先日、江戸後期の坂木宿の旅籠「大藤屋」の女将で当時高名な俳人、藤沢雨紅の俳句集「松蔭集」の再刊をしたことを掲載しました。
今回は藤沢雨紅の師匠で大変影響力のあった宮本虎杖を掲載します。
坂城町学芸員の本間美麻さんに寄稿をしていただきました。 以下、ご覧ください。
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宮本虎杖(みやもと・こじょう)
寛保元年(1741)~文政6年(1823)
宮本虎杖は、「坂城の100人」で12番目に紹介された女流俳人「藤沢雨紅」の師です。
江戸時代中ごろ、坂木宿より1里半ほどの下戸倉(現在の千曲市戸倉)に豪農の子として生まれました。
ちょうどその頃、信州にも江戸の俳諧文化が入り始め、特に松尾芭蕉を正統とする「蕉風俳諧」の復古運動が起きていました。
虎杖は、この蕉風俳諧の俳人である加舎白雄(かや・しらお)に明和5年(1768)ごろに入門したといわれています。28歳ごろのことです。最初の俳号は古慊(こけん)といいました。
加舎白雄は上田藩士の子として江戸で生まれ育ち、蕉風俳諧を学んだ人物です。
信州北部・東部に多くの弟子がいました。虎杖より3つほど年上です。
31~32歳で白雄と共に北陸・関西方面へ行脚し、33~35歳ごろには江戸の松露庵烏明(しょうろあん・うめい)のもとで俳諧の修業をしました。44歳となった天明4年(1784)、白雄から判者の資格を与えられ、虎杖庵を名乗ります。
天明8年(1788)、白雄は江戸の海晏寺で芭蕉百回忌法要を執行し、虎杖も宗匠として参加しています。この法要は俳句大会も兼ねており、白雄が芭蕉の俳諧を正統に継いでいることを知らしめるものでもありました。
白雄と共に中央での知名度が高くなった虎杖は、人気俳人番付でも上位に名を見せます。
芭蕉が『更科紀行』に記した名月の里・姨捨を訪れる俳人たちの間でも、案内人として有名でした。
藤沢雨紅の句が虎杖の刊行物に確認できるのは、享和元年(1801)の『つきよほとけ』からです。
虎杖の師・白雄は寛政3年(1792)に没し、寛政12年(1800)、姨捨長楽寺に句碑が建立されます。発起人は虎杖でした。この建碑を記念した句集が、翌年刊行の『つきよほとけ』です。(ちなみに、この白雄句碑の用材は、坂城町中之条地区産出の中之条石とのことです)
この句集には雨紅と、虎杖の後妻・鳳秋との歌仙(2人で交互に詠む連句の形式のひとつ)が収録されました。このことから、雨紅は虎杖夫妻と親しく、俳人としての評価も高かったことが想像できます。
雨紅をはじめ、坂城の俳人はほぼ虎杖の門人であり、中之条陣屋(代官所)に詰めていた武士の中にも、虎杖庵を訪ねる俳人がいました。
苅屋原の泉徳寺、南条の酒玉神社、村上の自在神社には虎杖が関係した奉納俳額があり、坂城の俳人と交流が深かったことがわかります。坂城の俳諧文化をより豊かにしたのが、この虎杖だと言えるでしょう。
虎杖は温厚な人柄で、寺子屋を開くなどして人望もありました。他流派の小林一茶も、北国街道を通る折に虎杖庵へ立ち寄りました。こうした縁からか、泉徳寺の俳額には一茶も奉句しています。
文政6年(1823)、虎杖は83歳で没します。翌年に息子で虎杖庵三世の八朗が追善の句集を刊行しました。その中に、「はるの野に 急ぐ景色ハ なかりけり」という虎杖の句があります。
30歳前後から俳句に打ち込み、50歳を過ぎてから初めての子に恵まれ、老いてからも多くの門人たちと句集を編み、人生をゆっくりと楽しんだ虎杖の姿が見えるような気がします。
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坂城町泉徳寺にある宮本虎杖碑
正面に「乕杖翁」、裏面に「夜桜や 世に阿類ものの迎馬」
坂城町長 山村ひろし