第3回TOPOS(トポス)会議

昨日(4月23日)、坂城町でも昨年ご講演いただいた、野中郁次郎一橋大学名誉教授が発起人の第3回TOPOS会議(主催: 富士通総研)が六本木ヒルズで開催され出席しました。 

今回のテーマは:「日本の安全保障とグローバル・ビジネス」~ビジネス・リーダーの「外交」実践知を考える~ というものです。

日本人は、「安全保障問題」というと、残念ながら、自分に関する問題では無いと考えるのが一般的ではないでしょうか。

しかしながら、今回のパネリストとして来られた世界の錚錚たる識者がいろいろな形で日本人・日本政府に警鐘を鳴らされ、改めて考え直すべき点が多々あることを認識させられました。

冒頭の野中先生の言葉を借りますと、「日本人は安全保障問題に正面から向かい合っていない。企業のグローバル化が進む中、しっかりした文化、歴史観を持ち、経営の実践知を持ち、行動することが重要である。これには、あらゆるセクター、すべての日本人が当事者意識を持つこと、決して他人事と考えないことが重要である」 ということであります。

今回のパネリスト・スピーカー

マイケル・クラーク

(Michael Clarke)
英国王立防衛安全保障研究所所長
マーチン・ファン・クレフェルト

(Martin van Creveld)
ヘブライ大学名誉教授
筆口 秀一郎

三井物産株式会社 人事総務部 安全対策室長


ファン・ジン

(Huang Jing 黄靖)
シンガポール大学 リー・クアンユー公共政策大学院教授
森本 敏

前防衛大臣


西山 淳一

三菱重工業株式会社 航空宇宙事業本部 コンサルタント


野中 郁次郎 一橋大学名誉教授

株式会社富士通総研経済研究所理事長
大越 修

株式会社オオコシセキュリティコンサルタンツ代表取締役社長


辻 廣道 パナソニック エクセルインターナショナル株式会社

執行役員 所長

ビデオメッセージ

マイケル・グリーン

(Michael J. Green)
戦略国際問題研究所(CSIS)上級顧問・日本部長

この中で特に印象に残った講師は、イスラエルのヘブライ大学名誉教授のマーチン・ファン・クレフェルトさんのメッセージです。

クレフェルトさんは『戦争文化論』という著書でも有名ですが、「安全保障」は単に、「戦う」ということではなく、そこには「戦争文化」という考え方が必要であるということです。

つまり、「死んでも構わない」という覚悟で戦う 「人間の能力、決断力」 それのバックとなる「戦争文化」が安全保障の要諦であるということです。

現在の日本では安全保障を「外交」の問題としてのみ捉えがちであります。

今回かなり重いテーマで議論をしましたが、グローバルなビジネス環境を考えるうえでも「安全保障」に関する問題意識を常に持たなくてはならないということを改めて指摘された感がありました。

*クレフェルトさんについては、近日中に発売予定の 「戦略論の名著」 (野中郁次郎編著 中公新書)にも取り上げられています。

戦略論の名著 - 孫子、マキアヴェリから現代まで (中公新書 2215)

坂城町長 山村ひろし

(第1回トポス会議)

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(第2回トポス会議)

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ちくま手話サークル

 昨日(4月20日)午前10時半から、千曲・坂城両地区で活動されておられる「ちくま手話サークル」(会長:中村嘉子さん)の総会が埴生公民館で開催され、坂城町社会福祉協議会塚田事務局長ともども出席しました。


中央:会長の中村嘉子さん

 ちくま手話サークルは今年で42回目の総会を迎えましたが、もともとは坂城からスタートしたそうです。
 現在の会員数36名のうち坂城は7名です。
                     
 坂城で開催される種々の講演会などでの手話サービスにはこの会のメンバーの皆さんに大変お世話になっています。
 
 坂城でも毎週土曜日午後1時半~3時、坂城文化センター2階で定例会を開催されています。
                                         
 最近は高齢になって耳が不自由になり手話を勉強される方が増えているそうです。
                           
坂城町としてももっと積極的に取り組みたいと思っています。
                                               
                   
                          
 坂城町長 山村ひろし

坂城町交通指導員会長の中嶋博隆さんの表彰

本日(4月17日)、坂城町交通指導員会長の中嶋博隆さんが長野県交通安全運動推進本部顕彰を受賞され、坂城町役場へそのご報告にお出でになりました。

中嶋博隆さん01

右側:中嶋博隆さん

中嶋博隆さんは、平成4年から20年にわたって坂城町交通指導員会長をなされ、毎日、毎日、小・中学生の朝の通学時や夕方の帰宅時に、交通指導を行われておられます。

本日も南条少学校の交通安全教室でご指導いただきました。

今回の受賞は、これまでの素晴らしい貢献・功績が評価されたことによるものです。

今後ともご活躍のほどよろしくお願いいたします。

坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 第11回目 初代坂城藩主板倉重種

「坂城の100人」第11回目は初代坂城藩主板倉重種です。
                            
 以下、鉄の展示館宮下学芸員に記述していただきました。
 ちなみに、2代目(最後の坂城藩主)板倉重寛については、別途、掲載させていただきます。
 
坂木藩初代藩主「板倉重種」 
寛永18(1641)年〜宝永2(1705)年
                    
                       
坂城駅前にある「坂城陣屋跡」説明(坂城町教育委員会)
         
 
 徳川譜代の名門として名高い板倉氏は、江戸時代ここ坂城町に成立した坂木藩の藩主として、一時期この地域を支配した当地と大変ゆかりのある家で、今回紹介する板倉重種は、その初代藩主にあたります。
 
 重種を紹介する前に、まず、板倉氏と坂木藩について簡単に説明したいと思います。
板倉氏は、幕府草創期、西国大名対策や対朝廷政策の中枢を担った初代京都所司代板倉勝重が直接の祖となります。勝重の子孫はその後、4つの大名家と2つの旗本に分かれ、幕閣の最高位である老中や幕府の重役を代々つとめるなど、徳川幕府を支える重鎮として江戸時代を歩みました。
                                    
 その板倉氏のなかで勝重の二男である重昌を祖とする重昌流三代目の当主板倉重種が、天和2(1682)年2月、武蔵国岩槻(埼玉県岩槻市)から信濃国坂木(坂城町)へ国替えとなり、ここに坂木藩5万石が成立しました。当時、信濃国内で5万石といえば、松代、松本、上田に次ぐ所領規模であり、坂城町はその本拠地となったのです。
 しかし、翌年5月、重種は隠居し、5万石は2つに分割され、坂木藩は重種の長子重寛により3万石として存続することとなります。
 板倉氏は城の無い坂木の地で前代から使用していた坂木陣屋を政庁として支配を行いますが、20年後の元禄15年(1702)12月、板倉氏は幕府の命で坂木から陸奥国福島(福島県福島市)へと国替えを命じられ、ここに坂木藩の歴史は幕を降ろすこととなります。
 
 以上見てきたように、板倉重種の坂木藩主時代は僅か1年3か月という短い期間であり、40歳そこそこで隠居してしまった背景には大きな理由がありました。
 
 板倉重種は、重昌流二代板倉重矩の三男として寛永18(1641)年に生まれました。旗本の叔父重直の養子となっていた重種は、寛文12(1672)年、兄重良の廃嫡により跡継ぎとなり、翌年5月、父重矩の死により家督を相続し、上野国烏山(栃木県那須烏山市)5万石の藩主となります。
                    
 延宝5(1677)年6月、奏者番兼寺社奉行となった重種は、同8年9月、五代将軍徳川綱吉によって老中へ抜擢され、翌年2月には1万石の加増によって武蔵国岩槻藩へ国替えとなり、同年8月、綱吉の長子徳松付の老中=西丸老中を拝命しました。しかし、西丸老中就任の3ヶ月後、綱吉は重種の老中職を免じ、外出禁止の逼塞処分とします。そして、翌天和2(1682)年2月、重種は1万石を収公(没収)され、信濃国坂木への国替えを命じられ、蟄居(謹慎・外出禁止の処分)の身となります。
                          
 ここに坂木藩5万石が成立し、信濃六郡(埴科・水内・高井・佐久・小県・伊那)を本領として、上総国山辺・市原郡及び三河国幡豆郡の一部をその支配下におきました。
しかし、翌天和3年5月、重種は幕府に隠居を願い出ると、坂木藩5万石は重種の長子重寛に3万石、甥の重宣(兄重良の子)に2万石が分知され、坂木藩は重寛によって継承されます。
                         
 重種が老中を罷免され、「老中の城」として関東の要だった岩槻城主から無城の主へ急転していった理由は、重種の後継を巡る争いが原因でした。重種は、養子としていた甥の重宣ではなく、分家に出していた長男重寛を跡継ぎにしてしまったことから、家中が両派に分かれて争う御家騒動となり、それが原因で将軍綱吉の機嫌を損ね、重種が罷免されたといわれています。
 そのため、重種は自らが隠居して、家中を二分することでなんとか事態の収拾を図り、御家の安泰につなげたものと考えられます。
                   
 こうして、坂木藩は5万石から3万石となって再出発することとなりました。
                 
 (以上は、鉄の展示館 宮下修 学芸員の寄稿です)
                   
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 坂城町長 山村ひろし

名沢川お花見会

 昨日(4月13日)、四ツ屋区の名沢川お花見会に参加しました。

四ツ屋区名沢川 さくら愛好会(坂下嶺夫会長)の皆さんが30年がかりで整備されてこられた名沢川沿いの桜が見事に咲き地元の方々と花見を楽しみました。

また、坂城幼稚園ゆり組(年長)の皆さんも参加し、きれいな歌声を聴かせていただきました。

坂城幼稚園の園児たち

「さくら さくら」「春の小川」「故郷」「小さな世界」を披露

素晴らしい桜の風景

「はにしな寮」でも歌の披露をする園児たち

                                                  

坂城町長 山村ひろし

3Dプリンタービジネス

本日(4月11日)の日経新聞朝刊の特集記事に 「ものづくり未来図」 (下)レーザーで産業革命 3D印刷機で金型量産  という記事ども紹介されています。

3DCAD、3Dプリンターを使ったあらたなビジネスが第3次産業革命の引き金になるという動きが米国を中心に起こっています。

坂城町でもこれを指をくわえて見ているわけには参りません。 

この動きに対応して、坂城町でも真剣に取り組まなければなりませんが、すでにこの 「第3次産業革命」 に取り組んでおられる会社が現れています。

本日、中之条にある 「トレソル」 (藤岡潤一社長)さんをお邪魔しました。

「トレソル」さんは、3D(3次元)プリンターを使い、造形・試作業務を行われている会社です

http://www.3d-tresol.com/

早速、坂城町の町章を作っていただきました。

3Dプリンターで作っていただいた、坂城町章(直径3センチ)です。製作時間は10分程度。

藤岡潤一さんと右側にあるのが3Dプリンター

3Dプリンターで作った名刺入れ

「金型」製作を行っている企業の多い坂城町です。

この 「第3次産業革命」 の波に飲み込まれないよう、積極的に取り組む施策を推進したいと思います。

坂城町長 山村ひろし 

春の全国交通安全運動

本日(4月10日)、春の全国交通安全運動の一環として、朝7時に田町交差点で交通安全指導を行いました。

今年の春の全国交通安全運動は平成25年4月6日(土)から15日(月)まで実施されます。

左:挨拶する山村

千曲警察署山口署長

千曲交通安全協会坂城塩野入支部長

ドライバーの皆さんへの交通安全のパンフレット等の配布

この後、中嶋交通指導員会長とともにパトカーに乗り、町内を巡回しました。

坂城町では一昨年末に南条で死亡事故が発生し、その後、484日間無死亡が続いています。

無死亡事故1,000日を目標に、交通安全運動に注力してまいります。

なお、坂城町の各区域での無死亡事故期間は以下の通りです。

南条地区:484日、坂城地区:931日、中之条地区:2,721日、村上地区:3,810日

村上地区では10年以上、死亡事故が発生していません。素晴らしいですね。

坂城町長 山村ひろし

竹内希さんから 「ザンビアだより(第6回)」

坂城町南条出身の竹内希さんがザンビアへ行かれてから約10ヶ月が経ちます。

ザンビア便り(第6回)が届きました。

元気で活躍の様子が伺えます。

以下、坂城町のホームページから。

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ザンビアだより~ 平成25年4月 竹内希

ザンビアだより第6回01

「いただきます」の幸せ

寒い時期も終え、4月は新生活が始まる季節ですね。入学式、入社式などお祝いの席が多く、なんだか外に出たくなる気持ちが懐かしいです。ザンビアは雨季が終わり始め、畑に咲くトウモロコシが枯れ始めました。どちらかというと秋のような風景です。3月31日、4月1日はEaster Dayで、ザンビアは祝日でした。Easter Dayというのは、キリストの復活をお祝いする日です。ほとんどがキリスト教徒のザンビアでは、大切な日の1つとされています。そして、祝日と土日が重なって、先週末は4連休でした。その間に同期隊員が私の任地まで遊びに来てくれました!!

私の任地は、首都からとても離れています。しかも、私の任地より先は進入禁止区域(協力隊のみ)なので、なかなか人が来る機会はありません。久しぶりの訪問客にとてもウキウキしました。友人が何時間もかけて移動をし、私の家に着いたのは既に16時くらい。久しぶりにみんなで夕食を食べ、他愛もない話をして語り合いました。次の日は、マーケットで買い物、私の学校訪問、滝を見に行き、夜はまたみんなで夕食を食べました。友人が持って来てくれた稲荷寿司用の油揚げと、私が日本から持って来ていた五目ずしの素を使って稲荷寿司を作りました。本当に、本当に美味しかったです!!みんなで美味しさを分かち合いました。

ザンビアだより第6回02

そして何と言っても、ご馳走を前にみんなで声を揃えて「いただきます!!」と言った瞬間が幸せでした。誰かが合図をするわけでもなく、自然と心の底から出てきた言葉。それがぴったりと合ったあの瞬間に感動を覚えました。日本では、1人暮らしをしていたとしても友人と食事をする機会はあるので、自然といつでも一緒に「いただきます」と言っていました。一方、こちらの習慣では、食べる前にキリストにお祈りをします。最後にみんなで「アーメン」と言ってから食べ始めるのですが、私もこちらの習慣に慣れていたため、いただきますと大勢の人と声を揃えて言う機会はほとんどありませんでした。

「いただきます」という言葉には、どのような意味が込められていると思いますか? 食べ物に感謝をすること、作ってくれた人に感謝をすること、一緒に食べる(生きる)喜びを分かち合うこと、日本人(仏教徒)であること。たった、6文字の言葉にこれだけの意味が込められていることに気づきました。まだまだ他の意味が込められているかもしれません。ぜひ、みなさんも「いただきます」の意味を考えてみてください。そして、みんなで声を合わせて言う「いただきます」の幸せを、今一度噛みしめて欲しいと思いました。

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坂城町長 山村ひろし

急行「さかき」出発

旧国鉄時代に造られた「169系」車両は、現在、しなの鉄道のみが所有している車両です。

このたび老朽化のために廃車されることになりましたが、その車両を坂城駅に永久保存することになりました。(静態保存と言うそうです。)

4月末まで「さよならラン」を行いますが、それを記念して昨日(4月6日)坂城駅プラットフォームでセレモニーがありました。

雨にもかかわらず、全国から鉄道ファンが多く押し寄せました。

また、坂城駅から軽井沢駅に行く途中でも多くの方々が沿線の写真スポットで待ち構えておられました。

なお、坂城駅に設置される車両は、169系の第1号機を含む3両編成で、大変貴重な車両です。(設置時期は6月初旬)

                                                  

挨拶する山村

以下、坂城町ホームページをご覧ください。

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169系急行さかき01

4月6日(土)、169系S51編成坂城駅静態保存を記念して、坂城駅~軽井沢駅間を往復する本日だけの特別列車169系急行「さかき」が運行されました。

本日はあいにくの天気となりましたが、この急行「さかき」に乗ろうと大勢のお客様が坂城駅に詰めかけました。なかには鉄道愛好家の方もたくさんいらっしゃり、列車の姿をカメラにおさめる方でホームは溢れかえりました。

169系急行さかき07-08

出発式には、昨年のしなの鉄道のポケット時刻表の表紙に写真を使用された佐久長聖中学校2年生の常盤亮次さんと山村町長、宮下副町長がしなの鉄道の制服に身を包んで出席されました。セレモニーでは、しなの鉄道代表取締役の藤井武晴さんの挨拶の後、出席者によるヘッドマーク、行き先、愛称札の装着式が行われ、ねずこんと酒井戸倉駅長の「出発進行!」の合図のもと、列車は走り出しました。

▼出発式の様子

169系急行さかき02-06

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坂城町長 山村ひろし

「坂城の100人」 第10回目 松尾芭蕉

「坂城の100」も第10回目となりました。

今回は大物の登場で、松尾芭蕉です。

芭蕉も坂城に大いに関係があります。

松尾芭蕉は、「更科紀行」にあるように、貞享5(1688)年8月15日に姥捨(現千曲市)に到着し、現坂城でも句を残しました。 更科には三日ほど滞在したようです。

 *更科はかつては更級郡として、明治初期には26村、1町を有する大きな郡でしたが、町村合併の結果、郡は消滅しています。 地域としては長野市の一部、千曲市の一部、坂城町の一部(村上)です。

                         

(以下、 「笈の小文・更科紀行・嵯峨日記」:上野洋三編を参考にさせていただきます)

芭蕉は貞享4年(1687年)10月、江戸を出発して伊賀へ向かいます。

伊賀藤堂藩より 「今明年中に故郷へ帰り、役人共へ つらみせ可仕候」との命が出ていたためです。

藤堂藩は他国に出て生活している領民に対して 「5年目には故郷に戻るよう」 命じていたのです。

この命をうけ、芭蕉は伊賀上野に戻りその帰路、吉野、高野山、紀三井寺、和歌の浦、奈良を経てさらに大阪に入り、兵庫、須磨、明石を訪れています。

さらにその後、京に入り、岐阜、大津にとどまり、瀬田の蛍を見て 「この蛍 田毎の月に くらべみん」 の句を残しています。

この頃すでに、秋の名月を更科の姥捨山で見たいという気持ちが強くなったようです。

「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云ふ。」

 (かの更科の里・姥捨山の名月を見ようということを、しきりに勧める秋風が、心の中に吹き騒いで、私の心を落ち着かさせない。同様に風雅心ゆえに浮かれ立ったのが、もうひとり居て、その名を越人という。)(越人:越智十蔵。尾張の蕉門)

                 

貞享5(1688)年8月15日、芭蕉は、越人ととも姥捨山へ夜分、到着します。

 以下、更科の地に関する句を4句紹介します。

 まずは、越人の句から

 「さらしなや三よさの月見雲もなし」 

 *好天に恵まれて三晩も続けて素晴らしい月を見たようですね

                     

 芭蕉の句

 「俤(おもかげ)や姥ひとりなく月の友」

 *その場には姥はいませんが、姥を捨てた息子の気持ちが察せられるようなすごい感情が感じられますね。

                      

 「いざよいもまださらしなの郡哉」(いざよいも まださらしなの こおりかな)

 *姥捨山で素晴らしい名月を見た後、次の日の十六夜にもまだ去り難い思いで更科にとどまっていて、名残惜しさが強烈ですね

「十六夜もまだ更科の郡かな」の句碑。

坂城町網掛の 十六夜観月殿 脇

「十六夜」の裏面

桃青(芭蕉の号)霊神

十六夜観月殿

                

                      

 「身にしみて 大根からし 秋の風」

 *坂城特産の「ねずみ大根(辛味大根)」を芭蕉が句に詠んでいるのがすごいですね。はたして、おしぼりうどん、あるいは蕎麦として食べたのか、大根をそのまま切り身で食べたのか不明ですが、姥捨を訪れた後、秋風の中いろいろ見にしむものがあったのだと思います。

坂城のねずみ大根(辛味大根)

おしぼりうどん

「おしぼりうどん」

  坂城町振興公社ホームページより                      

 

国宝・重要文化財(美術品)「更科紀行」
沖森本:芭蕉紀行文の現存唯一の草稿本
(文化遺産オンラインより)
                   

   

                                  

 坂城町長 山村ひろし