坂城の100人 第25回目は塚田善作さんです。
あまり、この名前に馴染みが無いかも知れませんが、坂城町の県宝 「格致学校」 の建設を進めた人物です。
私が坂城町で大変大きな感銘を受けたものの一つが「格致学校」 の存在です。
格致学校の校舎は明治11年(1878年)に建設されましたが、松本の開智学校、佐久の中込学校に続いて長野では3番目に古い学校です。
長野県宝 格致学校
格致は四書五経の「大学」の言葉、「格物致知」 からとった名前ですが、「物事の本質を極め知識を極める」 ということです。
この「格致」を掲げ、現在に至るまで学校を大切にしてきた坂城の先人に大いなる敬意をはらいたいと思います。
塚田善作は天保14年(1843年)、中之条に生まれました。
明治9年(1877年)、33歳のときに格致学校の執事(責任者)に任ぜられ、校舎の新築に努力しました。
御堂山の官有林の払い下げを受けて、これを工費にあてて格致学校が建設されました。
この当時、鼠宿と新地村には「精成学校」、金井村には「金井学校」、坂木村には「坂木学校」、また、上平村、網掛村、上五明、力石村、新山村、上山田村の地区で「六郷学校」が作られましたが、各々、寺院を利用したもの、民家を借用したものなどが一般的でした。
新たに校舎を新築する場合に必要な巨額の建設費用は地元の人々の募金を募って建設されました。
当時の人々の教育にかける熱意には頭が下がります。
格致学校は、当初は西念寺を仮校舎として発足し(明治6年 1873年)、教室が手狭になったため、隣接地の一行寺本堂を改修し移転しました。(明治7年 1874年)
明治10年(1877年)には県に増築願いを提出し工事に入りましたが老朽化がひどい状態であったことから、新築に変更されました。
明治11年(1878年)には現存の校舎とほぼ同じ建物が完成します。
明治12年の生徒数は140人、教員数は6人で当時の就学率は63%とのことです。
明治19年(1886年)には小学校令が出され、中之条村と南条村を合わせて埴科郡第一番小学校となり、南条小学校と呼ばれるようになりました。
この段階で「格致学校」という名称は使われなくなりました。
その後も学制変更などのため校名がしばしば変更されましたが、127年後となった現在でも、「格致学校」の名前と校舎が保存されており、誠に素晴らしいことであります。
教育に対する坂城町の人々の思いに改めて敬意を表します。
格致学校の扁額 創立当初のもの
学校増築の願書 但し、増築ではなく新築となる
学校内教室の風景
「塚田善作翁之碑」
格致学校では折々に種々のプログラムを実施しております。 ぜひ、お立ち寄りください。
坂城町長 山村ひろし