江戸末期から明治にかけて旧坂木村の山野を開墾し、坂木の農業を発展させた大恩人で生きながらに神として崇められた稲玉徳兵衛翁についてたびたびご紹介してきました。
また、一般的な徳兵衛翁の紹介は以下の通りです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【稲玉徳兵衛 1822(文政5)年~1872(明治5)年】
稲玉徳兵衛は、江戸時代の末に坂木村の山野を開墾し、坂木の農業を発展させた大恩人です。
坂木は耕地が少なく、千曲川沿いの田畑も洪水の度に流され、農民は苦しい生活をしていました。
徳兵衛は東方山地の大開発を提案し、嘉永6年(1853)、農民353人の署名を集め、村と代官所に許可を願い出ました。
開発に反対する一部の農民との争いなど多くの困難を克服して、広大な山野の開発を実現しました。(218ヘクタール)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかしながら、今回入手した資料、「稲玉徳兵衛翁」(杉本雪峯著 昭和3年)によれば、佐久間象山などとの交流から、ペリーの黒船来航以来の騒然とした日本を守るためにも、国土を守り、耕作地の開拓を進めなければならないという大きな思想の元に進められたことが分かりました。
本資料の冒頭のページを以下ご紹介します。
本資料から引用すると、「・・・・諸国の士と交わり殊に信州の英傑佐久間象山先生とは親交ありき。 嘉永年間、米船の浦賀に来る有り、英露の二国国交を結ばんとする有り、国内の動揺政体の変革は往来の諸士の口より伝われり、翁は早くも時勢の急変を察し今にして方針を一変せざれば、人口問題、食糧問題、職業問題、失業問題、国防問題、発生し来るべきを知り、国恩に報じ奉るはこの時に有りとし嘉永六年十一月不毛の原野を開拓し殖産興業に力を尽さんと決心したり・・・・・」
このような固い決心と志があるために艱難辛苦があろうと断固事業を進められたのだと思います。
あらためて、稲玉徳兵衛翁の業績に感服します。
坂城町長 山村ひろし