「坂城の100人」 51人目は村上顕国(あきくに)

「坂城の100人」と言うことで、今まで主に歴史上の人物をご紹介してきました。

また、50人目で俳人の宮本虎杖をご紹介して大分日数が経ちました。

51人目に、村上義清の父、顕國(あきくに)を書こうと思っていたのですが、なかなか資料が少なく、記述する機会を得ませんでした。

そんな中で、昨日、坂城町の満泉寺で村上顕國の没後500回忌法要が行われましたので、その様子と「坂城の100人」51人目として村上顕國をご紹介します。

村上顕國は有名な戦国武将村上義清の父であることは知られていますが、ほとんど記録がなく詳細はわかりません。

生年も不明で、没年が1520年あるいは1526年といわれています。

1520年とすると今年は没後500年目節目となります。

3年前の平成29年には500年忌の「予修」として満泉寺のご住職に法要をしていただきました。

このたびは、御所沢村上氏史跡保存会(会長:大橋昌人さん)の主催で、村上顕國「満泉院殿大器良通大禅定門」五百回忌法要が満泉寺で執り行われました。

ここで、村上顕國と満泉寺の関係、義清の子國清と満泉寺の関係についてなど以下、ご紹介します。(以下は、大橋昌人さんの資料から)

満泉寺は村上山と号し、本尊は釈迦如来。寺伝によると応和3年(963年)坂城字御所沢に、僧延昌によって開創され、16世紀良源までは天台宗「修善寺」と称していた。

その後、修善寺は永正元年(1504年)村上顕國により、上州(群馬県)西の牧村長楽寺二世宝室見尊を迎え、顕國の法名に因み曹洞宗の「満泉寺」と改める。

天文22年(1553年)甲斐(山梨県)の武田信玄に攻められて、4月9日葛尾城は落城し、満泉寺も消失した。

天正10年(1582年)武田氏滅亡後、川中島(北信)は一時、森長可が支配し、のち上杉氏の領地となる。上杉氏の配下として海津城将となった村上義清の子景國(源吾・国清)は、翌11年(1583年)村上氏の居館跡に満泉寺を再建する。

その後、天正10年(1582年)3月、織田信長により武田氏が滅ぼされると、同年4月北信は信長の配下森長可(ながよし)の支配となる。しかし、同年6月3日京都本能寺の変により、森長可は美濃(岐阜県)へ逃げ帰る、そのあとへ入ってきたのが上杉景勝である。

上杉景勝は村上景國(源吾・國清)を海津城将にし、北信の支配をまかせた。しかし、翌同11年(1583年)5月23日、海津城の副将屋代秀正は上杉氏と対立する徳川氏に通じ、海津城を抜け出す謀反を起こす。そのため景國は海津城将を罷免され、越後に戻される。 以上。

いずれにしても、村上顕國は満泉寺の開祖であり、昨日、500回忌が行われました。

さる、7月に御所沢にある村上顕國の供養塔を訪問した際の様子は以下のサイト。
村上顕国の供養碑など御所沢地区散策

▼中央に斉藤住職、その右が会長の大橋昌人さん

坂城町長 山村ひろし