「坂城の100人」 9人目は 村上(源)為国

 先日、「坂城の100人」の一番目で源盛清について記述しました。
 久しぶりに昔に戻り、盛清の養子の為国について記述します。
 源為国は初めて村上姓を名乗り、信濃村上氏の始めと言われています。
さて、源為国についても、単に盛清の養子となって信濃村上の地で安穏に生活をしていたわけではありません。
崇徳院に従っていたということから、保元の乱では崇徳院側につくことになり、保元元年(1156年)7月10日には、崇徳上皇・藤原頼長とともに白河北殿に参集することになります。
                     
                      
戦後処理では、その当時禁じられていた斬首の刑が復活され、ことごとくの崇徳院側の貴族、武士が斬首または島流しとなり、崇徳上皇も讃岐に流罪となりました。
                        
あまたの崇徳院側貴族や武将が厳しい処罰を受けた中で村上の親子だけが処分を免れたことについては、源為国が信西の娘と結婚していたことが挙げられますが、それだけでしょうか。 もっと強い理由があったような気がします。
                          

左:信西役の阿部サダオさ
右:平清盛役の松山ケンイチさん
信西は大変な子宝に恵まれ計25人の子供がいました。
*ウィキペディアによる
                        
子供の内訳は、男子が18名、女子が7名だそうです。
                        
信西は大変学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られており、その子のほとんどが貴族、学者となり娘も同系の家に嫁いでいますがその中で唯一、末娘が武士である源為国に嫁いでいます。
                      
源為国は保元の乱ではやむなく崇徳院側に付き信西と対峙することになりますが、一説には参陣したが、ほとんど戦うことなく過ごしたようで、格別の戦はしていなかったようであります。
                           
これからはとんでもない推察かも知れませんが、もしかすると、信西と示し合せ敵側に入ったのでないかと考えられないでしょうか。
                    
それでなくては、大方の敵将がことごとく斬首される中で信西の婿であったという理由だけで、親子でお咎めなしというのはむしろおかしいのではないかと考えますがいかがでしょう。
 また、朝廷内において、為国の養父の盛清の存在も少しは影響しているのではないかと思うのも考えすぎでしょうか。(多分、その頃、生存していても70過ぎと思われますが)
                             
源盛清にしても、源為国にしても不思議な歴史の舞台回しの上に乗り、坂城の村上氏が始まり、信濃村上氏の勢力拡張の基を築いたのです。
                       
 坂城町長 山村ひろし