ザンビアだより(第4回)青年海外協力隊 竹内希さんから

青年海外協力隊としてザンビアで先生として頑張っておられる、坂城町南条出身の竹内希さんからザンビアだより(第4回)が届きました。

以下、坂城町ホームページから。

ザンビアで単身頑張っておられる竹内希さんに拍手を送ります。

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ザンビアだより~ 平成25年1月 竹内希

「生きること」

みなさん遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!!

日本は、雪かきのシーズンですね。私は人生で初めて、暖かいお正月をザンビアで迎えました。ザンビアは、ほとんどの人がキリスト教徒なので、クリスマスは盛大に祝います。しかし、元旦はクリスマスほどではありません。それでも、花火が上がり、みんなでお酒を飲みかわして、新年を喜んでいるようでした。

ここ数カ月、友人や私自身も体調を崩すことがあり、健康であることの喜びをひしひしと感じました。日本ではなかなか感じることのできない、生きることについて今回は触れたいと思います。

アフリカには、マラリア、黄熱病、コレラ、インフルエンザ、食中毒、狂犬病など、恐ろしい病気がたくさんあります。日本では、病気になっても病院へ行けば、ほとんどの病気は治療してもらえます。なので、あまり死の危険を感じることはありません。しかしここザンビアでは、マラリアや狂犬病を発症した場合、24時間以内に治療してもらわないと死の危険を伴います。そのため、私たちは事前に正しい医療知識を教えてもらい、もしものために備えています。

マラリアは死ぬ病気。そんな病気にいつ誰がなってもおかしくないので、ザンビア人は病気に対して皆、敏感です。常に、周りの人に「How are you?(ご機嫌いかが?)」と声をかけ、体調が悪い人にはすぐに病院へ行くように促します。とても良い雰囲気ですね。日本は医療体制が整っている分、そんな簡単に死ぬことはありません。なので、微熱では無理をするのが当たり前という風潮があります。逆にとらえれば、日本の環境であれば無理ができるというメリットでもあります。ただ、日本社会ではストレスを抱えて死に追い込まれる人が大勢います。そういう人たちは、無理をしないで欲しいです。

ザンビアだより01

▲空からのビクトリアフォール 2013年元旦(撮影:竹内さん)

ザンビアへ来てからは、物が無い、食べ物が無い状況でも、死ぬわけじゃないから大丈夫と思えるようになりました。食べ物は普通に手に入りますが、やっぱり美味しい日本食は食べられません。(笑)また同じように、仕事がうまく行かなかったり、自分の理想通りには行かなくても、そんなめったに死にません。そう思ったら、いくらか楽になりませんか??世界的に見ても、日本人はとても真面目な性格で、仕事をきっちりこなす人が多いです。これは、日本ブランドを生んだ原点でもあります。ただ、その性格ゆえ、自分自身を追い込んでしまう人も多い。時には、自分を甘やかしても罰は当たらないと思います。

生きること、それは食欲、睡眠欲、排泄欲などの生理的欲求を満たすこと。これらが潤滑に行っていれば大丈夫です。そして、大事なのが共に生きること。人は、1人では生きていけません。常に周りの人に支えられて生きています。だからこそ、日々のお互いの身の安全を確認し合える人を作ってください。自分の所在は、親に連絡すること。近所の人に挨拶をすること、これらは自分自身が生きることに関わってきます。

なかなか日本の生活では生きていることを実感したり、得たりすることは難しいです。ただ、私たちが健康で周りの人と共に過ごせている毎日は、とても幸せなことだということを再認識して欲しいと思い、記しました。以外と、周りに人がいればなんとかなるものです。

私も、生きて日本に帰ることを心に留め、こちらでの活動に励んでいきたいと思います。2013年が皆さんにとって、実り多き年になりますように、ザンビアから願っています。

ザンビアだより第4回02

▲ビクトリアフォールに浮かぶ虹(撮影:竹内さん)

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坂城町長 山村ひろし

国土交通省への要望活動

昨日(1月21日)、国土交通省への要望活動を行ってきました。

昨年、当時の羽田国土交通大臣には度々、坂城町の重要関連事業について要望活動をしてまいりましたが、このたび、政権が変わり、あらたに就任された太田昭宏国土交通大臣他にも継続して諸施策について実施していただくことについてのお願いに伺いました。

太田国土交通大臣とは以前から懇意にさせていただいておりましたが、今回は残念ながらほかの公務が入りお会いすることはできませんでした。

内容については中山秘書官に詳細に説明をし、続いて、菊川技監(前の道路局長)、前川道路局長、瀧口鉄道局長に要望をいたしました。

今回お願いした案件は以下の4点です。

                                 

 1.坂城更埴バイパス坂城町区間3.8kmの早期完成。

   (鼠橋以北の坂城区間の早期完成についてです)

                         

 2.道路整備のための財源の確保。

   (早期実現のための補正、来年度当初予算の確保。)

                        

 3.主要地方道坂城インター線の先線と国道バイパスとの接続。

   (坂城インター先線と国道バイパスの接続が出来れば縦横の主要幹線道が出来ます)

                      

 4.地域公共交通におけるバリアフリー解消の促進。

   (これは、おもに坂城駅へのエレベーター設置についてです。 すでに、24年度に詳細設計の予算をつけていただき実施しておりますが、25年度の本体工事実施に向けての予算確保です)

                     

左から:中山秘書官、山村、宮島議長

                      

左から:菊川技監、山村、宮島議長

                   

左から:青木建設課長、前川道路局長、山村、宮島議長

                        

左から:瀧口鉄道局長、山村、宮島議長

                   

 これから、総額20兆円といわれる、補正予算が審議されます。

 また、続いて25年度当初予算が検討されます。 アンテナを高くして、国、県の動向を見、坂城町の活性化に最大限の努力をいたします。

                             

 坂城町長 山村ひろし

「ブラインドサッカー」講演会と体験会・練習試合

昨日(1月19日)、坂城町文化センターで 「人との絆・夢や希望のかけはし 2013」が開催されました。

(主催:長野県ブラインドサッカー協会、主管:ながのF.C.RAINBOW、協賛:坂城ライオンズクラブ、後援:坂城町・坂城町教育委員会・坂城町社会福祉協議会、 バリューブックス)

講演には、釜本美佐子さん(日本ブラインドサッカー協会理事長)にお出でいただき、「障害者と健常者があたりまえに混ざり合う社会」というテーマでお話をいただきました。

釜本美佐子さんは日本を代表するサッカープレイヤーの釜本邦茂さんの実姉で長くツアーコンダクターとして活躍されておられましたが、18年前に目の障害にかかられ、昨年には完全に視力を失われたとのことです。 しかしながら素晴らしい活動力でブラインドサッカーの普及に積極的に取り組まれておられます。

講演前、しばらくの間お話をさせていただきましたが大変感銘をうけました。

右:釜本美佐子さん

講演に先立ち挨拶する山村 

以下、坂城町ホームページの記事から  

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1月19日(土)ブラインドサッカー講演会・練習試合・体験会開催

 

1月19日(土)、文化センターで「人との絆・夢や希望のかけはし2013」と題して、ブラインドサッカーの講演会、練習試合及び体験会が開催されました。

講演会では、日本ブラインドサッカー協会理事長の釜本美佐子さんをお招きし、「障害者と健常者があたりまえに混ざり合う社会」を演題にご講演をいただきました。
釜本さんは、元サッカー日本代表の釜本邦茂氏の姉で、大阪外国語大学英語科を卒業後、その語学力を活かして海外旅行のツアーコンダクターを勤めておられました。しかし、53歳の時に「網膜色素変性症」と診断され、以来徐々に視野が狭くなり、昨年5月に全く見えなくなってしまったそうです。そんな中で、2001年に韓国でブラインドサッカーの試合を見て、その面白さ、エキサイティングさに感動し、帰国後、日本での普及活動を始めました。最初は、なにもかも手探りの状態でしたが、少しずつ選手、スタッフ、サポーターが増え、今ではパラリンピック出場を目指せるほどになったそうです。ブラインドサッカーは、障害者と健常者が1つのチームをつくるスポーツなので、これが社会にも広がり、障害者と健常者があたりまえに混ざり合う社会を実現したいと話されました。

 

▲釜本さん

講演会の後は、東京のブラインドサッカーチーム「乃木坂ナイツ」のメンバーで現日本代表でもある葭原滋男選手、日向賢選手と釜本さんの3名でトークショーが行われ、世界の国と対戦して感じたことなどをお話いただきました。最後に今後の夢を聞かれると、葭原選手は「リオデジャネイロで開催されるパラリンピックに出場し、ハットトリックを決めてメダルをとりたい」と、日向選手は「リオでメダルをとり、日本一と呼ばれるストライカーになりたい」と力強く答えていらっしゃいました。

 

▲左から葭原選手、釜本さん、日向選手

また、体育館に会場を移し、長野のブラインドサッカーチーム「ながのFCレインボー」対「乃木坂ナイツ」の練習試合と、一般参加者による体験会が行われました。ブラインドサッカーは、縦40m横20mのピッチに、全盲のB1クラスの場合は、アイマスクをした選手4人と、目が見えるゴールキーパー1人でチームを作ります。そして、キーパーと監督、ゴール後ろのコーラーが大きな声で支持を出し、選手は、その支持とボールの中に入っている鈴の音を頼りにプレイします。
今日行われた試合でも、大きな声が飛び交う中、激しいボールの奪い合いや強烈なシュートが繰り出され、とても迫力ある試合が展開されました。
体験会では、一般参加者がアイマスクを着用し、声と音だけを頼りに練習をし、その難しさに皆さん苦労されているようでした。

▲練習試合(ピンク:乃木坂ナイツ、緑:ながのFCレインボー)

                                                 

▲ブラインドサッカー体験会

ながのFCレインボーは、毎週日曜日午後1時からびんぐしの里公園内「スパークさかき」で練習しています。ボランティアとして、ブラインドサッカーを一緒に楽しみたい方はお出かけください。(都合により会場、曜日が変更する場合があります。)

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坂城町長 山村ひろし

千曲川地域ブランドフェア

昨日(1月19日)、千曲市戸倉創造館で「千曲川地域ブランドフェア」が開催されました。

川上村から栄村まで18市町村に加え新潟市からも参加し盛大にフェアが開催されました。(計48の業者・団体が参加)

坂城からは 「さかき地場産直売所 あいさい」 と 「味ロッジわくわくさかき」 が参加しました。

大ホールとロビーに各地の産物が溢れなかなかの盛況でした。

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 第3回は男谷彦四郎思孝(燕斎) 

「坂城の100人」 第3回は男谷彦四郎思孝(ひろたか)(燕斎)(えんさい)です。
                                
 男谷思孝(燕斎)、1777(安政6)年~1840(天保11)年、 は江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。
 旗本男谷平蔵忠恕の長子で、男谷(米山)検校の孫にあたります。 (米山検校は盲人としての最高位の検校に昇進し、旗本男谷氏の株を買い男谷検校となる) 
                  
 また、平蔵の三男が左衛門太郎惟寅(勝小吉)で、勝海舟の父です。
 したがって、思孝は勝海舟の叔父にあたります。
                                      
 男谷思孝(燕斎)は寛政12年(1800)に表右筆となり、「寛政重修諸家譜」や「藩翰続譜」の編修、韓聘書簡の写字などにあたります。
                  
 その後、文化10年(1813)から文政4年(1821)まで8年にわたり坂木、中之条代官をつとめ、文化11年には追分貫目改所と信濃一ヶ国総取締を兼任しています。
 文政4年には越後水原陣屋へ移り、その後、二丸御留守居役、西丸裏御門番之頭、そして、天保8年(1837)に小十人組頭をつとめました。
                   
 この間、勝小吉は文政2年(1819年)、兄の男谷燕斎を訪ね、坂城へ来ています。

                           
 勝小吉の「夢酔独言」によると、以前にも坂城へ来たことがあるようですが、以下のような記述をしています。
                     
 「18の年、また信州へいったが、その年は兄きが気色が悪くって(健康がすぐれず)、榊木という村の見所場の検見をおれにさせたが、一番悪処の場へ棹を入れて・・・」など村民にとって大変有利な検地を行なったそうです。
 これも勝小吉らしい裁きのようです。 その後、いくつかの喧嘩事を処理したことも記述されております。 誠に勝小吉の小気味よい行動が坂城中之条を中心にして書かれています。 
                             

 男谷思孝は、能書家としても有名で、燕斎と号したわけですが、師事する者が多く、中之条代官在任中に揮毫した書が坂城内外に数多く残されています(中條神社の扁額や甘泉の碑名なども)。
                     
男谷燕斎による 「甘泉の碑」
                    
中條神社の扁額 左に男谷思孝の名が見られる
                  
                     
 男谷思孝(燕斎)が後に養子とした男谷精一郎は温厚な人格者で 「幕末の剣聖」 ともいわれ、剣豪として名高く、宮本武蔵に匹敵するとも言われた人物です。
                   
 また、昨年、さかきテクノセンターで新春経済講演会の講演をしていただいた、経営思想家の田口佳史先生もこの男谷燕斉の縁筋にあたられるとのことです。
                   
 男谷燕斉の書が数多く坂城に残されております。
 いずれ、「男谷燕斉展」 を企画したいとも思っております。
                        
                         
 坂城町長 山村ひろし

五色百人一首 西念寺大会

本日(1月14日)、大雪の中、坂城町中之条の西念寺さん(若麻績実豊住職)で、TOSS(Teacher’s Organization of Skill Sharing)の開発した、五色百人一首西念寺大会が開催されました。

この大雪の中、どれほどの子どもたちが参加するか心配でしたが、佐久市や長野市の子どもたちも含め、何と、90名の子どもたちが参加してくれました。(主催:TOSS上小教育サークル、後援:坂城町教育委員会、上田市教育委員会、東御市教育委員会)

いささか残念なのは坂城の子どもたちの参加が少ないことでしたが(2名)、本日は宮崎教育長も参加していただきましたので来年に期待することにします。

 

この五色百人一首は、日本の伝統文化である百人一首を小学校などのクラスみんなで楽しめ、短時間で行えるように開発されたものだそうです。

100枚の札を5色に分け、1色あたり20枚にすることで、1試合が5分以内に終わることができるようになりました。 5分間以内なら、朝の会などでもできるようになり、現在では、長野県大会(善光寺で開催)なども開かれるようになりました。

坂城町長 山村ひろし

坂城町昭和橋を検証する(更埴郷土を知る会)

昨日(1月11日)、「更埴郷土を知る会」の会員で郷土史研究家の牧忠男さんと鹿島武雄さんが坂城町役場へお出でになり、牧忠男さんがまとめられた論文「坂城町昭和橋を検証する」が書かれた、「更埴郷土を知る会」編集の「ちょうま」第33号をお持ちいただきました。

この号では牧さんが長年研究されておられた明治以降、第二次世界大戦以前の橋に関する研究が纏められ、その中で特に坂城町の昭和橋について細かく記述されています。

坂城町の昭和橋(昭和12年に3連鉄筋コンクリート部分が完成)は中島武氏が設計した、「鉄筋コンクリートローゼ桁」という当時非常に斬新なアイデアで作られています。

昭和橋は平成14年に、(社)土木学会から「土木学会選奨土木遺産」に選定されている貴重な橋ですが、橋の設計に関わる基本的な数値、コンクリートの打込(コンクリートの配合等)など不明な点が多く、牧さんが長年調査を続けてこられましたが、このたび、ようやく論文として発表されたものです。

また、あわせて牧さんがお書きになった、坂城町の自在山をバックにした昭和橋の素晴らしい水墨画も持参いただきました。

左から:鹿島武雄さん、山村、牧忠男さん

牧さんの論文の始めのページ

なお、本誌についてのお問い合わせは「更埴郷土を知る会」

〒387-0007 千曲市屋代1978-1

Tel:026-272-0546 まで

坂城町長 山村ひろし

坂城町 びんぐし湯さん館 入館者300万人突破!

 本日(1月11日)、午後1時半、平成14年から開設しました坂城町の日帰り温泉「びんぐし湯さん館」が累計入場者数、300万人を突破しました。

 開設以来の平均入場者数は一日平均825名です。

 これからも皆様に愛される温泉作りに励んでまいります。

 以下、「びんぐし湯さん館」のホームページから。

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びんぐし湯さん館 入館者300万人突破!

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 当館は、皆様の支えられて、おかげ様で1月11日(金)の本日に延300万人目お客様にご来館いただきました。

 その前後を含めた3名様には、「坂城町振興公社 オリジナル巨峰ワイン」「極上大辛ねずみ焼酎」「贈湯券」「整体ルーム重環の60分無料券」などを贈呈させていただきました。  

                                    

   2,999,999人目   小諸市 南澤 赫子様

   3,000,000人目   小諸市 南澤 哲夫様 

   3,000,001人目   小諸市 田中 千枝様

                    

 ご来館、誠にありがとうございました。

 当館はこれからも皆様に愛され親しまれる温泉施設になりますよう努めてまいります。

 これからも「びんぐし湯さん館」をよろしくお願いいたします。

                      

 坂城町長 山村ひろし

「110番の日」のイベントに ”ねずこん” 登場

昨日(1月10日)、は「110番の日」です。

全国各地で、防犯、交通安全など、事件・事故での正しい「110番」の使い方に関するキャンペーン、 「110番の日」 イベントが開催されました。

昨年のユルキャラコンテストで皆様方の絶大なご協力を得て、長野県で10位に入った 「ねずこん」 にもご招待があり、松本駅前で他のキャラクター(全部で11キャラクター)と一緒にデモンストレーションを行いました。

日テレ 「news24」 のニュースから。以下をクリックしてみてください。

http://news24.jp/nnn/movie/news8842855.html

坂城町長 山村ひろし

学童疎開に来られた廣澤義夫さんの手紙

先日、「坂城小学校だより」(平成24年12月27日号)をいただきました。

その中で、昨年11月26日に開催された学童疎開の交流事業の記事がありました。

大変素晴らしい内容です。

坂城小学校の生徒たちも立派でした。

記事の紹介をさせていただきます。

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 「坂城小学校だより」

「坂城への疎開者の皆様との交流会について」

11月26日は、戦時中東京豊島区から坂城町に学童疎開をしていた皆さんとの交流会が行われました。 体育館の前に「学童疎開の碑」が建てられ、あいにくの雨で5、6年のみの参加でしたが、除幕式を行いました。 引きつづき、全校児童で交流会を行い当時のお話をお聞きしたり、手作りのバイオリンや絵をいただいたりしました。 子どもたちは 「わたしだったら、耐えられないかもしれない。」 「僕たちは食べ物があって幸せだな。」 「坂城町の人たちが親切だったと言ってもらってうれしかった。」 などの感想をもったようです。

また、全校で歓迎の歌を歌い、聴いていただきました。 校歌を歌うと一緒に口ずさんでくださり、歌い終えると涙ぐむ姿に、私たちまで胸に迫るものがありました。

大切な機会をいただいたと思います。

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(交流会の様子については以下のサイトをご覧ください。)
学童疎開の皆さまとの交流

当日参加された、廣澤さんから以下のお手紙をいただいたそうです。

以下、掲載させていただきます。

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「歴史と伝統が生きている坂城小学校」

昭和19年の時の5年生 廣澤義夫

私は平成24年11月26日の学童疎開交流会に東京から参加した79歳の老人です。 今から68年前に東京の子が親から離されて大永寺と坂城小を集団登下校していた話では静かに行儀良く聞いてくれました。 態度が立派でした。

また、帰りの雨の中、各教室から別れの大合唱が響き挨拶も礼儀正しく心温まる歓迎は本当に自然で、その姿に大感激しました。

学童疎開は終わりのない避難訓練を毎日続ける生活のように思います。 今の日本は物が溢れ便利で平和な国ですが昭和20年前後は戦争のため物不足で心も不安定でした。 でも、坂城小での学習は都会では経験できないことを学んだので将来の役に立ちました。

私の話は山登り競争や木出しなど楽しい行事が中心でした。 詳しい事は紹介した坂城小百年誌を読んでください。 表題が今後も引き継がれることを期待しお礼の言葉とします。

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以上、「坂城小学校だより」から

坂城町長 山村ひろし