老子の続き(第72章)

この章は 「愛己」 と題されることがありますが、まさに自己を愛する者は、己を知り、誇らず、謙虚でなければならないと説いています。

 民不畏威、大威至矣。 無狭其所居、無厭其所生。 夫唯不厭、是以不厭。 是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。 故去彼取此。

                                 

 民、威(い)を畏(おそ)れざれば、大威(たいい)至らん。 其の居る所を狭しとする無く、その生くる所を厭(いと)ふこと無し。 夫れ唯(た)だ厭はず、是を以(も)って厭はれず。 是を以って聖人は、自ら知りて自ら見(あら)はさず、自ら愛して自ら貴(たっと)くせず。 故に彼(か)れを去りて此(こ)れを取る。

                           

 人々が天威を恐れず思い上がってしまうと、かならず大きな天罰が起きます。 人々が自分の住むところが狭い、などと我儘を言わず、自分の生き方を厭(いと)わなければ天から厭われることもありません。 聖人と言われる人は自らをよく知り、自らを見せびらかしたり威張ったりしません。 驕慢を去り、道にしたがって無為自然の生き方をするのです。

                            

 この章は短いですが、なかなか難解な箇所があり諸説の解釈があります。 私はごく自然に 「愛己」 とは何かという考えで訳しました。 本当の意味で「自分を愛する」 とは何かを考えると、己に対して正直に 「無為自然」 に生きることだと思います。

                                      

 坂城町長 山村ひろし                

 

老子の続き(第71章)

 この章は大変短い章ですが、誠に重要なメッセージを送っています。

 「知らぬことを知る」 ということです。 「中途半端に知っているつもり」ということは大変危険なことですね。

                      

 知不知上。 不知知病。 夫唯病病、是以不病。 聖人不病、以其病病。 是以不病。

                               

 知りて知らずとするは上。 知らずして知れりとするは病(へい)。 それ唯(た)だ病を病とす。 是(ここ)を以(も)って病(へい)せず。 聖人病せず。 其の病を病とするを以ってなり。 是を以って病せず。

                                  

 自分で分かったと思ってもまだまだこれでは不十分だとするのが最もよく、良く分かっていないのに知ったかぶりをすることは甚だ良くないことです。 このように自分の短所あるいは不十分なことを自覚することが大切です。 このようにすればこの欠点も欠点でなくなります。 従って聖人と言われる人はこの点を十分理解しているので欠点がないのです。 その欠点を欠点として自覚しているからなのです。 そのために問題点を持つことが無いのです。

                     

 「知りて知らずとするは上」 素晴らしい言葉ですね。

 常に謙虚にひたすら勉強。

 心がけたいものです。

             

                             

 坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第70章)

この章も凄いですね。

世の中の人に 「 自分の事を理解してもらえない、分かってもらえない。 だからこそ価値があるのだ」  とまで言っています。

 吾言甚易知、甚易行、天下莫能知、莫能行。 言有宗、事有君。 夫唯無知。 是以不我知。 知我希、則我者貴。 是以聖人、被褐懷玉。

                                

 吾が言は甚(はなは)だ知り易(やす)く、甚だ行ひ易きも、天下能(よ)く知る莫(な)く、能く行ふ莫し。 言(げん)に宗(そう)有り、事(こと)に君(きみ)有り。 夫(そ)れ唯だ知る無しとす。 是(ここ)を以(も)って我れを知らず。 我れを知る希(な)ければ、則(すなわ)ち我れは貴(たふと)し。 是を以って聖人は、褐(かつ)を被(かうむ)りて玉(たま)を懐(いだ)く。

                                           

 私の道についての話はまことに分かりやすく、また、はなはだ行いやすいことなのですが、世の中の人々はだれもそれを知らず、それを実行している人もおりません。 私の言葉には本質があり、行っていることにも実態があります。  それがまったく理解されていないのです。 従って私のことも理解していないのです。 しかしながらそれを知っている人が少ないということはそれだけ価値が高いということです。 ですから聖人と言われる人も粗末な衣を着ていても胸の中には玉を抱いているのです。 外からみてもなかなか本質的なことは理解されないのです。

                           

 これは決して老子の自虐的な言ではありません。 胸を張って言わば 「絶対的自由を得る」 境地でしょうか。

 「被褐懷玉」(褐を被りて玉を懐く)。この言葉も重要ですね。

                                

 坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第69章)

この章も老子の兵法の続きになりますが、すごいところは 「先攻するものが勝つのではなく、襄(ゆずる)者が勝つ」 という徹底した哲学ですね。

                                    

 用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。 是謂行無行、攘無臂、扔無敵、執無兵。 禍莫大於輕敵。 輕敵幾喪吾寳。 故抗兵相加、襄者勝矣。

                             

 兵を用うるもの言へる有り。 吾(わ)れ敢えて主(しゅ)と爲(な)らずして客(きゃく)と爲り、敢えて寸(すん)を進まずして尺(しゃく)を退く。 是(こ)れを行くに行くところ無く、攘(はら)ふに臂(ひぢ)無く、扔(つ)くに敵無く、執(と)るに兵無くしと謂(い)ふ。 禍(わざわひ)は敵を輕んずるより大なるは莫(な)し。 敵を輕んずれば幾(ほと)んど吾が寳を喪(うしな)はん。 故に抗兵(かうへい)相い加(くは)ふるときは、襄(ゆず)る者勝つ。

                        

 用兵について次のように言われていることがあります。 みずから決して攻撃を仕掛けてはならない。 むしろ応戦者の立場をとるべきですと。 あえて、一寸を進むのではなく一尺を退くのです。 このようにしていれば向かうところに敵がいるわけではなく、袖を振り上げても肘を払うこともなく、しかける相手もなく、武器をとることもありません。 敵のことを考えず仕掛けることは大変危険なことです。 敵を軽んじて戦をすれば自ら大切なのものを失ってしまいます。 従って、敵と相まみえるときは敵のことを十分に考え謙虚に行動するものが最終的には勝利を治めることが出来るのです。

                      

 孫子の兵法の原点ですね。日常の生活、ビジネス、政治においても大いに参考にしたいものです。

                          

 坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第68章)

これからしばらく、老子の「戦争論」がいくつか続きますが、人間としての生き方についても大いに参考になりますね。

 善爲士者不武。 善戰者不怒。 善勝戰者不爭。 善用人者爲下。 是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天。 古之極。

                          

 善く士たる者は武(たけだけ)しからず。 善く戰う者は怒らず。 善く戰に勝つ者は爭はず。 善く人を用ふる者は下ることを爲す。 是を不爭の徳と謂(い)ひ、是を人を用ふるの力と謂い、是を天に配(はい)すと謂ふ。 古えの極(きょく)なり。           

すぐれた武士は決して猛々しくありません。 すぐれた戦士は怒るということはありません。 戦い方のうまい人は決して正面切って争うことはしません。 人使いのうまい人は謙虚に振る舞います。 これらを不争の徳と言い、あるいは人使い力とでも言い、あるいは天の合理に合うとも言います。 これらは昔からの道の極致なのです。
                             
            
「不争の徳」 という言葉も重要ですし、実力者であればあるほど謙虚であるということも言えますね。
                            
                        
坂城町長 山村ひろし
                                         

老子の続き(第67章)

この章では老子の「三寳」(さんぽう 三つの宝)について述べています。

一般的には仏教での三宝(佛・法・僧)のことを言いますが、老子は「慈、儉、先とならず」の三つを言っています。

 天下皆謂我道大似不肖。 夫唯大故似不肖。 若肖、久矣其細。 夫我有三寳。  持而寳之。 一曰慈、二曰儉、三曰不敢爲天下先。 慈故能勇。 儉故能廣。 不敢爲天下先、故能成器長。 今舍慈且勇、舍儉且廣、舍後且先、死矣。 夫慈以戰則勝、以守則固。 天將救之、以慈衛之。

                           

 天下皆我が道を大にして不肖(ふしょう)に似たりと謂(い)ふ。 夫れ唯(ただ)大なるが故に不肖(ふしょう)に似たり。 若(も)し肖(に)なば、久しいかな其の細(さい)たること。 夫れ我れに三寳(さんぼう)有り。 持(じ)して之を寳とす。 一に曰(いわ)く慈(じ)、二に曰く儉(けん)、三に曰く敢えて天下の先(せん)と爲(な)らず。 慈なるが故に能(よ)く勇(ゆう)なり。 儉なる故に能(よ)く廣(くわう)なり。 敢えて天下の先と爲らず、故に能く器長(きちゃう)を成す。 今慈を舎(す)てて且(まさ)に勇ならんとし、儉を舎てて且に廣くあらんとし、後(おく)るるを舎てて且に先んぜんとすれば、死せん。 夫れ慈以(も)って戰えば則(すなわ)ち勝ち、以って守れば則ち固し。 天將(まさ)に之を救はんとす。 慈を以って之れを衛(まも)らん。

                            

 

天下の人々は皆、私(道のありかた)をでかいだけでろくでなしのようだと言います。 しかし大きく普通とは違っているからこそ大きな存在となれるのです。 もしこじんまりと普通の人物ならばいかにも小さな存在でしかありません。 私にはいつも大切にしている道としての三つの宝があります。 一つは慈、母性愛です。 二つ目は倹つまりつつましく控えめにすること、三つ目は天下の先頭に立とうとしないことです。 慈、つまり母の愛こそいざとなれば大変な勇気を発揮することがあります。 倹、つまりいつも控えめに倹約を心がけていれば広く分け与えることも出来ます。 また、あえて人民の先頭に立とうとしなければ、むしろ皆から推されて結局、指導者に推戴されることになるのです。 それを逆に、慈をすてて武勇で突き進もうとしたり、つつましやかにすることなく無理にあちこち手を出したり、後ろに控えるのを忘れ無理に先頭に立とうとするならば無理がたたり死にいたることになってしまいます。 慈愛の心をもって戦えば勝ち、これで守れば堅固な守りが出来ます。 天はまさにこのような人物を救うのです。 天は慈愛のこころをもって守ってくれるのです。
                                          
                         
                      
「不肖の息子」などと言いますね。 親と似ないどうしようもない息子の事を言いますが、ここでは、むしろ「不肖」の方が良い。 「不肖」くらいでないと人並みのちっぽけな人間になってしまうと言うのです。
なかなか厳しいですね。
                          
                        
坂城町長 山村ひろし 

老子の続き(第66章)

この章にはよく、「後己」 というタイトルが付けられます。 まさに大人物であればあるほど、「己を後ろにする」 ということです。

 江海所以能爲百谷王者、以其善下之。 故能爲百谷王。 是以聖人欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。 是以聖人處上而民不重。 處前而民不害。 是以天下樂推而不厭。 以其不爭故天下莫能與之爭。

                                     

 江海(かうかい)の能(よ)く百谷(ひゃくこく)の王たる所以(ゆえん)の者は、其の善く之に下るを以(も)ってなり。 故に能く百谷の王爲(な)る。 是(ここ)を以って聖人民に上(うへ)たらんと欲せば、必ず言(げん)を以って之に下る。 民に先(さき)んぜんと欲せば、必ず身を以ってこれに後(おく)る。 是を以って聖人上に處(お)るも民重(おも)しとせず。 前に處るも民害(がい)せず。 是を以って天下楽しみ推(お)して厭(いと)はず。  其の爭はざるを以っての故に天下能(よ)く之と爭う莫(な)し。

                                               

 

大河や海がもろもろの河の王と言われるのはひたすらその下流にとどまっているからです。 下流にいてすべてを受け止めているからこそ河の王と言われるのです。 このように聖人と言われる人も、人民の上に立とうとするならば必ず謙虚な言葉遣いでへりくだり、人民の先に立とうとするならばむしろ人民の後方に控えているものなのです。 それなので、人民は聖人が上にいても重みを感じず、前にいても邪魔だとは思わないのです。 結果として、天下の人々は進んで彼を指導者として推戴することになるのです。 誰とも争うことをしないので天下中の誰も敵対しようとはしないのです。
                                           
                     
まさに、「無為自然」 であればこそ 「不爭謙下」 であるのですね。
                                          
                             
坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第65章)

この章は、一見、「愚民政治」を推奨しているかのようですが、そうではなく、老子が一貫して主張している 「小利口な」 「小賢しい」 人間ばっかり増やしてはいけないということです。

古之善爲道者、非以明民。將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊、不以智治國、國之福。知此兩者、亦楷式。常知楷式、是謂玄徳。玄徳深矣遠矣、與物反矣。乃至於大順。

                                           

 古えの善く道を爲(をさ)むる者は、以(も)って民を明らかにするに非ず。 將に以ってこれを愚(ぐ)にせんとす。 民の治め難(がた)きは、その智の多きを以ってなり。 智を以って國を治むれば、國を之れ賊(ぞく)し、智を以って國を治めざれば、國を之れ福す。 此の兩者を知るも、亦(また)楷式(かいしき)なり。 常に楷式を知る、是(これ)れを玄徳(げんとく)と謂(い)ふ。 玄徳は深く遠し。 物と反(はん)す。乃(すなわ)ち大順(たいじゅん)に至る。

                                    

 

昔の、道を極めた人は人々を智にたけた人民にしようとはしませんでした。むしろ素朴な心をもった人々を育てようとしたのです。 知識偏重の国民ばかりでは統治をすることは甚だ困難になってしまいます。 才知をもって国を治めようとするのは害を増やすことになってしまいます。 その反対を行えばかえって問題が少なくなります。 この両者の関係を知ることは大事な原則です。 常に原則に則っていく、これを玄徳と言って奥深く深遠な考え方なのです。 常に根本的な原則に戻る。 これが大きな自然の大原則である大順(大きな自然の流れ)に行きつくことになります。
                                
                                     
かつて良寛は自らの号を大愚とし「大愚良寛」としています。 「愚」とはまさに無爲に生きるということですね。 今の政治、教育のあり方を老子先生は何と見ているのでしょう。
                                        
                 
坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第64章)

この章には重要なメッセージが多く含まれています。

1.「第一歩の重要性」 2.「無為」の大切さ 3.「終わりを慎む」 です。

いささか長文ですがお付き合いください。

 其安易持、其未兆易謀。 其脆易破、其微易散。 爲之於未有、治之於未亂。  合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。 爲者敗之、執者失之。 聖人無爲、故無敗。 无執、故無失。民之從事、常於幾成而敗之。 愼終如始、則無敗事。 是以聖人欲不欲、不貴難得之貨。 學不學、復衆人之所過。 以輔萬物之自然、而不敢爲。

                             

 其の安きは持し易(やす)く、其の未(いま)だ兆(きざ)さざるは謀(はか)り易し。 その脆(もろ)きは破り易く、其の微(び)なるは散じ易し。 之を未だ有らざるに爲(をさ)め、之(こえ)を未だ亂(みだ)れざるに治む。 合抱(がふほう)の木も毫末(がうまつ)より生じ、九層の臺(うてな)も累土(るいど)より起こり、千里の行(かう)も足下(そっか)より始まる。 す者は之を敗り、執(と)る者はこれを失う。 聖人は、無爲なり。 故に敗るること無し。 執ること无(な)し、故に失うこと無し。 民の事(こと)に従うや、常に幾(ほと)んど成るに於(お)いてこれを敗(やぶ)る。 終りを慎しむこと始めの如くなれば、則(すなわ)ち事を敗る無し。 是(ここ)を以って聖人は欲せざるを欲し、得難(えがた)きの貨(くわ)を貴ばず。 學ばざるを學び、衆人の過ぐる所に復(かえ)る。 以って萬物の自然を輔(たす)けて、敢えて爲さず。

                                  

 

物事の安定しているうちは維持しやすく、まだ兆しの無いような状態なら対処がしやすいものです。 また、物事がもろいうちならばこなごなにすることもできます。 かすかなうちは散逸させてしまうこともできます。 物事のまだあるのだかわからないようなうちに対応し、乱れる前に治めてしまうことが大切なのです。 ひと抱えもあるような大きな木も毛先のような芽から発達するのだし、九階建ての大きな建物も小さな積み土から作られます。 千里の道も足元の一歩から始まります。 このような小さな一歩に気づかず欲望にかられ物事を行うものは失敗します。 また、同じように何かに執着するものはそれを失います。 一方、聖人は常に無為の状態にあので、決し失敗することはないのです。  さかしらに何かに執着することが無いので物事を失うこともないのです。 ところが反対に、普通の人はあと一歩のところで失敗してしまうことが多いのです。 終わりの段階でも初心を忘れなければ失敗することはありません。 そのようなことから、聖人は欲しないということを欲し、得難い財宝などを欲せず、学ばないということを学び、普通の人の通り過ぎた道という原点に立ち返るのです。 万物の自然の生き方を補佐して何事も必要以上に手を出すことをしないのです。
                              
                   
通俗的な価値観との違いを述べていますが、正に老子の真骨頂だと思います。 鑑にしたいものです。
                             
                 
坂城町長 山村ひろし

老子の続き(第63章)

「爲無を爲(な)す」。 まさに老子のキーワードですね。 「爲無自然」、ことさらに余計なパフォーマンスなどせずに大自然の中、本質を極めじっと見守る。 そうすれば物事の本末、終始が見えてきます。 トラブルも始まりを見極めれば小さな火種のうちに収めることもできます。

 爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事、必作於易、天下大事、必作於細。是以聖人終不爲大。故能成其大。夫輕諾必寡信。多易必多難。是以聖人猶難之。故終無難。

                               

 無爲を爲(な)し、無事を事(こと)とし、無味(むみ)を味わう。 小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以(も)ってす。 難(なん)をその易(やす)きに圖(はか)り、大を其の細(さい)に爲(をさ)む。 天下の難事(なんじ)は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は、必ず細より作(おこ)る。 是(ここ)を以って聖人は終(つい)に大を爲さず。 故に能(よ)く其の大を成す。 それ軽く諾(だく)するものは必ず信(まこと)寡(すくな)し。 易(い)とする多ければ必ず難きこと多し。 是ここを以って聖人は猶(な)ほこれを難しとす。 故に終(つい)に難きこと無し。

                           

 

ことさらに何かを行おうと行動したりせず、静かに見守ることに徹し、何の味もないものを味わうような境地こそ大切なのです。 小さいものを大きいものとし、少ないものを多いものとし、怨みに対してさえ徳をもって対応するのです。 そのような態度でいれば、いろいろなトラブルをまだそれが小さいうちに発見し解消することができます。 世の中の大事件は必ず小さなことから発展します。 この点からも聖人と言われている人は小さなことから慎重に対応するため、決して大きな苦労をすることなく大事業をなすことが出来るのです。 安請け合いをする人には大体、信頼を置くことが出来ません。  たやすいと思っていると困難なことが多いのです。 従って、聖人と言われる人はすべてのことを困難なこととして対応するのです。 その結果、困難なことは無くなるのです。
                               
                        
昨今の日本を取り巻く政治情勢を見るにつけ、つまらぬパフォーマンス、さかしらな行為を厳に慎み、物事の本源を常に見極め、行動したいものですね。
                                       
                   
坂城町長 山村ひろし