「坂城の100人」今回は34人目として村上基国を取り上げます。
源義経とともに源平合戦で大活躍した人物です。
以下、鉄の展示館宮下学芸員に寄稿していただきました。
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鎌倉時代の信濃村上氏嫡流「村上基国」>
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今回は、村上氏のなかでも平安末から鎌倉初期に活躍した村上基国を紹介します。>
約500年にわたる信濃村上氏のなかで基国の名はあまり聞き慣れないかもしれませんが、基国は本ブログの9回目に登場した村上為国の子にあたります。このブログで何度も系図の典拠としている『尊卑分脉』では、為国には大勢の子どもがあったことが記されており、基国は「次郎判官代」として為国の次男であったことがわかります。
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村上氏の祖源盛清以降、村上氏は村上郷を本拠としながらも、京都に活動基盤をおいて時の権力者たちと深い関係を築く「京武者」であったことが最近の研究で明らかにされています。 >
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基国も京武者村上氏として鎌倉時代以前は、京都で活動していたことがわかっています。その初見は父とともに参加した保元の乱(保元元年:1156年)でした。保元の乱については為国の時にご紹介したように、この乱で為国・基国父子は敗れた崇徳上皇方に付いていたのですが、乱後に処罰された形跡は無く、その後、基国は保元の乱で相手方だった後白河天皇の異母妹である八条院の蔵人なっています。八条院はこの後、平氏全盛時代の中で、反平氏勢力結集の拠点になっていくことから、基国をはじめとする村上氏一門は比較的早い時期から反平家の立場になっていたと考えられます。
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その後しばらく村上氏自体の動きは見えなくなりますが、基国の兄で為国の嫡子であった信国は、寿永2年(1183)7月、京から平家を都落ちさせた木曽義仲の軍中枢として京都の治安維持にあたります。しかし、その4か月後、義仲と後白河法皇が不和となり生じた法住寺合戦では、信国を始めとする村上一族は後白河方として参陣し、基国の弟三郎安信が討ち死にし、合戦後、長兄信国も義仲によって官職を解かれ、殺害されたと考えられています。 >
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基国もこの合戦に参加したと思われますが、この後間もなくして、義仲を滅ぼした源義経らの鎌倉軍に属し、基国は義経のもとで一の谷合戦などの平氏追討に参加し、勲功をあげます。
『源平合戦図屏風』(大阪府高槻市霊松寺蔵・平凡社)
嵐山町Web博物誌より「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」
こうして基国は兄・弟の死後、村上氏の中心となり、基国の系統がその後の村上氏の嫡流になっていったと考えられます。>
平氏滅亡後、基国の活動は京から鎌倉へ舞台を移します。つまり、基国は源頼朝のもと御家人となったのです。
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基国は文治4年(1188)3月、頼朝の鶴岡八幡宮大般若経供養供奉を皮切りに、建久8年(1197)の頼朝善光寺参詣供奉まで、頼朝の供奉を幾多も勤めています。また、建久2年3月4日に発生した鎌倉大火で、基国の屋敷が北条氏や比企氏といった幕府中枢の邸宅とともに類焼したように、村上氏は鎌倉御家人としてかなり上層クラスであったことがわかります。
基国が頼朝に供奉した善光寺
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基国以後、その子孫の鎌倉における活動は見えなくなりますが、鎌倉中期の建治元年(1275)には、基国の子孫である「村上判官代入道跡」が本拠地信濃国で御家人として、また、村上一族の筆頭であったことが確認でき、鎌倉幕府のもと、御家人として把握されていたことがわかります。
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くわえて、信濃から遠く離れた出雲国でも基国の系統と考えられる村上氏が富田新庄という荘園の地頭であったことも判明しており、さらに陸奥国津軽でも基国系の可能性が高い村上氏が存在していたことがわかっています。 >
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このように鎌倉期に入り、村上氏の嫡流となった基国系の村上氏は、鎌倉幕府の中枢から離れたとはいえ、本拠地信濃国村上を中心に出雲や津軽にまで一族を拡げていたことが理解できます。
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こうした経緯を背景に、鎌倉末から再び歴史の表舞台に登場する村上氏(=村上義光・義隆父子、義光の兄弟で本ブログの32回目で紹介した村上信貞)が活躍していくのです。
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坂城町長 山村ひろし