老子の続き(第10章)

この章では徳を体得した、聖人と言われる人の行いについて述べています。 無為の心で人々を愛し、指導者になっても我が物顔にならない元徳のあり方について書いていますが、なかなか現実の世界では難しいですね。 日本にもこのような指導者が欲しい。

   載營魄抱一、能無離乎。專氣致柔、能嬰兒。滌除玄覽、能無疵。愛民治國、能無為。天門開闔、能爲雌。明白四達、能無知。生之畜之、生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。

  

  営魄(えいはく)に載り一を抱いて、能(よ)く離るること無からん。 気を専(もっぱら)にし柔(じゅう)を致して、能く嬰児たらん。 玄覧を滌除(てきじょ)して、能く疵無からん。 民を愛し国を治めて、能く無為ならん。 天門開闔(てんもんかいこう)して、能く雌たらん。 明白四達にして、能く無知ならん。」 之を生じ之を畜ひ、生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず。 之を玄徳と謂う。 

   

      私たちは聖人のように、精神と肉体を一体化させ心が迷うことの無いようにすることが出来るでしょうか。 気を集中して力を抜き、まるで赤ん坊のように柔軟でいられるでしょうか。 奥深い心の鏡を磨き上げ一点の曇りない心構えでいることが出来るでしょうか。 人々を愛し国を治めてなおかつ無為の状態でいることが出来るでしょうか。 天門を開いていろいろなものを創り出しながら静かに雌のように穏やかでいられるでしょうか。 隅から隅までよく分かっていながらまるで知らないような態度をとることが出来るでしょうか。

 このようにいろいろなものを創り上げ育てていながら自分の物にすることも無く、大きなことを為しても何かを頼むわけでもなく、指導者になっても我が物顔にはならないのです。 これを玄徳と言い聖人の徳のあり方を示しています。

    

    これはまさに、老子の掲げる理想の人物像ですね。

 

  坂城町長 山村ひろし