かつての南條小学校長で、大正10年に、天皇皇后両陛下の御真影を火災から守ろうとし、殉職した、中島仲重校長につきまして、以前、ブログに掲載しました。
先日、知人から中島校長が殉死された状況について詳細に書かれた文書を入手しました。 (古いガリ版刷りです。)
記述者の氏名等が書かれていないのですが、身近な関係者のようで火災時の様子が事細かに書かれています。
本件について、ご関係の方々には何らかの参考資料になるかと思い、以下、掲載します。
なお、中島校長先生が殉職されたのは大正10年ですので、今年で97年目になります。
南條小学校長中島仲重君殉職當夜の状況 1ページ目
火災にあった校舎の図
以下、本文の内容を掲載します。
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南條小学校長中島仲重君殉職當夜の状況
中島君は新年になってから郵便物其他の用務で毎日夕刻、長子信夫君を伴れて學校へ行くことを例として居りました。火災の當日も午后四時過ぎの頃、例の如く學校へ行くべく自邸を出ましたが門前にて来訪の客に逢いましたので引き返して客と共に自邸に帰り郵便物は部下の一職員に托して學校へ送りました。
客と共に舊を談じ新を語りつつ晩餐中火事よとの警報を耳にするや否や學校でなければよいがと私語しつつ直ちに馳せ出でました。まだ、門外へ出ない中に火事は學校ですと告ぐる者がありました。同君は惶急疾走して仁王坂から學校に通ずる裏道を走って玄関前に行きましたが、駆け付けて居た者は僅かに三四人位でありました。而し猛焔は既に奉安室を包み奉安室階下の障子からは盛んに火焔を吐いておりました。同君は御真影を他へお遷し申べく奮然として室内に突入し南階段から上がって奉安室に飛び込み御真影を奉持せしが猛焔猛火の為に身躰の自由を失い遂に御影奉持のまま猛火の中に殉したのであります。
来客と二児とを自邸に残して夫君より一歩遅れて駆け付けた安子夫人は夫君が御影を奉して出つるは他に出口もなければ北階段であらふかと察し此に待てども夫君は見えないので奉安室の窓下を案して南方に廻はり窓下を見たけれども見えないので二階から西方の屋根に出て屋根傅へに北の方へ出られたのではあるまいかと思へ更に北に廻って雨中体操場の方迄きましたが、更に見えませんでしたので沈痛は愈深くなったのであります。
村民及び消防組は此の騒然の中に一種凄惨の氣に襲われ心勞と不安は刻々に逼り期せずして水口を奉安室に集中し消火に全力を傾注しました階段の墜落と共に同君も亦墜落し漸くに火を鎮め餘焔の中から同君の遺骸を救い出して山金井の寓宅に納めたのであります。
同君の遺骸は奉安所の前方三尺の地点にありました。實に自邸を出られてから此の間僅かに一時間であります。而して此の悲惨事に逢い此の壮烈なる最後を遂げられたのであります。見る者聞く者、老若男女の別なく皆慟哭して止みませんでした。
殉職中島仲重君人物の大要
中島君は實に温良真摯の人でありました。明治二十九年長野縣師範學校を卒業以来主として修身倫理の學に趣味を有し、研究の結果先年中等教員検定試験に應じて其實力を試みたこともありました。其後教育問題や思想問題の研究に専ら力を傾注せられ、其結果最近は日本美術の研究に意を注がれて居りました。何れも細心綿密なる研究を重ね常に中正穏健なる見地に立ち一個の識見を持たれて居りました。亦文藝方面の嗜も餘程持たれて居り何となく人と化する一種の力を有して居たように思われます。教育に関しても人生の本義とか教育の真髄とか云う様な事に就ては餘程心を用いられて居た用であります。ここから出発した同君の教育活動は奕に見る可きものがありまして永久性を持ったものであります。亦同君は敬虔の念にも富で居られて児童の敬虔心養成には一層の考慮を費して居られた様であります。亦同君は友情にも仲々厚い人でありました。以上の様な素質を有した上に古聖賢古忠臣の行事を欽慕し特に宋朝の忠臣文々山に對しては景御の念餘程深かった様であります。かの零丁洋の詩の如きも常に座右に掲げられておりました。亦、同君が常に愛吟して居た詩が二つあります。一つは山陽の楠公の像に題する古詩中の摂山以下の数節で、一つはこの零丁洋の詩であります。以上に依って同君人物の一般を想像することが出来ると思われます。更に同君生前に於ける一事一行を細叙せんか一々枚挙に遑ありません。以上は一般大方諸賢に同君人物の大要を紹介すべく其大綱を叙したに過ぎません。同君の實なるものを看取せらる々ことを得は此の上ない幸せであります。
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坂城町長 山村ひろし