先日、ある方から昭和7年発行の「坂城町名勝繪葉書」をいただきました。
その方の友人が東京の骨董市で入手されたとのことです。
この絵葉書は10枚セットなのですが、いただいたものは残念ながら9枚のみでした。 (骨董市で買われた際の代金は500円だったそうです。)
しかしながら、この写真を見ると当時の坂城町の風景が如実に分かり大変感激しました。
さらに調べてみると、びっくりしたことに、この絵葉書が単に観光目的で作られたものではなく、その当時大々的に企画された 「村上義光公六百年祭」(没後600年)の一環として、坂城町史跡勝地保存会の事業として推進されたものの一つだということが分かりました。
坂城町史蹟勝地保存会の事業内容
かなりの大事業だったことがわかります。
中段に「坂城町名勝絵葉書」の発行の記述があります。
(坂城町誌下巻歴史編より)
村上義光公六百年祭の様子 (葛尾城址本丸にて)
(坂城町誌下巻歴史編より)
村上義光(よしてる)公については別途、坂城の100人の中で取り上げる予定ですが、簡単にご紹介すると以下のとおりです。
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村上義光(よしてる)
生年不明~1333(元弘3)年
信濃村上氏の一族。村上信泰の子で通称を彦四郎と称したが、後に左馬権頭に任じられた。
元弘の変に護良(もりよし)親王に従い、南都から紀伊国十津川に逃れてこの地の土豪を頼ったが、北条氏の命をうけた熊野別当定遍の探査を避けて十津川を出て、後に吉野山に入って幕府軍の攻撃を防いだ。
元弘3年(1333)年閏2月1日吉野城は落ちたが、この時義光は子の義隆とともに親王の脱出をはかるため、親王の身代わりとなって敵の目前で壮烈な自害を遂げた。
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昭和7年頃は戦時下にあり、坂城町でも国威発揚の国民教化策の一環として「村上義光公六百年祭」 「葛尾城址保存事業」が大々的に「挙町一致」で実施されました。
以下、坂城町名勝繪葉書から表紙を含めて4枚ご紹介します。
絵葉書集の封筒表紙
発売所が「佐藤写真館、山根屋書店」とあります。
「姫城紀記念塔」
山頂右側に白い塔が見えます。私は初めてこのような塔が姫城に作られていたことを知りました。(戦中の物資供給要請により撤去されたそうです)
千曲市磯部側から見た、姫城、葛尾城の風景
磯部の上部の方まで見事に耕作されている様子が見えます。
桑の木でしょうか。いくつかの東屋も見えます。
現在では、全くの山地となっているところです。
坂城町常山堤と昭和橋
常山堤の堤防の様子がはっきりと分かりますね。後方には木造の昭和橋の姿も見えます。 (常山堤については別途詳しく記述する予定です。)
今回、偶然に81年前の絵葉書を拝見し坂城町の「名勝」について大いに思いを馳せました。
これからの町づくりに大変参考になりました。
なお、これらの絵葉書は拡大コピーをし、しかるべき場所に展示したいと思っております。
坂城町長 山村ひろし