坂城の100人、今までは歴史上の人物を中心に取り上げてきましたが、さる、12月22日の日本経済新聞全国版、「熱風の日本史」の中の「御真影 守護に重圧」というテーマで中島仲重校長が取り上げられたということもあり、今回は「坂城の100人」28人目として、南条小学校の校長で大正10年1月6日に同校の火災の際に天皇陛下の御真影を取り出そうとし殉死した中島仲重氏を取り上げます。
平成25年12月22日付日経の記事
中島仲重校長の顕彰碑は南条小学校にあります。
中島仲重校長は明治17年(1884年)中之条村に生まれました。
明治39年に長野県師範学校を卒業、戸倉小学校に勤務、大正2年(1913年)、29歳で南条小学校の校長となりました。
若くして校長になり、全身全霊で教育に打ち込み、大変人望のあった方だったそうです。
今でも、南条小学校のホームページには中島校長が当時力をいれて行った教育活動を以下のように伝えています。
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(南条小学校ホームページより。 中島校長の努力されたこと)
1.社会をよくし、本当に人生を切り開くことのできる実力ある人間をつくる
2.高等科の設置を復活させ、自ら生徒募集に村内を廻り、特に女子生徒の入学をすすめ、教育の実を挙げる。
3.研究の裏づけがあって教育は発展するとし、自身はもちろん職員の研究に大いに熱意を傾ける。
4.同僚職員に対する親身の指導信頼、そして全責任をもって守る。
5.自ら積極的に村民の中に入り込んで教育する。あるときは、婦人会長まで行う。
6.高い見識をもって努力する。
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そんな中での火災。
大正10年1月6日、午後6時半頃、南条尋常高等小学校で火災が発生。
東校舎2階南側から発した火は、2時間にわたって燃え続け、東校舎、南北両袖校舎および小使室など校舎の大半を焼きつくし、教室1棟、雨天体操場1棟、便所1棟を残して、午後8時半ころようやく鎮火した。
火災の状況は以下の通りです。(「坂城町誌」より)
「当日、中島校長が火災警報を聞いて山金井の居宅から学校に駆けつけた時、御真影奉安室にあてられていた東校舎2階の宿直室は、すでに猛煙に包まれていた。南条小学校へは大正4年に大正天皇、翌5年に皇后の御真影が下賜され、厳格な奉護既定のもとにおかれていたが、中島校長はその御真影を守ろうと、階段をのぼり奉安室に達したまま脱出できず焼死したのである。」(享年38歳)
中島校長の焼死は殉職として全国的に社会的な大反響を呼び、全国から弔慰金が集められその金額は総額21,137円に達したという。(「岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』)
岩本務『「御真影に」殉じた教師たち』
その当時の時代背景により、中島校長の殉死は「御真影」の扱いについて大きな影響を与えることになり、「御真影の安全管理は命を賭してでも守る絶対的な義務」となっていきます。
ただし、中島校長の焼死が伝えられる中で、「人と物とは何時の場合も換(か)ゆ可きものではない。畏れ多いことではあるが御真影は物であって中島校長は人である」というような意見もあったそうです。(当時はまだ大正デモクラシーの時代でもあった)
来年度から南条小学校の改築工事が始まりますが、中島校長の顕彰碑のある箇所は「中島公園」として大切に保存されます。
中島校長の殉死の後、各学校には堅牢な奉安殿が作られるようになったのですが、中島校長が生前、村の委員会に切望していたものがまさにそれで、以下の提案文章が残されています。
(中島校長の提言)
設備ヲ要スベキ建物及其内容
一、御真影奉安殿・・・・何モノヨリ先ニ完全の設備ヲ
(「南条小学校百年誌」より)
坂城町長 山村ひろし