男谷燕斎の書

先日、私の友人から男谷燕斎の新たな書を二つ紹介されましたが、そのうちの一つに大変、趣のある書がありましたので以下、ご紹介します。

男谷思孝(燕斎)1777(安政6)年~1840(天保11)年、江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。(中之条代官の期間は1813年から1820年)

 今までにも何回かご紹介しましたので、ご興味があれば以下のサイトをご覧ください。

http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30345
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40528
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40433
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=40721

さて、今回ご紹介するのは、男谷燕斎が中之条の代官を勤めた後に越後国水原の代官を務め、江戸に戻り、丸御留守居役に就任した1823年以降に書かれたものと推定されるものです。

 

「人情大密反成疎」

人情は本来、大変こまやかなものであるが、気をつけねば疎(あらい)ものになってしまう。

 

箱書きに「鍋島閑叟公御師範 男谷燕斎孝筆行書」とあり、軸の上部裏面には「貞丸殿御師範 男谷氏筆」とあります。

  

 貞丸は鍋島直正(閑叟)の幼名で、男谷燕斎が江戸に戻った1823年は8歳です。(直正はその後17歳で藩主となります。)

 

http://www.nabeshima.or.jp/main/40.html

        

 従って、この書は男谷燕斎が1823年以降、貞丸(鍋島直正)に書の指導をした時期に書かれたものと思われます。

 久米邦武著『鍋島直正公伝』によれば、『直正は書を幕府右筆の男谷燕斎(おだにえんさい/1777~1840)に学び、「九歳の時の揮毫を見るに、殆ど成人の筆の如く」であった。』そうです。

  

http://saga-museum.jp/museum/exhibition/limited/2010/12/000503.html

          

 従って、この書は男谷燕斎による書のなかで、年代が概ね想定できる貴重なものだと思います。

 如何でしょうか。

                

 ちなみに、1823年は男谷燕斎が46歳、婿養子で幕末の剣聖といわれた男谷信友(精一郎)が34歳、燕斎の弟の勝小吉が21歳、その息子の勝海舟が生まれた年です。

            

           

 坂城町長 山村ひろし

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