男谷燕斎については何度かブログに掲載していますが、男谷燕斎の娘の墓が坂城町南条の耕雲寺にあると聞き学芸員と一緒に行ってみました。
耕運寺はかつて、武田信玄、勝頼が厚く保護した曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。寺伝によると、天文22年(1553)甲州の耕雲寺の僧が開き、寺名は武田晴信(信玄)が命名したと言われている由緒あるお寺です。
その耕雲寺の本堂の後ろ側に立派な墓石がありました。
墓碑正面には 「賢室素練禅童女」
墓碑正面左側に、「男谷氏女」、右面に、「文化十四年丁丑十月二十日」
男谷燕斎は文化10年(1813)から文政3年(1820)まで足かけ8年にわたり坂木、中之条代官(第11代)をつとめていますので、この墓の作られたのは赴任して4年後ということになります。
男谷燕斎には男子がなく、同族の男谷信友(精一郎)を次女の婿養子にとっています。(文政12年 1830年 男谷信友20歳)
従って、この耕雲寺の墓碑に書かれたのは、男谷燕斎の長女ではないかと推察できますが、他に資料が無く分かりません。
また、燕斎自身が墓を作ったとしたら、「男谷氏女」とは記述しないのではないでしょうか。
なんらかの事情で、江戸表にいる娘の逝去を知った耕雲寺の関係者が、当時の代官であった男谷燕斎を思って墓を建立したのではないかとも考えられますが。如何でしょう。
どなたか、詳細をご存知の方がおられましたらお教えください。
坂城町長 山村ひろし