「坂城の100人」 8人目は鼠宿出身の力士 万力和蔵 です。
力士 万力和蔵(中村和蔵)
1823(文政6)~1858(安政5)年
江戸時代の信州の力士というと、東御市(旧東部町)出身の雷電為右衛門を思い出しますが、鼠宿出身で、江戸後期、十両まで昇進した力士、万力和蔵がいます。
和蔵は鼠宿中村与七の次男として生まれ、小さい時から大力の持ち主で、21歳の時に志を立てて江戸に上り、行司の木村庄之助の門下に入り、相撲道に励みました。
弘化2年(1845年)の11月場所で 「矢車和介」 として初土俵を踏み、安政3年(1856年)の11月場所で十両格に昇進し、番付は西幕下5枚目になりました。
矢車和介に始まった四股名は、その後、矢車和蔵、東車和蔵、幕下となった嘉永3年に(1850年)に八十島和蔵と改め、安政3年から 「万力和蔵」 と改名しています。
安政3年(1856年)十両に昇進後、同5年(1858年)には松代藩のお抱え力士となりました。
しかし、十両格になってからは体調不良により成績は振るわず、十両格での出場は3場所だけとなりました。 (残念ながら1勝もできぬまま急逝してしまう。)
この間、和蔵は故郷に錦を飾り、嘉永7年(1854年)に産土神(うぶすながみ)の会地早雄神社(おおち はやお じんじゃ)に江戸大相撲を奉納しましたが、その後、36歳の若さで急逝しました。
以下は万力和蔵が八十島を名乗っていた頃に木村庄之助より相撲免許を得て会地早雄神社で江戸大相撲奉納を許された時の文書です。
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奉献証状之事
信濃国埴科郡鼠宿村・新地村産神
会地早雄神社
此度八十島和蔵心願ニ付御取次太鼓櫓奉納仕候
依之神事祭礼之砌幾久敷可被相用候 依而如件
嘉永七年寅年七月
本朝相撲司御行司
吉田豊後守追風 二十一代
従二位左中将殿家
木村若狭守正規 十三代
五篠殿家 日本角力行司目付
木村庄之助
正輝花押
赤池勧解由介殿
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会地早雄神社(おおぢはやおじんじゃ)
万力和蔵の墓 南条鼡
万力和蔵の墓の裏面
万延元年8月(1860年)とあります
万力和蔵の肖像(芳春画)
(写真:山崎仁さん提供)
八十島(万力)和蔵の略歴(久保草賢書)
(写真:山崎仁さん提供)
ちなみに、昨年、第34代木村庄之助さん(在位2007年5月〜2008年4月)が坂城にお出でになりましたが、三井袈裟喜さん経由でこの色紙をいただきました。
第34代木村庄之助さんの書
「力心一途」
力強くて、力まず、素直な、素晴らしい書ですね。
尚、現役の坂城町出身のお相撲さんは三段目西46枚目の旭鵬山(本名:山崎英旗)です。 こちらの踏ん張りにも期待します。
向こう側:旭鵬山 昨年の金井地区相撲大会での見本相撲
以上、参考資料:「ふるさと探訪」(坂城町教育委員会)
「北国往還ねずみ宿」(山崎仁編) 他
*会地早雄神社の近くの墓地を見ていたら「力士目代 小車幸太郎碑」と書いてありました。 裏面には 松代真田領 とありました。
山崎仁さんのお話では、当時の地元相撲愛好家の小山さんの碑とのことです。
とにかく、相撲の盛んな土地柄ですね。
坂城町長 山村ひろし