or.jp/main/40.html

        

 従って、この書は男谷燕斎が1823年以降、貞丸(鍋島直正)に書の指導をした時期に書かれたものと思われます。

 久米邦武著『鍋島直正公伝』によれば、『直正は書を幕府右筆の男谷燕斎(おだにえんさい/1777~1840)に学び、「九歳の時の揮毫を見るに、殆ど成人の筆の如く」であった。』そうです。

  

http://saga-museum.jp/museum/exhibition/limited/2010/12/000503.html

          

 従って、この書は男谷燕斎による書のなかで、年代が概ね想定できる貴重なものだと思います。

 如何でしょうか。

                

 ちなみに、1823年は男谷燕斎が46歳、婿養子で幕末の剣聖といわれた男谷信友(精一郎)が34歳、燕斎の弟の勝小吉が21歳、その息子の勝海舟が生まれた年です。

            

           

 坂城町長 山村ひろし

薄雲太夫新資料

先日、上田市の藤本化工(株)佐藤修一社長が江戸中期の坂城町鼠宿出身で高名を馳せた薄雲太夫についての新資料をお持ちになられました。

(薄雲太夫については、以前、私のブログにも紹介しました。)

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30564

 

今回、お持ちいただいた資料は、佐藤さんの先祖で、天明7年(1787年)に亡くなられた、佐藤嘉平次珍英(たかふさ)さんがお書きになったものです。

いろいろと書かれていますが、薄雲に関しては、

(1)元禄年間に、仙台藩士2名が 「お館」(第3代伊達綱宗と推測されます。)が亡くなった旨(おそらく薄雲も亡くなったこと)を玉の井清右衛門に連絡に来たこと。

(2)その確認のため、赤池忠左衛門ほか2名のものが見届けに行き、薄雲の遺品(鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛け物など)をいただいてきたと書かれています。

(3)本来ならば、この遺品は、薄雲の出である、玉の井家に収められるものでしょうが、赤池中左衛門が玉の井清右衛門にお金を貸していたということもあり、赤池家におさめられることになった。

(4)後日、この内掛けに「いろは」の紋をつけたこと。

(5)赤池忠左衛門の孫まつ(佐藤珍英さんの妻になる人)にこの遺品を渡したが、佐藤嘉平次珍英が、これは遊女の手にしたものなのでこれを所持するのはいかがなものかということで、耕雲寺に寄付をした。

と以上のことが書かれています。

残念なことに、かなりの部分が虫食い状態になっていますが、ほぼ内容はわかります。

 

「遊女うすくも」 右側には赤池氏のいわれが書かれています。

 

左:清右衛門の娘「てる」器量に優れていた。山谷の三浦屋に売られ、江戸桜として全盛となる。

右:東国の大鎮(伊達綱宗)が高尾太夫を「さけ切り」に殺した後、薄雲に心を寄せる。これを薄雲が受け入れるが、乱行が公儀に知れるところとなり、品川へ閑居させられる。その後、お館も逝去し、元禄のころ、仙台藩士2名が鼠宿に知らせに来る。見届として中左衛門他2名が行き、遺物を受け取る。孫娘に渡すが、佐藤嘉平次珍英に嫁ぐ際にその品々を持参したが、珍英が「遊女の手に触れたものなのでそれをたしなみ、耕雲寺に収めることに。

 

左:「は」、屏風、鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛けもの

右:「さ」、「右 佐藤嘉左司珍英 耕雲寺へ、寄付打居緋綸子切

寛文、延宝のころ、東国大守愛妾用候品  珍英妻・・・

        

(耕雲寺にある「いろは」の文字のつけられた打掛)

          耕雲寺 寶物 高尾圓盡卓袱           

 

さらに、薄雲の墓を確認すると、墓石には「正徳元年 8月2日」と書かれています。

伊達綱宗の没年も同年の正徳元年(1711年 旧暦6月4日没)です。

没後に坂城町鼠宿に仙台藩士2名が連絡に来たということが書かれている今回の資料は大変価値があると思われます。

いままで、薄雲の墓についてもこれが鼠宿出身の薄雲の墓かどうか確信がありませんでしたが、墓石の年号、仙台藩士がわざわざ連絡に来たことなどから新たな事実が登場したように思えます。

なお、品川の妙蓮寺さんにお聞きするとこのお墓は間違いなく坂城の薄雲であると言っておられました。また、、伊達綱宗との間に一子をもうけたそうです。(残念ながら夭折したそうですが。)           

                   

 

薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)

 

今回の新資料については坂城町学芸員にお願いし解読しました。

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」第48回目は出浦昌相

NHK大河ドラマ 「真田丸」がなかなかの好スタートを切っておりますが、坂城に関係する人物がどのように登場するかも楽しみに見ています。

 先週(3月20日)は村上氏の家臣であった、室賀正武と出浦昌相(いでうら まさすけ)が登場し、真田昌幸暗殺計画に絡んで重要な役割を果たしました。 しかし、室賀正武が出浦昌相により殺害されると言うのは坂城の住人とするといささか辛いものがありました。

 私は坂城町上平(出浦)地区に住んでおります。 まさに、出浦城があった自在山(岩井堂山)の麓です。

                              

 

千曲川右岸から見た、自在山(標高約800m)、右は頂上の城址

                               

 さて、今回、「坂城の100人」の第48人目として、出浦昌相を取り上げます。

 NHKの大河ドラマでは、出浦昌相役を寺島進さんが演じていますが、誠に渋く、素晴らしい演技ですね。

寺島進さん NHKホームページより

            

 (以下、出浦昌相について、ウィキペディアその他のインターネットホームページなどより引用)

 出浦昌相(盛清)いでうら もりきよ、天文151546元和9年(1623)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。

 村上氏、真田氏の家臣。主水佐、上総(守)、対馬守。

 信濃国埴科郡坂城町出浦の生まれ。

 実名は昌相(まさすけ)。幸久(ゆきひさ)・頼幸(よりゆき)とも伝わるが誤伝である。

 清和源氏信濃村上氏の一族である出浦清種の次男とされ、更級郡の上平城主(出浦城主)や、上州岩櫃城代などを務めた。

 江戸時代後期に松代藩の家老を務めた河原綱徳が記した『本藩名士小伝』の記載に甲州透破忍者の棟梁とあり、忍者として知られるが、後述の忍城攻めにおける活躍を「忍」と誤伝された可能性が指摘されている。>

 村上義清武田信玄に敗れ、越後に逃れると武田家に臣従し、甲州透忍者)を統率した。

 武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は撤退に協力した。

 長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。>

 その後、天正11年(1583)から真田昌幸真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。

 更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。

 横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。

 天正18年(15906月、豊臣秀吉関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。>

 松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。

 この頃は出浦対馬守を称している。

 関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡の群馬原町に住み、 元和9年(1623)に78歳で死去。>

 子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている。

 また、真田信之が松代へ転封となるさいに、出浦昌相宛てに出した書状は信之が家臣たちに心配しないように気遣った貴重な書状と言われています。

                    

 

「元和8年(16221013日 出浦対馬守宛真田信之書状」(「おぎはら植物園」ホームページより)> 

                      

 

 真田氏が上田から松代へ移されたときの情況を知る、二つとない貴重史料。
 上田から江戸に呼び出され、松代へ転封を命ぜられた信之が、帰国の途中、鴻ノ巣宿より、その家臣出浦昌相に宛てた書状である。

 
本文の中では、過分な領地を拝領しての松城(松代)移封を、将軍直々に命ぜられ、誠に幸せの至りであると述べながら、追って書き(尚々書き)では、もはや自分も老後に及び、上意でもあり、子孫のためでもあるから、命令どおり、松城へ移ることにする、心配しないでほしい。と記している。この追って書きの部分が、信之の本心でもあろうか。
 真田氏はもちろん、家臣団も先祖以来の地を離れざるを得ないわけで、彼らにもかなりの動揺があったものと思われる。それを配慮しての附記でもあろう。

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長野市松代 矢野磐氏蔵>

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 尚々、我等事もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ松城へ相移る事に候。様子に於ては心易かるべく候。以上。
 去る十一日の書状鴻巣に参着、披見候。

 仍って今度召しに付いて、不図参府仕る処に、河中嶋に於て過分の御知行拝領せしめ候。殊に松城の儀は名城と申し、北国かな目の容害に候間、我等に罷り越し御仕置き申し付くべきの由、仰せ出だされ候。彼の表の儀は拙者に任せ置かるるの旨、御直に条々、御諚候。

 誠に家の面目外実共に残る所なき仕合せにて、今十三日鴻巣に至って帰路せしめ候。

 先づ上田迄罷り越すべく候間、其の節申すべき事これ在る儀、一角所迄遣わされ候。祝着に候。猶、後音を期す。謹言。


       伊豆守
 十月十三日  信之(花押)

  出浦対馬守殿

               

            

・・・・・・・・・・・・・・

           

 坂城の出浦昌相はこの戦国期に78歳まで生き延び、長寿を全うしたのですからすごいことですね。

            

          

                   

 坂城町長 山村ひろし

男谷燕斎の娘の墓発見!(耕雲寺)

 男谷燕斎については何度かブログに掲載していますが、男谷燕斎の娘の墓が坂城町南条の耕雲寺にあると聞き学芸員と一緒に行ってみました。

 耕運寺はかつて、武田信玄、勝頼が厚く保護した曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。寺伝によると、天文22年(1553)甲州の耕雲寺の僧が開き、寺名は武田晴信(信玄)が命名したと言われている由緒あるお寺です。

 その耕雲寺の本堂の後ろ側に立派な墓石がありました。

            

墓碑正面には 「賢室素練禅童女」

        

墓碑正面左側に、「男谷氏女」、右面に、「文化十四年丁丑十月二十日」 

              

 男谷燕斎は文化10年(1813)から文政3年(1820)まで足かけ8年にわたり坂木、中之条代官(第11代)をつとめていますので、この墓の作られたのは赴任して4年後ということになります。

 男谷燕斎には男子がなく、同族の男谷信友(精一郎)を次女の婿養子にとっています。(文政12年 1830年 男谷信友20歳)

 従って、この耕雲寺の墓碑に書かれたのは、男谷燕斎の長女ではないかと推察できますが、他に資料が無く分かりません。

 また、燕斎自身が墓を作ったとしたら、「男谷氏女」とは記述しないのではないでしょうか。

 なんらかの事情で、江戸表にいる娘の逝去を知った耕雲寺の関係者が、当時の代官であった男谷燕斎を思って墓を建立したのではないかとも考えられますが。如何でしょう。

 どなたか、詳細をご存知の方がおられましたらお教えください。

                  

 坂城町長 山村ひろし