坂城の100人 第35回目は村上経業(つねなり)

  坂城の100人、今回は村上経業(つねなり)です。

 村上経業の主な活動の場は鎌倉で、鎌倉時代の歴史書 「吾妻鏡」 にも源右馬助(うまのすけ)として度々登場しています。

                    

(嵐山町web博物誌より)

 

 最近、平安期から鎌倉期にかけての村上氏の研究に精力的に取り組まれている、宮下学芸員に寄稿していただきました。

 以下、いささか長文ですが、信濃村上氏の新たな一面をご覧ください。

                       

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鎌倉時代、もう一つの村上氏「村上経業(つねなり)>

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今回も前回に引き続き、平安末から鎌倉時代に活躍する村上氏として村上経業を紹介します。>

経業は前回の村上基国の兄弟で、最初「明国」、長兄の信国らが亡くなってから経業に改名したようです。>

鎌倉時代、信濃村上氏の嫡流は前回紹介したように村上基国系だと思われますが、この基国系とほぼ対等に信濃国を本拠に活動していたのがこの経業の系統です。つまり、鎌倉時代、村上氏は2つのほぼ同等の家が存在していたのです。

                  

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経業が歴史上に登場するのは他の兄弟より遅く、その初見は鎌倉に政権が成立して間もない文治元年(1185)で、鎌倉で御家人として活動していた記録からです。>

それ以前では、長兄の右馬助信国が亡くなるきっかけとなった寿永2年(118311月の法住寺合戦において、経業も他の多くの兄弟と共に参陣していたものと思われ、この合戦後に信国が亡くなったことで、村上氏は基国と経業が一門の中心となり、経業は兄の官途である右馬助(正六位下相当)を拝官したものと考えられます。>

このように経業が京都で活動した記録はほとんど確認できず、上述したように、その活動は鎌倉において顕著となります。>

経業も基国と同じように鎌倉での活動の中心は、儀式などでの将軍頼朝への供奉でした。文治元年に子息頼時と共に頼朝の勝長寿院の供養に供奉したのを始め、『吾妻鏡』では合計5回、頼朝の供奉を勤めていたことが確認でき、その行陣の隊形において経業は、初期鎌倉幕府内の高位者が位置する「御後」を勤めていました。前回の基国同様、この時期の村上氏は清和源氏頼信流という名門で、平安後期以来京武者であった来歴ゆえに、このような上層メンバーとして位置づけられていたと考えられます。>

経業については、建久6年(11953月、頼朝の東大寺供養の供奉を最後にその活動は確認できなくなるので、その後間もなくして亡くなったのでしょう。経業亡き後は、子の頼時が跡を継ぐのですが、頼時については、次回、稿を改めて紹介したいと思います。>

経業系の子孫は、その後、基国系と同様に承久の乱(1219年)前後から鎌倉幕府の記録から姿を消してしまいます。しかし、前回も紹介したように、鎌倉中期の建治元年(1275)には、経業の子孫も「村上馬助跡」として基国系の子孫とほぼ同程度の勢力を保持して、信濃国で御家人として存続していたことがわかります。>

従来、村上氏は鎌倉初期を除き、北条氏が権力を握ってから、北条氏から疎遠にされたといわれてきましたが、最近の研究では、幕府中枢から村上氏は排除されたものの、北条氏との関係については距離を縮め、北条氏の被官になっていったとも云われています。>

このように、ここ数年の研究により、村上氏を含めた村上一族全体の動きがより鮮明になってきており、従来の定説というものが様々な点で書き換えられてきています。前回と今回紹介した村上基国と経業兄弟、そして、その子孫の動きはこうした歴史研究の成果によって知ることが出来ました。

                         

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坂城町長 山村ひろし