坂城の100人 第43回目は西澤仁兵衛

 坂城の百人、第43回目は前回に続き、坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、西澤仁兵衛(にへい)(1808~1882)について記述します。

 内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載しています。

 

坂城町の寺子屋師匠(2)  西澤(にしざわ)()兵衛(へえ)鼠宿村)>

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 西澤仁兵衛の筆塚は、鼠宿の最南端、上田から来ると国道一八号線右側に整備された旧道の中程近くに建つ。中之条石で造られているためか、一部が剥落している。

         

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 寺子屋師匠の西澤仁兵衛と筆塚については、西澤卓郎氏が『さかき』創刊号(さかき歴史同好会刊)に「筆塚考」を書いているので、それらを参考にする。>

 西澤家は仁兵衛を称する者が多く、幕末には三代続き、寺子屋師匠をしたのは二代目仁兵衛昭敬である。仁兵衛昭敬は、文化五年(一八〇八)に仁兵衛昭方の嫡子に生まれる。幼名は圭蔵、成人して牧太、嘉永元年(一八四八)九月、家督を相続して仁兵衛昭敬と改名する。>

 仁兵衛は、幼少の頃より学問を好み、和漢の学に深く、書にも優れ、多くの門弟に読み書きを教えた。また、学問を通じて佐久間象山とも交遊があり、象山もよく仁兵衛宅を訪れたと伝える。>

弘化四年(一八四七)十月、上五明村の者たちが収穫した薩摩芋を上田へ持っていこうとしたところ、下塩尻村中島の者たちに差し留められ、更に用水揚口を切り落とされる事件へと発展してしまった。この時、仁兵衛昭敬は、父の仁兵衛昭方に代わり江戸へ出府したり、松代藩役所へ出向いたりして解決に尽力している。文久三年(一八六三)十二月、松代藩から「奇特之体これ有に付」として籾一五俵が下賜されている。>

 仁兵衛昭敬は、明治十五年(一八八二)七月十八日に亡くなる。筆塚は明治二十年十一月、幕末・明治に活躍した山岡鉄太郎(鉄舟)の書による。

              

坂城町長 山村ひろし