「ポーランド・シベリア孤児救済の物語」

 

 以下は、以前、私が今年8月15日の坂城町成人式でお話した、「シベリア孤児救済」の物語です。(ご参考まで)

 日本ではほとんど知られていない近現代史の秘話、「シベリアにいたポーランド孤児を日本が救った。」と言う物語です。

 これは、約100年前の1918年(大正7)から始まった当時の日本陸軍による「シベリア出兵」最中の出来事です。

 まず、なぜシベリアにポーランド人がいたのだろうかということですが、ポーランドは、ロシア・ドイツ・オーストリアという強大な隣国に分割され続け、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で形式上独立するも、ロシア皇帝が君臨するという実質上のロシア領であり続けたわけですが、ポーランド人は決して屈することはありませんでした。

 19世紀、ポーランド人は真の独立を勝ち取るべく二度にわたって帝政ロシアに対して独立戦争を挑みました。しかし、蜂起は鎮圧され、さらに蜂起に立ち上がった多くのポーランド人は政治犯としてシベリアに強制的に送られました。

 その後、第一次世界大戦で戦場となったポーランドの人々がシベリアに逃れ、シベリアのポーランド人は15万人から20万人に膨れ上がりました。そんな最中の1917年にロシア革命が起き、翌年1918年に第一次世界大戦が終結してようやくポーランドは独立を回復します。

 しかしながら、シベリアのポーランド人は、ロシアの内戦で祖国への帰還が困難となり、それどころか生活は困窮を極め、餓死者などが続出したのだった。

  そんな同胞の惨状を知ったウラジオストク在住のポーランド人が彼らを救済するため「ポーランド救済委員会」を立ち上げた。そして彼らは、せめて子供達だけでも救って祖国へ帰してやりたいと欧米各国と折衝をしましたがことごとく断られてしまいました。

 もはや万策尽きたなかで、ポーランド救済委員会はシベリアにいた日本軍ならびに日本政府に救援のお願いをしました。

 その申し入れを受けて、当時の外務省は、日本赤十字社に救済事業を要請し、7月5日に子供らの救護活動に入ることを決定します。

 ただちに日本陸軍が救援活動に動き出し、救援決定からわずか二週間後の7月20日に56名の児童とポーランド人の付き添い5名を乗せた日本陸軍の輸送船「筑前丸」が第一陣としてウラジオストクの港を出港した。

 3日後の7月23日、筑前丸が福井の敦賀港に入港し子供達が上陸するや、日本赤十字をはじめ軍や警察、役場、さらに一般の敦賀の市民までもが孤児たちを温かく迎え入れた。

 病気に罹っている子供を治療し、お腹を空かしている孤児らに食事や菓子を与え、そして入浴させて新しい衣服に着替えさせてやるなど、皆が孤児らを慈愛の心で包み込んだのです。

 そして手厚く看護されて元気を取り戻した子供達が横浜港から船でアメリカに向かうことになった。ところがそのとき、ちょっとしたハプニングがおきました。ポーランド孤児達が、泣きながら日本を離れたくないと言い出しましたのです。

 極寒のシベリアで極貧の生活を強いられ、親を亡くして人の愛情に触れることのなかった孤児達にとって、誰もが親切な日本はまさに天国でした。彼らにとって日本はもう“祖国”になっていたのです。

 横浜港から出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、ポーランドの付添人に抱かれて乗船することを泣いて嫌がりました。

 埠頭の孤児たちは「アリガトウ」を連発し、『君が代』の斉唱をして幼い感謝の気持ちを表して別れを惜しみました。

 だがそれでもまだシベリアにはおよそ2000名の孤児が救援を待っていた。

 再び日本に対し救援を求め、日本赤十字も最終的に急を要する孤児約400名を受け入れることを決定、再び陸軍が支援に乗り出しました。

 1922年8月、輸送船「明石丸」と「臺北丸」が3回にわけて孤児390名をウラジオストクから敦賀に運びました。もちろんこの第二陣の児童らも前年同様に敦賀の人々に温かく迎えられ、大阪の天王寺に建てられた大阪市立公民病院宿舎に収容されました。

 大阪での歓迎ぶりもまた、東京でのそれに勝るとも劣らぬものがありました。

神戸港からの離別風景も同じで、帰国児童一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちも、涙でこの子たちの幸せを祈りながら船が見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。

 この8回にわたる救済活動で、合計765名の子どもたちが救われました。

 しかし、この物語はこれで終わりではありませんでした。

 平成7年(1995年)、阪神淡路大震災が起きました。この際に、ポーランドの人々は、この震災で孤児になった人々の救援に立ち上がります。

 平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のかつてのポーランドのシベリア孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましました。

 その後も、ポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間もポーランドに招いてくれました。

知られざる日本とポーランドの交流秘話~両国の絆は日露戦争にさかのぼり、その後のシベリア出兵で結果として、765名のポーランド孤児を救援することができた、両国の感謝の応酬は今も続いているのです。

 また、昨年(2018年)11月20日には、このセレスティナウ町に近い、スタラ・ヴェシに「ポーランド・シベリア孤児記念小学校」も設立されました。

今年は、日本とヨーロッパ一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年を迎えました。

 また、来年はシベリア孤児来日100周年となります。

 (参考:「日本ポーランド国交樹立100周年記念誌」、「親日を巡る旅」(井上和彦著)他、多数の資料から引用させていただきました。)

坂城町長 山村ひろし

「人道の港」敦賀ムゼウム訪問

昨日(12月15日)、敦賀市の人道の港 敦賀ムゼウム(ムゼウムはポーランド語で資料館)を坂城町国際交流協会の皆さんと訪問しました。

▼右は、渕上隆信敦賀市長さん

 以下、敦賀ムゼウムの説明員の坂本さんがFacebookにアップしていただきましたのでシェアさせていただきます。

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人道の港敦賀ムゼウム

長野県から坂城町国際交流協会の皆さん14名が視察研修にお越しいただきました。

同協会は、サマースクール受入れやワーキングホリデー支援等を通じてポーランドとの交流を継続されており、今後の更なる交流につなげるため、国交100周年に合わせて、ムゼウムの視察を計画いただいたとのことです。

見学を終えた山村弘町長からは、「とても感動しました。敦賀市がシベリアで困窮していたポーランド孤児や『命のビザ』を持って上陸したユダヤ人難民を暖かく迎え入れた資料を収集・展示し、その子孫と国際交流されていることに対して敬意を表します。」との温かい言葉をいただきました。
またのお越しをお待ちしております!

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以下は、私が今年8月15日の坂城町成人式でお話した、「シベリア孤児救済」の物語です。(ご参考)

 日本ではほとんど知られていない近現代史の秘話、「シベリアにいたポーランド孤児を日本が救った。」と言う物語です。

 これは、約100年前の1918年(大正7)から始まった当時の日本陸軍による「シベリア出兵」最中の出来事です。

 まず、なぜシベリアにポーランド人がいたのだろうかということですが、ポーランドは、ロシア・ドイツ・オーストリアという強大な隣国に分割され続け、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で形式上独立するも、ロシア皇帝が君臨するという実質上のロシア領であり続けたわけですが、ポーランド人は決して屈することはありませんでした。

 19世紀、ポーランド人は真の独立を勝ち取るべく二度にわたって帝政ロシアに対して独立戦争を挑みました。しかし、蜂起は鎮圧され、さらに蜂起に立ち上がった多くのポーランド人は政治犯としてシベリアに強制的に送られました。

 その後、第一次世界大戦で戦場となったポーランドの人々がシベリアに逃れ、シベリアのポーランド人は15万人から20万人に膨れ上がりました。そんな最中の1917年にロシア革命が起き、翌年1918年に第一次世界大戦が終結してようやくポーランドは独立を回復します。

 しかしながら、シベリアのポーランド人は、ロシアの内戦で祖国への帰還が困難となり、それどころか生活は困窮を極め、餓死者などが続出したのだった。

  そんな同胞の惨状を知ったウラジオストク在住のポーランド人が彼らを救済するため「ポーランド救済委員会」を立ち上げた。そして彼らは、せめて子供達だけでも救って祖国へ帰してやりたいと欧米各国と折衝をしましたがことごとく断られてしまいました。

 もはや万策尽きたなかで、ポーランド救済委員会はシベリアにいた日本軍ならびに日本政府に救援のお願いをしました。

 その申し入れを受けて、当時の外務省は、日本赤十字社に救済事業を要請し、7月5日に子供らの救護活動に入ることを決定します。

 ただちに日本陸軍が救援活動に動き出し、救援決定からわずか二週間後の7月20日に56名の児童とポーランド人の付き添い5名を乗せた日本陸軍の輸送船「筑前丸」が第一陣としてウラジオストクの港を出港した。

 3日後の7月23日、筑前丸が福井の敦賀港に入港し子供達が上陸するや、日本赤十字をはじめ軍や警察、役場、さらに一般の敦賀の市民までもが孤児たちを温かく迎え入れた。

 病気に罹っている子供を治療し、お腹を空かしている孤児らに食事や菓子を与え、そして入浴させて新しい衣服に着替えさせてやるなど、皆が孤児らを慈愛の心で包み込んだのです。

 そして手厚く看護されて元気を取り戻した子供達が横浜港から船でアメリカに向かうことになった。ところがそのとき、ちょっとしたハプニングがおきました。ポーランド孤児達が、泣きながら日本を離れたくないと言い出しましたのです。

 極寒のシベリアで極貧の生活を強いられ、親を亡くして人の愛情に触れることのなかった孤児達にとって、誰もが親切な日本はまさに天国でした。彼らにとって日本はもう“祖国”になっていたのです。

 横浜港から出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、ポーランドの付添人に抱かれて乗船することを泣いて嫌がりました。

 埠頭の孤児たちは「アリガトウ」を連発し、『君が代』の斉唱をして幼い感謝の気持ちを表して別れを惜しみました。

 だがそれでもまだシベリアにはおよそ2000名の孤児が救援を待っていた。

 再び日本に対し救援を求め、日本赤十字も最終的に急を要する孤児約400名を受け入れることを決定、再び陸軍が支援に乗り出しました。

 1922年8月、輸送船「明石丸」と「臺北丸」が3回にわけて孤児390名をウラジオストクから敦賀に運びました。もちろんこの第二陣の児童らも前年同様に敦賀の人々に温かく迎えられ、大阪の天王寺に建てられた大阪市立公民病院宿舎に収容されました。

 大阪での歓迎ぶりもまた、東京でのそれに勝るとも劣らぬものがありました。

神戸港からの離別風景も同じで、帰国児童一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちも、涙でこの子たちの幸せを祈りながら船が見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。

 この8回にわたる救済活動で、合計765名の子どもたちが救われました。

 しかし、この物語はこれで終わりではありませんでした。

 平成7年(1995年)、阪神淡路大震災が起きました。この際に、ポーランドの人々は、この震災で孤児になった人々の救援に立ち上がります。

 平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のかつてのポーランドのシベリア孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましました。

 その後も、ポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間もポーランドに招いてくれました。

知られざる日本とポーランドの交流秘話~両国の絆は日露戦争にさかのぼり、その後のシベリア出兵で結果として、765名のポーランド孤児を救援することができた、両国の感謝の応酬は今も続いているのです。

 また、昨年(2018年)11月20日には、このセレスティナウ町に近い、スタラ・ヴェシに「ポーランド・シベリア孤児記念小学校」も設立されました。

今年は、日本とヨーロッパ一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年を迎えました。

 また、来年はシベリア孤児来日100周年となります。

 (参考:「日本ポーランド国交樹立100周年記念誌」、「親日を巡る旅」(井上和彦著)他、多数の資料から引用させていただきました。)

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 坂城町長 山村ひろし