村上氏というと村上義清を中心とした戦国期のみを考えがちですが、11世紀後半の源盛清以来、500年もの長きにわたって村上の地を統治した歴代の村上氏ならびに分派した村上氏ゆかりの人物にもっともっと焦点が当てられるべきだと思います。
その意味で、今回は鎌倉期に大活躍をした小野沢氏についての物語です。
地名に残る小野沢は坂城町びんぐしの里公園と自在山(三角山)の間で、村上氏発祥の地 「島」 地区の東側下流の場所です。
現在の小野沢地区
びんぐし公園と自在山(三角山)の間で島地区の東側
この地図の上方左側の出浦沢川の右側に「島」、そのやや右側に「小野沢」、さらにその下側びんぐし湯さん館の左側に「福沢」の地名が見えます。これを見ただけでも「村上氏」の他に「出浦氏」、「小野沢氏」、「福沢氏」の存在が分かりますね。
今回は坂城町 「鉄の展示館」 学芸員、宮下修氏に記述していただきました。
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北条得宗家に仕えた小野沢氏
その(1)「小野沢仲実」>
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今回と次回、村上氏の一族として鎌倉時代にその活躍が知られている「小野沢氏」について紹介します。>
小野沢氏は頼朝・頼家・実朝の源氏将軍三代後、鎌倉幕府で絶大な権力を握った北条氏の研究で数多く取り上げられ、その姿は主家の村上氏より詳しく伝えられています。>
小野沢氏の祖である小野沢仲実は、『尊卑分脈』によると村上為国の孫(父は「出浦氏」の祖:成国)で、村上氏が発祥した村上地区上平の「島」に隣接する「小野沢」の地名を名字として誕生しました。
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仲実が歴史上に登場するのは、嘉禎元年(1235)7月11日、将軍藤原頼経の小御所出御に伺候した記録からです。その3年後にも頼経の上洛に供奉しており、仲実は将軍に近侍する御家人であったことがわかります。>
一方、暦仁元年(1238)10月7日、仲実は執権北条泰時が派遣した弔問の使者として上洛しており、泰時の被官であった様子も窺えます。>
このように、仲実は将軍に仕える御家人であるとともに、北条氏の惣領=「得宗」の被官の立場でもあったのでした。>
その後、いったん仲実の動きは見えなくなりますが、建長3年(1251)8月になると、再びその姿が明らかになってきます。>
この年から文永2年(1265)まで、仲実は鎌倉の一般行政を担当する地奉行人であったことが確認できるのです。地奉行人は2名いて、1名は得宗の被官から任命されたことから、仲実は得宗北条時頼の被官として任命されたと考えられています。>
このように、小野沢氏の初代仲実は、御家人であると同時に、幕府最大の権力者北条氏の惣領である得宗の被官となり、さらに鎌倉の地を支える奉行人になるなど、小野沢氏は本国信濃から離れて幕府の所在する鎌倉を地盤に、幕府の中枢で活動していたことがわかります。>
主家であった村上氏は、承久の乱前後以降、幕府中枢から外されることになりましたが、小野沢氏はそれと入れ替わるような形で北条泰時の被官となり、以後、得宗家の被官としてその基盤を築き、村上氏から自立していったものと思われます。
次回は小野沢仲実の息子の小野沢時仲を取り上げます。
坂城町長 山村ひろし
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