先日、上田市の藤本化工(株)佐藤修一社長が江戸中期の坂城町鼠宿出身で高名を馳せた薄雲太夫についての新資料をお持ちになられました。
(薄雲太夫については、以前、私のブログにも紹介しました。)
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=30564
今回、お持ちいただいた資料は、佐藤さんの先祖で、天明7年(1787年)に亡くなられた、佐藤嘉平次珍英(たかふさ)さんがお書きになったものです。
いろいろと書かれていますが、薄雲に関しては、
(1)元禄年間に、仙台藩士2名が 「お館」(第3代伊達綱宗と推測されます。)が亡くなった旨(おそらく薄雲も亡くなったこと)を玉の井清右衛門に連絡に来たこと。
(2)その確認のため、赤池忠左衛門ほか2名のものが見届けに行き、薄雲の遺品(鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛け物など)をいただいてきたと書かれています。
(3)本来ならば、この遺品は、薄雲の出である、玉の井家に収められるものでしょうが、赤池中左衛門が玉の井清右衛門にお金を貸していたということもあり、赤池家におさめられることになった。
(4)後日、この内掛けに「いろは」の紋をつけたこと。
(5)赤池忠左衛門の孫まつ(佐藤珍英さんの妻になる人)にこの遺品を渡したが、佐藤嘉平次珍英が、これは遊女の手にしたものなのでこれを所持するのはいかがなものかということで、耕雲寺に寄付をした。
と以上のことが書かれています。
残念なことに、かなりの部分が虫食い状態になっていますが、ほぼ内容はわかります。
「遊女うすくも」 右側には赤池氏のいわれが書かれています。
左:清右衛門の娘「てる」器量に優れていた。山谷の三浦屋に売られ、江戸桜として全盛となる。
右:東国の大鎮(伊達綱宗)が高尾太夫を「さけ切り」に殺した後、薄雲に心を寄せる。これを薄雲が受け入れるが、乱行が公儀に知れるところとなり、品川へ閑居させられる。その後、お館も逝去し、元禄のころ、仙台藩士2名が鼠宿に知らせに来る。見届として中左衛門他2名が行き、遺物を受け取る。孫娘に渡すが、佐藤嘉平次珍英に嫁ぐ際にその品々を持参したが、珍英が「遊女の手に触れたものなのでそれをたしなみ、耕雲寺に収めることに。
左:「は」、屏風、鏡台、玉手箱、硯箱、文箱、緋綸子内掛、掛けもの
右:「さ」、「右 佐藤嘉左司珍英 耕雲寺へ、寄付打居緋綸子切
寛文、延宝のころ、東国大守愛妾用候品 珍英妻・・・
(耕雲寺にある「いろは」の文字のつけられた打掛)
耕雲寺 寶物 高尾圓盡卓袱
さらに、薄雲の墓を確認すると、墓石には「正徳元年 8月2日」と書かれています。
伊達綱宗の没年も同年の正徳元年(1711年 旧暦6月4日没)です。
没後に坂城町鼠宿に仙台藩士2名が連絡に来たということが書かれている今回の資料は大変価値があると思われます。
いままで、薄雲の墓についてもこれが鼠宿出身の薄雲の墓かどうか確信がありませんでしたが、墓石の年号、仙台藩士がわざわざ連絡に来たことなどから新たな事実が登場したように思えます。
なお、品川の妙蓮寺さんにお聞きするとこのお墓は間違いなく坂城の薄雲であると言っておられました。また、、伊達綱宗との間に一子をもうけたそうです。(残念ながら夭折したそうですが。)
薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)
今回の新資料については坂城町学芸員にお願いし解読しました。
坂城町長 山村ひろし